もう、一人ひとりに人生相談員が付けばいいのにな、と思います。
しんどくなってカウンセリングを受けようとして、予約がずっと先まで埋まってますって言われて、凹みながら体験談を書いています。
自分は発達障害の傾向があり、中でも表計算や素早い作業が苦手です(と、専用のテストを受けてお医者さんに言われました)。
今は会社勤めをしていますが、他の人はすぐに終わるような仕事もぜんぜんこなせなくて、誰かに相談することもできずにいて、苦しいです。
そもそも、夜の自殺防止電話相談とか、おかしいと思うのです。
いや、相談員さんが悪いとか意味が無いとか言っているのではなく。
折り返しの連絡をいただいて持ち時間一人十分とか、明らかに回っていないように思えるのです。
数をこなさなければならない状況が心を削るのは身をもって知っています。人員を増やすだけでは、やはり解決は難しいのでしょうか。
人が死にたくなるなんで、それこそ、五時間も十時間も、それこそ、一日中話し合ったって辿れないくらいの過程があるのではと思っています。十分なんてとても。話を聞いていただけるだけありがたいのかもしれませんが。
死にたい人の話を聞くって本来それくらい重くなるはずで、だからこそ、聞き手にも一日一人の相談で十分なくらいの安全と生活の保証を与えるべきで……やっぱり、それだと社会は回らないのでしょうか。
この死にトリさんも、裏側ではものすごくたくさんの体験談が来ていて、捌ききれなかったりするのかな、と思うと心苦しいです。
以前ドキュメンタリーで見たチャット自殺防止相談などもぜんぜん回っていなかった(軽度のものは後回しにせざるを得ない状況だった)ので、ここもそうなのだろうなと。
厚かましくもスタッフさんの負担を増やしてしまい申し訳ないです……本当はもっとしんどい方の対応をすべきですよね。
でも、すごく良い取り組みだと私は思いました。一件一件にちゃんと感想がつくって、理想だなって。本当にお疲れさまです。
ひいては、頑張りたくない人が頑張らなくてもいい社会になればいいなって思います。
「頑張れる人、頑張りたい人にどんどん勝利や機会が与えられる」のが自分の観測する限りの社会のトレンドなのですが、その手のがいい事のように会社などで言われる度に、頑張れない人や負けた人は勝手に死んでくださいというか、なんだか、救いのない道に突っ走っているように見えて、辛くなります。
頑張っていない身で楽がしたいだけなのかもしれません……もうその通りですと言ってもいいので、少しでも苦しいのが減ればいいなと。
いつか自分が辛くなって会社とかを辞めた時に、行く先があればいいなって思います。
生きているだけで、という理想が叶えられている世界が実現しないかな、と願ってます。今はどんどん人口も減ってるのでいつか叶うんじゃないかと思ったり。
自分はもう、今自分のいる会社の部署がきつくて、できれば自分ががんばって耐えて、最後に自殺すればちょっとは若者の気持ちも受け入れるんじゃないか、と、そういう野望を抱いています。
でも、そんなことをしても「死ぬまでは甘えだし、死んだら自己管理がなってない」っていうなんだか途方もない気持ちになるような価値観に阻まれるような気がして、とても怖いです。
いつも怯えているから、疲れてしまって、死にたくなっているのかもしれません。
死にたいと思ったときに確実に死ねる施設と法律があればいいなって、今思いました。
人生に疲れてしまった人が、手軽に棄権できる、あるいは生きることから逃げ切れる世界であったらいいなと思いました。
そして、それでもその人は棄権するまでがんばったんだと称えられるような環境であれば、それでやっと、ほっとできるような。
あとはやっぱり、人生相談員さんです。友達とか、結婚とか、そういうのではなく。
今を生きるのは本当に難しいなと思うので、一人に対してひとり、サポートをしてくれるくらいの社会でやっと自分は走れる気がします。今のひとり分をこなすには二人必要(そのうちの一人は相談役に徹するので仕事はせずにゆっくりしていていい)みたいな。
結局、自分が自分がって話なので、情けないですね……。
死にたいです。もう何をしても怒られて苦しいんだという感じで家から出れなくて。孤独を感じていますが、うまく助けを求めるって本当に難しいですね……自助、できるだけ頑張りたいと思います。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
生きるだけで目が回りそうです
感想2
経験談、読ませていただきました。しんどい気持ちを抱えながら生きてきたからこそ、気付くことや提案など、興味深く読みました。人生相談員さんというアイディアもなるほどなぁと思いました。私も子どものうちから親以外に話を聞いてくれて味方になってくれる人が配置されたらいいのにと、ずっと思っていましたので、発想に賛同するところがありました。自殺防止の電話相談やチャット相談も回っていない感じがするのはその通りだと思います。それだけ、今の社会ではしんどい思いをしている人がたくさんいるということですよね。おっしゃる通り、今の社会は変わってもらいたいと思っています。
私が一番印象に残ったところは『「頑張れる人、頑張りたい人にどんどん勝利や機会が与えられる」のが自分の観測する限りの社会のトレンド』という部分です。本当にその通りだと思いますし、だからこそ「頑張りたくない人が、頑張らなくてもいい社会になればよい」と思うのはもっともだと思いました。私がそれに付け加えるとしたら、「自分を否定したり、死にたくなるまで、頑張らなくてもいい社会になればよい」と思いますし、「それなりに頑張りたい人が、頑張りがいのある社会になればよい」と思っていますが、どうでしょうか?
