経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

過去と今と未来。

私は今までに2回、精神的に辛い時期を経験したことがあります。

1回目は、高校受験の時期でした。住んでいる地域の中で有名な進学校を受験することになった私は、プレッシャーとプライドに押し潰されて精神を病みました。ご飯が食べられなくなったり、動悸がするようになったりと状態が著しく悪くなり、最終的には精神科を勧められる程度にまでになりました。タイミングが合わず実際に受診はしなかったものの、もし受診していれば、摂食障害や受験うつの診断が降りていたと思います。
2回目は、高校1年生の秋から今年の7月にかけてでした。ありがたいことに第一志望校に受かった私は張り切って勉強、部活、行事に取り組んでいたのですが、秋頃にキャパオーバーし、思うようにいかない毎日にストレスを溜め、だんだんと物忘れや動悸、気分の極端な変動を起こすようになっていきました。今年の1月ごろに精神科を受診し、薬の処方が始まったものの一向に改善されず、自分はもう絶望的な状態なのだと思い込むようになりました。今思えばまだ序の口だったのですが、当時の自分にとっては八方塞がりな状態でした。

特に2回目に至っては1回目より状態がかなり悪く、強い自殺念慮や他人への依存が起こっていました。また、オーバードーズや首絞めといった自傷行為にも走るようになっていました。中でも、自殺念慮については特に酷く、「今年の7月に死ぬ」と決めて、毎日のように死ぬ方法を探してネットをさまよっていた程でした。

ですが、現に今私は生きています。「今年の7月に死ぬ」を乗り越えたのです。1回「死」を乗り越えた分、私の心は強くなり、他の症状も劇的に改善しました。また、1回「死」に真っ直ぐ向き合って心を削った自分を大事にするようにもなりました。勉強も部活も行事もマイペースに、自分の歩幅を守るようになったのです。

それでも、未だ自分の中に「死」が残っていて拭いきれません。どうやら、まだ私は心のどこかで「死にたい」と思っているようです。むしろ、「今年の7月に死ぬ」を実行できなかったことを後悔し、「どこかでは絶対に死なないといけない」と思っている、と言った方が正確かもしれません。

ちょうど今、私の通っている精神科の先生から「あなたはADHDかもしれない」という話が出ています。確かに、私は不注意(注意散漫)の傾向があり、気分の極端な変動(躁状態やうつ状態)もあります。となると、私は本当にADHDなのかもしれません。
また、私にはASDがあり、頭の回転や記憶力がとても優れている一方で、視覚情報にとても弱いというギャップを抱えています。
このようないわゆる「生きづらさ」と呼ばれるものが、「どこかでは絶対に死なないといけない」という思いを強めているのかもしれません。

ですが、本当は私は死ねないのです。死ぬための度胸がない、というのが理由の1つですが、今まで私を支え助けてきてくれた方々にまだ恩返しができていない、というのが大きな理由です。
「今年の7月に死ぬ」と思っていた時、私は割と本気で色々な手段を試していました。薬をたくさん飲んでみたり、気を失うまで首を絞めてみたりしました。ですが、死ぬのはやっぱり怖くてどうしようもなくて、いくら死にたいと本気で思っても大きな一歩は踏み出せませんでした。本当に死にたいならなんでもすればよかったのですが、その度胸は私にはなかったのです。
また、私は中学高校と、たくさんの先生方にお世話になってきました。特に高校1年生の秋以降精神を病んだ時期には、毎日のように先生方とお話をしてなんとか命を繋いでいました。時には、先生方の休憩時間や放課後の時間を私のために充ててもらうこともありました。たくさんたくさん、私のために時間を割いてもらっていたのです。それなのに、何も返さずに死ぬわけにはいきません。生き抜いて、私の元気になった姿を見せるのが、私にできる最大の恩返しだと思っています。

死ねない、でもどこかでは絶対に死なないといけない。同時には成り立たない2つの思いが私の中には常にあります。この2つの思いは間違いなく私のものですが、私にはコントロールができません。2つの思いは常にぶつかり合っています。

でも結局、死ぬにも生きるにも、そのための行動を取るのは私自身です。全ては私自身にかかっています。その重みが、その責任が、私は大嫌いです。
誰かが私の命を握ってくれたらいいのに、と思う毎日です。

感想1

読み終えて、あなたの7月を超えたことによる変化は、死ぬことをリアリティをもって突き詰めたからこそ、自分の存在の輪郭が少しはっきりしたという話なのだろうか…などと想像を巡らせていました。
頑張ろう、頑張らねばと思ったことへスイッチを入れた時、キャパオーバーになる自分を止められず、死にたくなっていく…というのは自分と被る部分もあったので、ASD(私もASDです)の共通点だったりするのかもなあ、と考えたりもしています。

死ぬ→死ななくてはならない、お世話になった→恩返ししなくてはならないなど、目標設定したときの極端さが、あなたの一つの大きな特徴なのかなと私は思いました。
目標達成のプレッシャーについては、個人の特徴だけでなく、(とくに受験については)置かれている環境の問題も勿論あるとは思います。でも、「今年の7月に死ぬ」は、おそらく誰かに強制されたものではないはずで、何かあなた自身から湧きおこる強いイメージや思念であるように私には見えました。おそらく他の多くの人たちは、もうちょっとゆるくテキトーに、忘れっぽく生きています。
目標の明確さとそれへの勢いのようなものが、若さ(体験したことある世界がまだ狭い)ゆえなのか、ASDの特性と関係しているのか、はたまたその他の何かなのかは、私にはわかりません。でもそういった目標志向が、あなたの生きづらさの一つの要素にあるかも…?とは感じました。

