経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

日本と海外のギャップ

私は両親がニューヨークに住んでいる時に生まれ、4〜6歳頃までオーストラリアのメルボルンで3年間暮らしてきました。オーストラリアには様々な価値観を持った人々が住んでおり、お互いの意見を共有しながら交流を深めていきました。ここでは、どんな自分でも素直に受け止めてくれる友達に沢山出会うことができました。そのおかげで、色々な考えを尊重できるようになり、多くの人と仲良くしながら楽しい毎日を過ごしてきました。

私が小学2年生の途中で帰国し、それ以降は日本で暮らしています。しかし、4年生の頃から異変が起き始めました。日本は他国と比べて集団に合わせる風潮が強く、私はその文化に馴染むことが出来ませんでした。当時は周りの意見と違っただけで自分の価値観を否定され、同級生からいじめを受け続けていました。この出来事がきっかけでネガティブ思考が強くなり、相手を信じることが難しくなりました。その影響なのか、相手から言われたことを独自に解釈し、自分の感情を一方的に話し続けることが増えました。そのため、過去に家族や大学の研究室メンバーと口論になるなど、会話のキャッチボールがうまくできずに大変な日々を送ってきました。

その違和感から精神科を受診し、ASDとADHDが診断されました。やっと長年の謎が解明されたものの、派遣の工場勤務でも人間関係のトラブルが何度も発生しました。そのまま離職したことで仕事に対する自信を失っていき、ネガティブな思い込みがさらに強くなっていきました。

その後は就労支援を通して、パートの事務職に転職しました。仕事自体は出来ており、エクセルの入力作業はミスなくこなせています。その一方で、良好な人間関係をうまく築けずに悩んでいます。会社内でみんな楽しそうに話しているのに、私が話しかけると急に態度が変わったかのように笑顔が消えて返事してきます。自分から少しでも職場の人と仲良くしようと振る舞っても、どれも空振りに終わるばかりです。

そこから毎日寂しい日々を過ごしており、会社にいることが苦痛になってきました。また、上司からもっと周りに気配りするようにご指摘を受けると、なぜか自己否定されたように聞こえてしまいます。

例えば、仕事のミスで注意されると人生そのものを否定されたかのように感じます。ここから、「周りと仲良くできないなら、生きていても邪魔なだけ。だから、さっさと消えてほしい。」「君が死んでも社会に影響はないし、仕事ができる人だけ生まれてほしかった。」などの声が脳内で聞こえ、自分で攻めているのか、相手に追い詰められているのかわからない状況です。

また、私は仕事とプライベートの話を一緒にしないと理解するのが困難で、「周りに気配りをする=相手のことを100%考える」と無意識に受け取ってしまいます。自分のために言ってくれているのはわかっていますが、そのままでは知らない言語に聞こえてしまいます。

このことについて上司に相談したら怒鳴られてしまい、なぜこんなくだらないことで怒ったのか全く理解できませんでした。私としては、「大丈夫?あまり無理しなくていいんだよ。」と優しく言ってほしかったです。

海外はどんな意見も受け入れてくれたのに、日本は一つの価値観に縛られ続けているように見えます。そこから、日本と海外のギャップが大き過ぎることに失望しました。「どんな小さな悩みでも、素直に受け止めてくれる人で溢れたらいいのに」「自分はもっと特別であってもいいのに…」と感じてしまいます。まるで、自分でせっかく作り上げてきたオンリーワンの個性を潰しているみたいで気に食わないです。また、カメラ撮影やブログ作成など、自分に秘められた得意分野を仕事に活かせないのが勿体無くて悔しいです(以前、この仕事に挑戦したいと親に言ったら、収入が安定しないからやめたほうがいいと返ってきました)。

