経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自己嫌悪は究極の自傷行為

私は発達障害と精神障害を患っている。
私は1年半ほど、オンラインの在宅ワークのB型事業所を利用していた。
そこでできることは、単純なデータ入力の作業だ。ここでは仮に事業所1と呼ぼう。
事業所1はルールが非常に緩く、やりとりはチャットのみで、納期さえ守れば出勤回数に規定はない。そのおかげで私はある程度の期間、仕事を続ける事ができたが…
ある日私は気づいてしまった。入力作業が苦痛である事を。
私は感覚過敏と言われるほど非常に繊細で、敏感で、刺激に弱く、入力作業中に特定の単語が頻繁に出てくると、頭の中がその単語でいっぱいになり、やがてノイローゼに陥ってしまった。
また、単純作業は非常に退屈で、時間の進みが遅く感じてしまった。こういった事にこれまで気づかなかったが、その時から急に気づき始めてしまったのだ。
そして私は事業所を変える事を決めて、広告のデザインなどもっとやりがいのありそうな仕事ができる事業所(仮に事業所2と呼ぼう)に移るため、事業所1をやめたのが今年の3月。

そして4月、事業所2に移動した。
そこはB型事業所としては割と本格的で、同じオンラインの在宅ワークであれど、作業中はビデオ通話を繋ぎっぱなしにしなければいけなかった。そして指示などのやりとりは口頭で行われる。おそらくこれがこれから起きる悲劇のトリガーなのだろう。
広告のデザインは確かに楽しかった。元々興味があり、自分のセンスを活かせるということもあって、最初のうちは意欲に満ちていた。
そして完成品を提出し、チェックしてもらったところ…
「全体はいいんですが…この部分の色/画像はちょっと別のものに変えてください」などといった“直しの指示”を受けた時、何故か私は深い悲しみに包まれた。
何故なのかは自分でも分からない。ただ、今思えば、自分の創り出したものに異常な入れ込みをしていたようで、自分の創り出したものへの否定=自分への否定、のように思ってしまったのかもしれない。
それが何度も続くうちに、どんどん情緒が不安定になっていき、自己嫌悪をこじらせ、悲劇は始まった。
事業所2の人とは何度も面談し、相談した。「私の作ったものには直しを入れないでください」という要求は流石に受け入れられなかったので、「確認後、無断で直しを入れる」という案に落ち着いた。
しかし、今度は「直しが多すぎて報酬を支払えない」と言われ、それは止めることにした。そう、仕事のパフォーマンスは既に落ちていたのだ。
そしてその代替案として、「口頭ではなくチャットで指示を入れる」という案に落ち着いたが、ある時スタッフさんがうっかりチャットではなく口頭で指示をしてしまった事により、私の精神は限界に達した。
それでもこれまでの経験によりこじらせた自己嫌悪は私の労働からの逃避という選択を許さず、事業所1の空きを待って戻る事にした。
これが今年4月~8月までの出来事である。

そして時は11月頭。事業所1から「空きができました」との連絡。
それまで私はオンラインゲームにのめりこみ、苦しみを忘れて穏やかな日々を送っていたが、その連絡だけで極度の不安に陥りパニックを起こした。
働かなければいけない、でも一度嫌になった事業所でまた働けるか不安だ、でも働かないのは悪い事…と、瞬時にいろんな感情が溢れ、ぐるぐると脳の中を瞬時に駆け回る。
それ以降、私の情緒は頻繁に乱れ、母とも何度も口論し、呆れられた。
自己嫌悪はこれまでの生活ですっかり癖になり、自分を甘やかす機会はめっきり減っていたため、自分を許さない私は嫌な気持ちに無理やりフタをして、数日後、事業所1と再度契約を結んだ。

そして初仕事の日。
「あれ…仕事って、こんなにつまらなかったっけ…」と私は思った。
何度入力してもぜんぜんやった感じがしない。周りの景色が、心の中が、どんどん灰色になっていく感覚。そう、事業所2の仕事は直しさえ入らなければものすごく楽しかった。それを知ってしまった以上、もうデータ入力は虚無なのだ。
それでも私は諦めなかった。自分を許せないからだ。
「いや、仕事はつまらないものだって、お父さんも言ってた。だからつまらないからという理由で仕事をやらない自分は悪い子だ。」と思って、どうにか無理やり続けようとした。
そしたら、だんだん何故か悲しくなって、涙がぼろぼろと出てきてしまった。
結局、その日は10件も入力できずに終わってしまった。

その日以降、趣味のゲームをしていても、いや、ゲームさえできずに、漠然とした不安と仕事への恐怖に心を支配されていた。

働かないのは悪い事なんだよ?仕事は選んじゃいけないんだよ?つまらないからという理由で仕事をしないなんてガキじゃないんだからダメなんだよ?とひたすら自分を責める自分と、
いやあんなつまらない事続けられるか!やりがいがないと楽しくないし続けられない!そもそも私は仕事をするだけの機械になんてなりたくない!とひたすらそれに反証し続ける自分が、
心の中で何度も言い合いをしながら2日間ほど不安をあおり続けていた。

