経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

普通に生きたかった

普通の家庭で生まれました。両親から愛されて育ちました。それなのに、私は歪んで育ってしまいました。
初めて死にたいと思ったのは小学校4年生の時です。算数が苦手で、足し算から躓いていた私は小4の算数についていけなくなりました。担任の先生は厳しくて、勉強ができない私を毎日詰りました。テストは黒板に貼られ、クラスメイトの前で立たされて説教され、心無い言葉を毎日聞かされました。
自分に価値があるように思えず死にたいと思うようになり、爪を噛んだり指の皮や唇の皮を剥きました。社交的で明るかったはずの私はどんどん暗くなっていきました。そして死が私の心から離れなくなりました。
初めてリストカットをしたのは中学2年生の時です。きっかけはあいさつが帰ってこなかったから。くだらない理由ですが、当時の自分にはそれがすごくつらくて自分はいらない人間なんだと思い、ハサミで薄く腕を傷つけました。
すごく楽になって、小さな嫌なことでもすぐに腕を切るようになりました。受験期になるとさらにひどくなり、心のつっかえを取り除くために深くたくさん切っていきました。
高校1年生の時、数学の成績の悪さに担任の先生から検査を勧められました。
境界知能で学習障害でした。生きにくかった理由がわかると同時に、境界知能であることを恨み、死にたい気持ちを誰にも言えないまま、気がついたら高校3年生になってしまいました。
死ぬこと、生きること。8年ほど考えました。死にたいと思う大きな理由はなくて、小さい生きづらさの皺寄せで今の私ができているのだと思っています。
ただ漠然と死にたい気持ちだけを抱えて勇気もないから、今歩いている歩道橋が崩れないかなとか、誰かが私を撥ねてくれたらいいのになとか、死を願って生きているだけです。
ずっとこのまま、毎日を死にたいと思いながら生きるならはやく死にたい。自分が生きていても迷惑をかけるだけだからはやく死にたい。生きていてもいいことがないからはやく死にたい。いっぱい愛されて育ったはずなのに、こんなふうになってしまって申し訳ないから死にたい。死ぬ理由はいっぱいあるのに生きる理由がないからはやく死にたい。
それなのに、死ぬ勇気もない。
もうずっと、私が死ぬまでこの気持ちは変わらないんだろうなと思っています。
それでもいつかはリストカットをやめて、死にたいと思わずに気持ちよく布団で眠ってみたいと思ってしまいます。
書き殴ったまとまりのない文章で申し訳ないです。

感想1

投稿をありがとうございます。

読ませていただいて、まず最初に強く思ったのが、あなたの担任の先生があなたにしたことは決して許されることではないということでした。ハラスメントと呼ばれる行為であり、あなたが自身のことを「歪んだ」と表現するように(そう思わせ、言わせるほど)あなたを深く深く傷つける行為をその教師はしたのだと思いました。教師というのは本来「子どもの権利」を保障する立場にあると私は思っています。完璧にそれができる人などいないとは思いますが、少なくともその権利を侵害しないように心がけるべきであり、そうした存在が著しく生徒の権利を侵害する行為をしたことに、強い憤りを覚えます。
そんな立場にいる人間があなたを傷つけたという事実は、あなたに「死にたい」と思わせるのにも、日常のちょっとしたことで「自分はいらない人間なのだ」と思わせるのにも、十分過ぎるものだったのだろうとあなたの経験談を読んで私は思いました。あなたは「死にたいと思う理由」として「小さい生きづらさの皺寄せ」と書いており、それはその通りなのだろうと思いつつ、深く傷ついた・傷つけられたことがあなたに強く影響しているように私は感じます。その傷を抱えながら、どのように生きていくことができるか、もしよければ一緒に考えたいと思いました。
ちなみに…あなたは挨拶が返ってこなかったことを「くだらない理由」と書いていますが、私はそれをくだらない理由とは思いませんでした。というのも、私は高校生活がうまくいかなかった人なのですが、最初のつまずきは挨拶が返ってこなかったことでした。あなたは「まとまりのない文章」と言いますが、そんなことなく、あなたの文章から私は忘れかけていた自分の傷つきを思い出す(私にとってこれはいいこと)ことができました。またよければ書き込みに来てください。ありがとうございました。

感想2

読んでいて投稿者さんがつらい思いをしてきたことを感じました。
「小さい生きづらさの皺寄せで今の私ができている」という言葉がとても印象的でした。そして、なんだかとても「わかる!」と思ってしまいました。
個人的なことですが、私も学校はとてもしんどい場所で、そこにいると自分の価値がないような気持ちにすぐになってしまっていました。それは「小さい生きづらさ」がいろいろな場面で生じて、しかもその「皺寄せ」を自分で回収しなければいけない状態だからだったのかも、と投稿者さんの文章を読んでしっくりはまった感じがしました。
投稿者さんの状況と自分の状況が同じだと言う気は全然ないのですが、多分、学校ってそういう「小さい生きづらさの皺寄せ」を感じる機会がたくさんある場所なのかも…という気がします。
日本の学校教育のことをいろいろ考えてしまいました。

これは聞いた話ですが、国によっては、子どもの能力を一律のテストで測ったりしないことが決められているところもあるようです。
一人一人の進捗に応じて、目標を決めるのだと聞きました。
よく考えてみれば「○歳の人だったら○○ができる」みたいな基準値はそこまで役に立つものでもないような気がします。
身長が一人一人違うように、声の大きさが一人一人違うように、できることも違うのは当たり前だし、その成長スピードも違うと思います。
また、学校で測れる能力もかなり部分的なのに、学校の中で過ごしていると、そればかりがすごく大事なことのように錯覚してしまう気がします。

個人的には、私はリストカットはしてもいいんじゃないかなぁと思っています。投稿者さんのつらい気持ちへの対処法の一つなのではないかと感じますし、私もいわゆる自傷行為はリスカも含めいろいろしながら生きてきましたが、それに助けられてきた感じもしているからです。(もちろん、する必要がないならしなくてもいいと思います)
「死にたいと思わずに気持ちよく布団で眠ってみたい」という言葉に、つい、布団の中にいる感じをイメージしました。温かい布団かな? それともちょっとひんやりしていて心地いいのかもしれない。ふわふわか、さらさらか、つるつるか。重みは? 枝葉末節かもしれないですが、そういう思考ではない部分の感覚みたいなものが、「気持ちよさ」に繋がったりもするのかも…とも考えました。

この経験談は全体的に端的な言葉で書かれているのに、ときに具体的な要素がふっと入ってきて、読んでいてイメージが飛び込んでくるような感じがしました。投稿者さんの持っているイメージの世界をもっと見てみたい、そこから言葉になったものをまた読んでみたいと思いました。
投稿ありがとうございました。

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