自分に合った改善法が未だにわからず、同じことを言い続けて逃げざるを得ないです。無理にでも周りに合わせろと言われても、生まれつきの特性で出来ない人もいるから、その人が生まれてはいけないのかと悲しくなります。仕事で自分勝手なルールを作ったらチームに迷惑がかかるからやめてほしいと言われても、「日本だって1億人もいれば、自分みたいに独自のルールがないと生きづらくなる人がいてもおかしくないのでは?」「協調性がないなら無理にチームの仕事に携わるよりも、一人で好きなことにコツコツと取り組める仕事があったらいいのに…」と苦しくなるばかりです。体調が悪化しても職場の人にどう伝えたらよいかわからず、「君の言っていることがわからない。」「自分の意見を押し通しているようにしか聞こえない。」と返ってきてしまいます。

思い込みをやめたくてもやめることが出来ず、自己肯定感が下がるばかりです。周りからアドバイスされても、思うように改善ができずに困っています。この絶望感から生きる価値がなくなり、「目の前で死んでも誰も気にしないだろう…」そういう思いで社内のカッターナイフで自分を刺そうと考えていたこともありました(実際に傷つけていません)。

死んだら大切な人に会えなくなる、やりたいことが出来なくなることは理解できています。しかし、この思い込みのループから抜け出せず、「自分は間違って生まれてきたのか?」「なんで世間で決められた一つの正解に合わせる必要があるの?」とぐるぐる思考が止まらない毎日です。

他にも色々ありますが、過去のトラウマから相手を簡単に信用できなくなり、自分の思い込み癖がやめられないです。どうしても自分か相手のどちらかに偏ってしまい、お互いを思いやれないです。何をやっても意味がなく、周りが振り向いてくれないので、自分が存在している理由がわかりません。もし自分が生まれてこなかったら誰にも迷惑がかからず、みんなはもっと幸せになれたのかなと思ってしまいます。ただの邪魔者でしかない自分が残念で仕方ありません。オーストラリアにいた頃のように、みんなでワイワイと楽しみながら、それぞれの良い点を伸ばしながら成長できる国に住みたかったです。日本って、若者にとってこんなに生きづらい場所なのか……

感想1

経験談の投稿、ありがとうございます。
読みながら、一つ同じようなエピソードを聞いたことがあるのを思い出していました。これは日本内のことなのですが、海外の風潮に近い(多様な価値観を積極的に楽しみ、自己主張が評価されるような)大学で楽しく学び過ごしていた人が、社会人になって集団に合わせる風潮の強い会社に入ってしまい、元気を失ってしまった、というような話です。又聞きの話なので詳しいことまではわからないのですが、あなたの話もその人の話も、理不尽でやりきれないなという気持ちです。

あなたが言うように、それぞれの向いていること、やりやすい方法をお互いに尊重できる方がいいよね…?と、私は思います。少なくとも、話をきちんと聞いてくれることも交渉の余地もなく、「あなたは間違っている」みたいに言われてしまうと、力を発揮しようにもできなくなってしまうのは自然なことだと感じます。そして、そういった扱いや否定が繰り返されると、自分でも自分が間違っているように思い始めて、いろいろな出来事にダメージを受けやすくなるなと感じています。(これはASDである私の実体験でもありますし、発達の凸凹に限らず個性的な人たちに起こりがちな悲劇だと思っています。本当は起こってほしくないのですけどね…)
そういうのを経験したり見聞きする度に、どうすればお互いの文化をもっと尊重できるようになるのだろうとは考え、いろいろ試行錯誤してきましたが、私なりに一つ言えるのは「お互いを尊重しよう」というスタートラインに立ってくれる人は「少数だけど確かにいる」ということです。世の中は一応、完全に捨てたものではないかもしれません。
でも残念なことに、お互いを尊重しようというスタートラインに立っていない人に対して話をした場合は、こちら側が一方的に傷つけられてしまうことが多いです。どうしてそんな非合理的でひどいことをするのだろう…?というのも、私はたくさん考えてみたのですが、個人的には「その人自身が個性を尊重された経験がないから」ではないかと思っています。尊重されたことがないのなら、尊重する方法もわからないかぁ…と。
ただ、もしそれが理由だとしても、他人を尊重しない行為をしても仕方ないということにはならないので、苦しんでいるあなたのことを考えると上司さんに対してもやもやします。