あまりにも連日泣き叫ぶものだから、両親も迷惑していて、数時間に渡って私と言い合いを続けた。
でも私は正直、働かなきゃいけないと思うようになったのは両親に迷惑をかけたくないからだし、両親もまだ50代とはいえいつまで生きているか分からないし、入りたかった女性用グループホームの空きもいつまであるか分からないから、早くグループホームに入るためにB型事業所での仕事をするしかなかったのだ。
だがこの心が、情緒が、あまりにも壊れすぎていて、それに振り回されて、ブレーキがなく器も小さいこの出来損ないの壊れた心を無理やり動かしたツケがたった2,3か月で回復する訳がないとも気づかないまま、自分でもどんな選択をしているかさえ分からずに、前に進まなければいけないという強迫観念にも自分いじめにも似た感情のまま見切り発車した結果がこれなのだろう、と今は思う。

そして私は諦めてしまった。
こんなぶっ壊れた情緒のままで働けるわけがない、こんな幼稚園児レベルの情緒のままではいつまで経っても働けない、でも感情のコントロールを学ぶ心の余裕さえないまま年齢だけ重ねた結果、もう30が目前まで迫ってきているというのに、私はいつになったらまともに生きていけるようになるのだろう?

こうして、事業所1を再びやめる事にした。
この選択が正しいのかは分からない。けれど障害者雇用よりもずっと、ずっと、手前のステップさえ、たかが情緒が不安定なだけで踏む事ができない人間は、働かないという選択をとるしかないのだと思った。

だが、私はなぜこんな思いをしてまで、罰ゲームのような人生を送らねばならなかったのだろう?
前世が重罪人だったから?神様の悪意?それとも運命のいたずら?
なんで私なの?他の人でも良くない?なんで生きてるの?なんで生まれる前に死ねなかったの?

私がつらチェックをやったところ、最も高かったのが
Category 4
『◯◯の求める理想の子にならなくては·◯◯しろ けど、解放されるイメージも元気もないから死にたい(殺されたい)』
だったが、親はどちらかというと放任主義で、何事も「本人に任せるわ〜」で逃げてばかりであり、(ちなみにこれの原因は私が親のアドバイスを全否定ばかりしていたせいで親が保身的になってしまったのだ)
その強迫観念を作り出しているのは、他ならぬ私自身なのだ。

自分が一番、こんな自分を許さない。しかし、自分に苦しめられる自分が居るのは分かっている。
だが私は、自分を責めすぎて、自分を許す方法を分からずに居るのだ…。

感想1

投稿ありがとうございます。あなたの仕事との関わりと、その中での自分自身への思いについて、丁寧に状況を整理しながら書いてある経験談だと感じました。
読んでいてまず感じたのは、自分にとって「いい」仕事を探したり、見つけたりすることはとてもむずかしいということです。
事業所1での仕事は、起伏が少ない中で、あなたが囚われてしまうような語彙が出てきていたということで、その時間を過ごすのがとても大変だっただろうと思いました。もしかしたら、途中で気晴らしに席を立つとか、部屋の中を深呼吸しながら動き回る、みたいなことはしてもいいのかもしれませんが、それでも「頭の中がその単語でいっぱい」の状態も、退屈でしんどい状態も、そのくらいのことでは簡単に解決しないのかもしれないとも想像しています。(私はADHDの診断があるのですが、その特性と関係しているのか、単調な同じことを続けるのがとても苦手で、「時間の進みが遅く」感じるような作業の苦痛はとてもわかる…と感じました。)

事業所2のほうは、事業所1での課題点を解決するようなスタイルではあったのかなと思うのですが、充実しているけれど、意欲を持って取り組む分、作ったものと自分を切り離すのが難しくなってしまったのかなと思いました。「何故なのかは自分でも分からない。」としながらも、文章で自分を振り返って仮説を立ててとらえようとしている様子が印象的でした。
同じことではないかもしれませんが、学生時代に書いたレポートの文章を赤入れされてどんどん直されていく中で、それが自分が書いたものではないような気持ちになったことがあり、あなたの経験を読んで、そのことを思い出しました。あなたの場合は、とくに楽しんで取り組んでいたことであるだけに、気持ちの整理をつけるのが難しくなった部分もあるのかなぁと思いました。
事業所2では、事業所の人と相談しながら、色々と調整を試みていたことが書いてありましたが、不安定な気持ちが積み重なっていく中ではそうやって試行錯誤する日々もなかなか大変だったのではないかと思います。

あなたは不安に対する感受性の高いタイプの方なのだと思います。不安というのは、人間が持つリスク感知の機能だと思うので、必要な力だと思いますが、それが強くなりすぎると、うまく動けなくなってしまうこともありそうです。文章から、あなたを動かすのにも足止めするのにも、不安や強迫観念が強く働いているのかなと想像しています。
あなたが状況を改善するためになんとか知恵をしぼったり、他の人に頼ったりしてきたことを感じています。だからこそ、それでもうまくいかない状況が続いてしまって、八方塞がりのような苦しさがあるのかなと思いました。