また、死にトリの活動にも気遣いをしていただき、ありがとうございます。社会の現実に打ちのめされながら頑張っているので、気遣っていただけることはありがたく、嬉しいです。こうして、お互いを想像しながら、相談とか、支援とかの立場を超えて一緒に考えていくことができればと思って、死にトリをやっています。あなたのように貴重な発想を持っている人がたくさんいるので、そうしたアイディアも出せるような機会も作りたいと思っています。今後ももしよかったらアクセスしてみてください。
感想3
死にたくなる過程について、「五時間も十時間も、それこそ、一日中話し合ったって辿れないくらいの過程があるのではと思っています」と書かれていて、そのとおりだと思いました。そもそも死にたい気持ちの有無に関わらず、人生をかんたんに語り切ることができるはずはないと、私は感じています。
それぞれの多様な人生の中で、自分ではどうしようもないようなつらさや困難を感じたときに、頼れる相手はとても貴重だと思います。
でも、実際にはなかなか会うことがむずかしいこともあると思います。だからこその電話相談などだと思いますが、それも必ずうまくいくものではなく、期待はずれだと感じたり、困ったりすることもありそうです。
投稿者さんは、そのことにもまた困っているのかもしれないと、読んでいて感じました。
「頑張れる人、頑張りたい人にどんどん勝利や機会が与えられる」という社会のトレンドがあると書かれていました。私もそのような傾向を感じることがあります。
ただ、むずかしいのは「頑張る」という言葉にさまざまなニュアンスが含まれることかもしれません。少なくとも、「頑張った」かどうかをわかりやすく見える結果だけで判断する指標であれば、それは実際の頑張りとは無縁だとすら思います。
また、このトレンドは言葉通り潮流・流行でしかないとも思います。そうだと言ってもその中に身を置かざるを得ない場合があるのも事実だと思いますし、他の環境があるとしても、それがどこなのか知ることは中々できないかもしれません。
世の中では、見えているもの(たとえばなんらかの能力や貢献など)だけで評価が決まり、そして評価によって得られるものが決まり、しかもその差がとても大きいということがありそうだと思っています。
ですが、本当は評価も価値も関係なく、必要なものが必要な人に行き届くようにしていくことのほうが大切だと私は思っていますし、そうなるためにできることはないのだろうか?と思うことも多いです。
ただ、それを最初から完璧に望むことはむずかしいとも思います。だからこそ、少しずつ工夫を凝らしていくのがいいのかなとも思います。
(話を膨らませすぎてしまっていたらごめんさない!)
実務的に「回る」かどうかということを心配されていたり、実際「回っていない」ような状況について指摘されていて、たしかにそういう部分もあるのかもしれないと思いました。
でも、たとえ回り切らないとしても、すべてできないとしても少しずつでも進めていくことが大切なのかな?とも思います。少なくとも死にトリに限って言えば、スタッフだけではなく、投稿者さんを含め、参加してくれる全員で作る場所であり、実際そうして作られてきたのだと考えています。
その参加のひとつのやり方が経験談の投稿です。私は、経験談を読むことで、多様なエピソードや感覚などさまざまなことを教えてもらい、考える機会をもらい、力をもらっています。
また、経験談をサイト上に掲載させてもらうことで、「こういうことがあるんだ」「自分と似た経験の人がいるんだ」など、世の中にあることを知ってもらう機会にもなっていると感じています。
経験談のコンテンツはそのひとつでしかないですが、相談という形以外にもさまざまな形で知恵を共有し合い、協力し合い、誰かひとりで負うのではなく助け合える社会に向かっていければいいな、と考えています。
個人的な話ですが、私自身も発達特性が強く不適応を長年起こしてきているためか、「もう何をしても怒られて苦しいんだという感じ」は非常に身に覚えがある感覚だと思いました。
無力感の中で生きていくことのつらさは(同じではないかもしれないけれど、ほんの少しだけは)わかるかもしれません。生きるだけで目が回りそうな生活の中で、貴重な文章を送ってくれてありがとうございます。
…といっても、なんらかのアクションを強いるつもりはまったくありません。できることなら、投稿者さんがなにかに苛まれることなく、ゆっくり考えごとをしたり、ぼんやりしたりする時間があることを願っています。
でも、こうやって読ませてもらえたこと、関わらせてもらえたことがうれしいです。ありがとうございました。
お返事1
■感想1さんへ