また、死ぬための「度胸」がない、という表現が私には印象的でした。
私は10年以上希死念慮を抱えており、ピーク時は行動にかなり近づきもしましたが、あのとき自分が死ねなかったのは「度胸がなかった」からという感覚はありません(自分の場合は、世界の全てを憎みきることはできなかったから、な気がします)。行動に移して、結果的にたまたま死ななかっただけの人から話を聞く機会も私はあったのですが、死ぬために必要なのは度胸よりも、勢いや狂気や、恥辱感や、そんなものにも感じました。
なんというか、つまり・・・私は、自分の意思で自分の行動を完全にコントロールすること自体が、人間には不可能に感じていて。「度胸」という表現は、死は意思で成し遂げられるものだ、という感覚があるように思えたので、本当にそうなのかな?と、言ってみたくなってしまいました。
そもそも人間の意思は、私の経験的に十分には本当じゃないことが多いですし(私のピーク時の「死にたい」は「苦しみに気づいてほしい」が本当の意思だったと思います)、今は「自分ができなかったことは、実は本当にやりたいことではなかったのかもしれない」と考えるようになっています。

だから、生きるも死ぬも、そのための行動をとるのは、本当に自分自身なのだろうか?と私はちょっと思ったりします。少なくとも、今生きているのは「生まれてしまったから」でしかないと私は思っているし、感情も「だってそう思ったから」というコントロール不能なものだと感じるし、自分で自分の舵取りはどこまでできるのか・・・まだ、私にはよくわかっていません。
私の命を握っているのは、成り行きや運命だった気がするし、これからもそういうものなのだろうと思っている気がします。

なんだか自分のことばかり書いてすみません。
私の意見の押しつけや自分語りをしたいのではなく、あなたの自己理解の参考になる一つのサンプルになるかもしれない、と思って書いていたつもりではいます。
経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

段落ごとに展開される明瞭な文章に、あなたも書いてくださった頭の回転や記憶力のよさを感じつつ、いろいろなことが見えすぎてしまう故の苦悩と葛藤を一人抱えているようにも感じました。
一度ならず二度も苦しい経験を経た今、ご自身に起こったことを振り返りながら、いつも両価的な思いの間で揺れている姿を想像しました。

受験については、相応の実力があったからこその選択だったようにも感じましたが、なかなかにストレスフルな期間だったと思います。精神的にも肉体的にもしんどい中を、やっとの思いで乗り切って進学されたのですかね。
入学後、少しだけ肩の荷が降りたと思ったところで、頑張りたい気持ちとは裏腹に焦りや不安でいっぱいいっぱいになってしまったのかなと感じました。ご自身の実感として、前回の不調よりもさらに悪化しているように感じられたのですかね。通院と服薬を始めても改善の兆しが見えなかった中で、もう元には戻れないのか、自分はずっと苦しいままなのではないかという絶望があなたを覆っていたように想像しました。(あなたの気持ちと違ったことを言っていたらすみません)

「今思えばまだ序の口」と書かれていたように、その後凄まじい希死念慮の波に襲われて危機的な状況に陥っていた中で、一度「死」に真っ直ぐ向き合ったという経験が、行動の部分においてあなたの中に何かしらの変化をもたらしたのでしょうか。自分に向き合う時間は、なかなか勇気とエネルギーが必要な瞬間だったのではないかと感じました。
それでも拭いきれない「死」への思いは、実はどこかで自分自身の心のバランスを取っていたりするのだろうか・・そんなことがふと頭に浮かんでいます。
「死ねない」と思うことも、「死ななければいけない」と感じることも、どちらもあなたの真剣な気持ちだと伝わってきて、度胸がないということはまた別のことのようにも感じました。また、ご自身の傾向についても触れられていましたが、意図せずとも認知や理解の方向によっては、思いを強化することもあるのかなと思いつつ、みんなそれぞれに何かしらの特性や傾向はあって、自分の力だけでどうこうなるものでもないよな・・と悩んでいます。

ずっと心の隅にある「死にたい」を静かに見つめながら、あなたの苦しい時間を支えていた人たちがいたことには、少しだけ安心しています。
終盤に綴られた苦しそうな葛藤には、あなたと全く同じではないことを踏まえつつ、時折死にたい気持ちに身体ごと飲み込まれる私自身をクロスオーバーさせながら読んでいました。「死ねない」と思えば思うほど、「死なないといけない」とも強く思う・・綱引きのように押しては引いてを繰り返す中で、自分ではなかなかコントロールの効かない衝動でもあると感じています。
今後に思いを馳せて「全ては私自身にかかっています。その重みが、その責任が、私は大嫌いです」と書かれていますが、どちらも選べない、選びたくないという果てしない葛藤そのものが、あなたの苦しみであるように想像しました。そして、その葛藤を通じて、あなたの「生き様」に触れたような思いでもいます。簡単に決着のつく気持ちではないと思いますが、またよかったらお話を聞かせて下さい。経験談への投稿ありがとうございました。

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