それらの状況も、発達障害や精神障害に関連するものなのかなと思いますが、それが分かったからと言って、じゃあどうしたらいいの?という具体的な解決策がわからないなか、こうやって文章にして経験談を送ってくれたのかと思います。
タイトルにある「自己嫌悪は究極の自傷行為」という言葉は言い得て妙というか、私自身の感覚としてもわかるなぁと思いました。自分を批判する自分自身の声の中でうずくまってしまうようなことが私も何度もありました。今振り返ると、その前にたくさん無理をしていて、どれが無理をしているのかすら自分でもわからなくなっている、ということもありました。あなたも「早くグループホームに入らないと」とか「次はどうにか」といった気持ちの中で、無理が続いていたという面もあるのかなと思いました。もちろん、短期的にちょっと無理をするということはあり得るかもしれませんが、どのくらいの無理が許容範囲内なのか自体、自分でもなかなかわからないということもありそうです。
とくに障害などがある中で、「他の人はこういうふうにやる」といった指標を自分にそのまま使いづらい場合には、自分なりのやり方を見つけていくことになりますが、それってとても難しい……と自分の経験としても感じています。

不安が0になるということもあまりないのかなと思いますが、あなたの中で、あなたを責める声から少し距離をおけるような、ほっとする時間があるといいなぁと思います。働くことは生きる上での活動の一つではあると思いますが、個人的には必須とは思いません。まず、あなたがよく休めて、ゆっくり過ごせる時間が増えることを願っています。

感想2

繰り返しこの経験談を読みながら、「自己嫌悪」という言葉についてぐるぐると考えました。というのも私自身、思考回路や感情の基盤に自己嫌悪があって、これまでの20数年の人生で、散々こじらせ、流され、苦しめられてきたと感じているからです。なので投稿者さんの経験談において「自己嫌悪」との切っても切れない関係性が描かれていたことに、純粋な興味と、少なくない共感をもって、この感想を書かせていただいています。

経験談を読んで私が一番感じたことは、投稿者さんが自分自身の心の動きや環境から受けた刺激の中身について、つぶさにキャッチしていたのだな、ということです。それはまさに感覚過敏ゆえのものなのかとも思いますが、投稿者さんの場合は、ただ外部刺激を受信するだけではなく、「なぜ今こうなっているのか」「私は何が苦しいのか」をその都度考えてきたのかなと想像しました。それが、心はしんどいながらに思考回路は冴えているような状況だったとするならば、頭で考えている通りには周囲に適応できないことが(どうすべきか理解できているからこそ)とても辛そうだと思いましたし、自己嫌悪を加速させることにも繋がってしまうのかなとイメージしました。「自己嫌悪」は自分のことを認識できる(しようとしている)からこその苦しみ方という気もしているので、「わかっているのにできない」という構図になっているからこそ、ただの「諦め」ではなく「自己嫌悪」になるのかなと私は感じました。それは経験談の中に何度も出てくる「自分を許せない(許さない)」という言葉にもよく表れているように思えました。
そこでふと気になったのは、投稿者さんの「自己嫌悪」は、どんなきっかけで起き始めたんだろう…ということでした。私の場合は、自分を許した結果後悔することが続いたり、自己判断で動いたら周りからよくない反応をされて自分を信じられなくなったり…ということが積み重なってのことだと分析していますが、投稿者さんはどうでしょうか。自己嫌悪や自責=悪だとは思わないのですが、もしそれらの言葉が別の何かに置き換わるとしたら(私の場合は「不安」や「恐れ」など…)、自分のどんな部分を「許したい」のか、もう少し解像度が上がるヒントになるかも…とも思いました(私自身もまだまだ苦戦・苦悶中です…)。

最後に、何度も読んだうえで改めて、タイトルの「自傷行為」という言葉に思いを巡らせました。投稿者さんはどんな思いでこの表現を選んだんだろう、と私なりにあれこれ想像しています。
「自傷行為」にもいろんな形がありますが、私はそこに「存在確認」という意味合いがあるような気がしています。ただ苦しいだけではなく、自分の形(気持ちや状態、考え)を捉えるためだったり、自分の苦しさを無いものにせず「在る」ものとして認識するような…そんなイメージです。その感覚がわずかにでも投稿者さんの気持ちに沿うとしたら、今の投稿者さんは、その行為を繰り返す中で「自分が頑張ろうとしているということ」や「頑張ってきたのだということ」、「(実際の行動と連動しているかは問わず)自分はどうしたいのか」を確かめている段階とも言えるのかなと感じました(その確認自体、苦しいとは思うのですが)。自分の中で飛び交う自責や苦しみ、やり場のない感情を外に出す場としても、また死にトリを使ってもらえたらと思います。投稿ありがとうございました。

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