自分が今身を置いている職場が、激しい国際競争を何とか勝ち抜こうとするような社会の中にいるので、競い合いや奪い合いの文化があるのかもしれないなと感じました。特に、生きているだけで認め合える、という関係からは遠そうです……よく、他の部署や社員の存在意義を否定する言葉が飛び交っています。
自分が苦手なことを必死に押し隠しているから、相手側は無理に押し付けている自覚はぜんぜんないのかもしれません。苦手を表に出すことは本当に怖くて、それで苦しんでいる人はたくさんいらっしゃいそうな気がします。
やや話が逸れてしまいますが、「全ての人が生まれた時から人生を全うするときまで可能な限り安全な環境で暮らせること」を大切にするべきと思えるのは、この国ならではのことなのかもしれないなと思いました。
その考え方は本来、社会というものの下地に置くことができれば理想なのかもしれません。自分としては、経済とか治安とか、そういうものが強固な基礎として築かれていてやっと目指せる理想のように見えています。経済の国、日本でずっと生きてきたが故の価値観というか、無意識というか、少しはっとした気持ちになりました。
確かに、経験談投稿時の自分は相談とか支えてもらうとか、けっこう受け身な心境で書いてるなと感じました。死にトリさんのサイトにもそういう気持ちで訪れていたような気がします。支え合うという感覚はたぶんまだよく分かっていないのですが、あえて相談という形式を取らないという点は、これからサイトを訪れる際にも意識していきたいです。
「頑張る」のイメージを自分なりに考えてみたのですが、川の流れとか逆風とか、そういうものに耐えて踏ん張る感覚でした。たくさんの支流や道があって、その粘性というか、前への進みにくさは人によってぜんぜん違うのだろうなと思います。自分はそこに混じる小さな棘とか、深さとかがかなり気になってしまって、怖がっているのかもしれません。
支え合いの関係の作り方については前述の通り、私はとても初歩的なところから始めないといけなさそうです。感想者さんが考え続けることを応援しますし、自分も(余裕があるときに、と申し訳ない前置きを置いてしまう現状ですが)考えていこうと思います。
とても丁寧な感想をありがとうございました。
お返事2
■ 感想2さんへ
この感想をいただくまでの間に他の方と似たような話題で話す機会があったのですが、「社会がすごい勢いで方向転換しているから、船酔いみたいに心が苦しくなる人が多くなっているのでは」という意見になるほどと感じました。「社会なんて何も変わっていなくて、時代だけ変わって今まで潜在的に苦しかった人が見えるようになってきただけ」というのが私の意見でしたが、本当はどちらなのか、あるいは両方だったりするのかもしれません。
「それなりに頑張りたい人が、頑張りがいのある社会になればよい」という意見は自分としても頷けます。現状、そこに強制が無ければ私は良しの判定なのかもしれません。「頑張らなきゃ」が自分の中でかなり苦しいようなので……。「自分を否定したり、死にたくなるまで、頑張らなくてもいい社会になればよい」の言葉には何度も頷いていました。
ブログの記事などを拝読させていただいている際にも、スタッフさんが社会の現実に厳しさを感じていらっしゃることが伝わってきました。やや大げさな表現かもしれませんが、他の方の体験談を読ませていただいているときに、こんなにまっすぐ届く言葉たちもなかなかないな、と感じることがたびたびあります。ブログの記事などでは、私が感じる社会の考え方と、それにあまり馴染まない自分の考え方と、また更に違う見方を発信されていてとても興味深いなと感じています。
何と言うべきか、病院や相談室などは、そこに訪れる必要がなくなることを目標としていることが多いように感じられますが、死にトリというサイトはどうなのだろう、とふと感じました。死にたくなくなって解決、サイトを開かなくなることが正解、ではないのかな、と。
私はけっこう気持ちに波がある人なのですが、別に死にたいような気持ちでなくとも記事や体験談を読みに来ることがあります。想定と違う来訪者であったとしたらごめんなさい、の気持ちです。そのため、少し聞いてみたくなりました。
お話を聞いてくださり、ありがとうございました。
お返事3
■感想3さんへ
テレビ番組などを見ていると特に感じるのですが、その人の人生のほんの一部だけを切り取っただけなのに、それがその人の全てのように受け取りそうになることがあります。
人によっては言葉での表現が難しく二言三言で終わってしまうこともあれば、そこから無理やり過程を引きずり出すようなことは良くないですが、それでも「誰かの人生をかんたんに捉える」のは避けた方がいいのかなと思っています。
そうですね。電話相談などに重めの期待を込めてしまっている自分にも困っています。そもそも、人に期待しすぎるところがある……と自分の未解決課題にぐるぐるしてしまいます。
