初めて出来た友達はいわゆるいじめっ子で、幼稚園から小学校とそのままイジメにあい、中学ではイジメにあわないように最低限の人としか話をしなかった。言葉を交わした事のないクラスメートの方が多い。高校に進学したが隠れるような生活のクセが抜けず。これまでの全ては自分がブスだからだと改めて納得。そんな時帰り道で痴漢にあう。30分ほど追いかけまわされるが付近の家に逃げ込んでも、こんなブスが?嘘だろう?という反応も怖くただひたすら逃げて暗がりに引き摺り込まれそうになった時にようやく逃げる事ができた。それ以来男が苦手。それからの進路は親に初めて反抗らしい反抗で大学ではなくやりたかった専門に。卒業後は専門で学んだ技術が活かせる仕事についたものの9時から23時までの仕事の毎日、自分の体力と精神が弱かったせいだろう、うつ病と診断された。現在は双極性障害で通院しているがこのまま生きていて楽しい事があるとも思えない。消えたいと思う。愛想笑いは疲れた。なんで愛想笑いだとみんな気付かないんだろう。相手してくれなくていい。首吊るのは失敗した。もう手段は海に飛び込むしか思い付かない。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
原因を探してしまう
感想2
経験談を読む中で、投稿者さんには、いじめや、痴漢などの性暴力が見過ごされてしまう環境で、自分で身を守る以外の手段を選べない状況があったのだろうと想像をしました。
また、長時間労働は人を疲弊させる場合も多く、だからこそ法的な基準が設けられているのだと思いますが、そのようなシステムがうまく機能していない場所だったのかもしれないと思います。
愛想笑いは、自分が思っていることと違うことをすることだと考えると、疲れるのも無理はなさそうです。投稿者さんが専門学校でやりたかったことがあると書かれていましたが、過酷な労働の中ではやりたいと思い続けるのももしかしたら難しかったかもしれません。
その中で、身を置いている環境を変えることが難しいと、自分に原因を求めるしかないと考えるようになるのも自然だと感じました。
自然だと感じたというのは、そうすべきだとか、それが正しいやり方だとかいうことでは決してありません。ただ、原因を自分に求めることがあったとしても、それは実際には投稿者さんが悪いからでもダメだからでもないと思いました。
死にトリでは、生きる上での苦しさは個人の問題ということではなく、社会の課題だと考えています。投稿者さんの状況を経験談から、世の中でうまく回っていないこと、人を苦しめてしまう仕組みが多いことを改めて教えてもらい、その機会をありがたく思っています。今後もよければ死にトリで、この世の中の課題をどのように解決していけばいいか、一緒に考えてみたいと思っています。
投稿ありがとうございました。
感想1
始めから最後まで、一息に話しているような文章だと思いました。何か結論を急いでいるかのような感じも受けます。でも、私は少しゆっくり想像しながら読みたい文章でした。何か、あなたが当時思っていたことや誰かにしてほしかったことなどが、色々省略されているような気がしたからです。
学校では、いじめに遭ったり、それからクラスメートと話すことを最小限に留めたりされていて、物理的に人は周りたくさんにいる、けれども安心して関われない感覚を想像しました。子ども時代をずっとそのようなコミュニティの中で生活してきたということは、今でも誰かが近くにいるだけで怖くなったりするのかもしれないなと考えました。
また、専門学校への進学が「初めて反抗らしい反抗で」と書かれていたので、子どもの頃から家では基本的に親の言うことに従ってきたのだろうと思いました。もしかしたら家でも学校でも本音を打ち明けられるような相手はいなかったのではないかと思いました。
そして、過去のつらかったことも現時点でつらいことも、他人には隠して「自分さえ我慢すれば、自分が頑張って耐えれば、自分が強くなれば…」という方向に考えていたのかもしれないなと想像しました。
人前では泣いたり怒ったりしないで、楽しくなくても笑っていないといけないのかなと想像すると、疲れるのは自然なことだと思いました。今の生活の中では、誰かの目を気にしなくていい、一人になれる時間・空間は確保できているのでしょうか…?
もし機会があれば、私はあなたと「優しさ」(またはそれに類するもの)について考えてみたいと思いました。思いを否定されずに表現できる場を持つこと、一人の時間・空間をむやみに妨げないこと、なども優しさのあり方の一つなのかなと私は思いました。それは子どものうちは大人から一方的に受け取る立場になることが多いのかもしれない(そして十分に受け取れるとは限らない)けれど、他の人の思っていることを少しずつ想像できるようになると、誰かが誰かに一方的に用意する・してもらうというより、相互に贈りあう関係なのかなと思います。そして、それは何か大層なことをしなくても、とてもささやかなことの積み重ねだったりするのかもしれないと思います。
消えたいと思うなかで、経験を綴ってくださってありがとうございます。烏滸がましくも、この文章があなたに届いて受け取ってもらえたらありがたく思います。