あなたの個性を理解し、どうしたら力を発揮できるのかを、一緒に考えてくれる人がいたらいいのですが…。私はよく、文化の違いを丁寧に教えてくれる(そして異文化間での交渉を手伝ってくれる)コミュニケーションの翻訳者みたいな人がいたらいいのに、と思っています。一応自分もやれる範囲ではその役割を担っているつもりですが、異文化間のコミュニケーションについては、もっと広く世の中に理解とサポートがあってほしいです。
①大前提として、多かれ少なかれ一人ひとり文化や価値観は違う、②だから相手のことも自分のこともお互いに理解しようとするのが必要、③理解した上でお互いがほどほどにやりやすいように交渉していこう、という土台を根づかせないと、息苦しい世の中で続いていく気がして怖いです。少なくとも、マイノリティ側だけが孤独に努力をしたり、自己否定を重ねてしまう世の中であるのは変えたいと思っています。
そんな志をもつ私としては、あなたの経験談を読めたのは、再び考える&頑張ろうと決意を強くするひとつの刺激になりました。

感想2

私は海外で暮らした経験はありませんが、見聞きする話と自分が生きている日本社会の現実をたくさん知る中で、日本社会はなぜ個性をこんなに無駄にするのか、多様な生き方を否定するのか、何と子どもや若者たちにとって生きづらいのだろうと常々感じていました。あなたのように実際に経験した人の話をこうして聞くと、本当にそうなんだという確信が強くなりました。そして、ぜひ、もう少し詳しく話を聞きたいし、実際にあなたが経験している日本社会でのたくさんのつらい状況についても具体的に教えてもらい、一緒にどうしたらあなたがあなたらしくのびのびと生きられるのか、そのために必要なことは何なのか議論したい気持ちになっています。
あなたの経験談はとても読みやすく、論旨が明瞭でかつ理論的でした。ブログ作成に興味があると書いていましたが、文章を書くのは向いているのではないかと感じました。今回の経験談のように、多様性が認められる社会と同調や社会適応を過剰に求められる社会では何がどれだけ違うのかという具体的な例もわかりやすく書けるのではないかと思いました。
また、自分自身の思考についてもよく理解していると感じました。それは、周囲とあまりにも違うことが多くて、分析したり整理して理解しなければ生きるのが大変だったから図らずも身についてしまったスキルかもしれませんが、自分がどういうときにうまくいかないのか、周囲から理不尽な扱いを受けるのかについても、経験談を読んで私にはイメージできましたし、私なりによく理解することができました。私は今まで、独特の感性や個性が周囲と折り合わず、周囲の反応の意味や理由が分からず戸惑ったり、傷ついたりした経験のある人たちと関わってきましたが、うまくいかないことを自らが把握することに苦戦することがよくあったので、あなたの分析力や客観的な視点はどこでどうやって身につけたのかな?と興味深く感じました。
私がただただとても残念に思うのは、あなたのように独特の感性や個性や力がある人が、その力を発揮できないこと、またできないどころか否定をされず、学ぶ機会を奪われてしまうことです。社会の懐の広さとでもいいましょうか、それが本当にちっちゃい社会に自分が生きていること、そして自分がその社会を構成している一人であることに忸怩たる思いがあります。だから、あなたのようにギャップを身をもって経験した人たちの力を借りて、社会の懐が広がっていくことを願っていろいろな活動をしています。あなただけではなく、死にトリに経験談を送ってくれる人たちはみんな、社会の懐を広げるためのヒントをくれると私は思っています。
どうか、少しでも理解をしてくれる人とのつながりが増えていくこと、そしてあなたの存在を否定するような人とはできるだけ離れることを願っています。少ないかもしれませんが、理解できる人やコミュニティはあると思います。少なくとも死にトリは理解したいと思いましたし、理解の輪を広げるきっかけにはなれるのではないかと思っています。
もしよかったら、これからも死にトリとつながっていてもらえると嬉しいです。

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