他の方の感想でも言及していただいたのですが、「頑張る」はかなり幅があるというか、とても主観的、と表現するべきなのでしょうか。それが見える結果だけで判断する指標となっていることには覚えがある気がします。
「必要なものが必要な人に行き届くようにしていくこと」は自分でもなんだかほっとするような気持ちになります。自分が必要としているものを見つけることは難しいかもしれませんが、なんだか、その前提だと比較的楽に言葉が浮かんでくるようでした。
自分は白黒、ゼロ百思考がとても強いと感じていて、自分が書いた文章を振り返ると、その傾向が出ているのかもしれないなと感じました。助けを求める人を全てカバーしきれていないと意味がない、みたいな考えに陥りがちです。
「たとえ回り切らないとしても、すべてできないとしても少しずつでも進めていくことが大切なのかな」という発想が自分の中にはなくて、自分自身に驚いたりしていました。
個人的な意見とはなりますが、体験談の掲載はその「少しずつでも進めていくこと」として確かな歩みをしているのかなと感じています。
他の方の感想返信にも書いた通り、死にトリサイトさんへの向き合い方が不器用な私ですが、体験談に教えてもらうという感覚は確かによく抱きます。いつかのブログで仰っていた、文章の上手さとかは何も関係なく届かせてくるものがある、という言葉に共感を覚えました。
体験談は個人でそう何度も投稿するものではないかなと思いますし、チャットがやや不得意で参加できずで、時折サイトに来てアクセス数に貢献するくらいしかできることがなくて申し訳ないです。この体験談だけでも力になれましたら幸いです。
休日も含めて、仕事以外は特に何もせずぐったりしているような生活なのですが、目が回りそうという感覚は抱いたままです。怠け者、と自分を責めてしまうから余裕がないのかもしれません。対処法は……うーん、無策……みたいなふんわり希望のない現状でした。
ゆっくり考え事をしたり、ぼんやりしたりする、とても素敵なことですね。あんまり暗いことばっかり言っていても辛いので、どんな社会ならそれができそうか、考えてみたいなと思いました。
こちらこそ、このような関わりをつくってくださり、本当にありがとうございました。
感想1
文章を読んで、今の世の中では、利益や目的のために競い合い奪い合うような関係ばかり多くあり、安全な対話の機会や、生きているだけで認め合える関係が少ないのだろうか、と思いました。
今の会社では、あなたが苦手なことを無理にやるように求められてしまうのかなと想像します。仕事は、それぞれの発達の傾向を考えて、なるべくマッチしていることをできるように分担した方がいいと思いますが、まだまだ発達の傾向について理解が広まっていないのかな、と歯痒く思います。
人生相談員というアイデアは、私にとって考えるヒントになるところがありそうだと思いました。ただ、話を聞くだけでは、現実の困難は変わらないということも多々ありそうです。相談だけではなく、現実の生活を協力してやっていく人やコミュニティも必要なのかなと思います。
私は、社会はあくまでも私たち一人一人が安全に暮らしていくために整備されるべき仕組みであると考えているので、社会を築くために誰かの安全な暮らしを犠牲にするというのは本末転倒だと思います。どのような社会的立場であっても、どのような発達の傾向を持っていても、全ての人が生まれた時から人生を全うする時まで可能な限り安全な環境で暮らせることが、まず大切にされるべきではないかと思います。
死にトリというサイトは、支える人と支えられる人という関係になるのではなく、全員で支え合う場だと思います。本来は、電話やSNSの相談であっても、相互に支え合う関係であるはずだと思っていますが、どうしても相手の話を聞く人が支えているという意識を持ったり、自分のことを話す人が支えてもらうという意識を持ったりしてしまいやすいのかなと思います。だから、死にトリではあえて相談をしていないのだと思います。
「頑張る」というのはどういうことかよく分からないのですが、「頑張る」の程度によって生きることを否定されたり排除されたりすることがあるというのは、恐ろしいことだと思います。
そんな恐ろしいことが起きている(ように見える)中で、怖いという感情を持つのは、おかしいことではなくむしろ健全なことだろうと思います。
太陽や星が頑張っているわけではないけど動いているみたいに、川の水が頑張っているわけではないけど流れているみたいに、私たちも生きられたらいいのかなと、あなたの文章を読んで思いました。そのためにどんな支え合いの関係が作れるといいのか、これからも私なりに考えたいですし、またあなたの考えも知りたいなと思いました。