経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
無職ってだっさい自分探し期間なのかな。
消えてしまいたい。
無職が半年経ってしまう。
大切な人から、言われた言葉がきつい。
〜ずっと自分探ししてるみたいでダサい。〜
私は海外転職をするという理由で新卒3年勤めた会社を辞めた。会社の人もみんな応援してくれて、頑張りますと言って辞めた。そこから海外転職をしてきたが、自分がいかに準備不足でいかに求められていない存在なのかを実感した。語学力もなく、経験内容も年数も足りない。何もかもが足りない。なのに、前の会社の人にも、家族にも、友達にも、全員に海外転職するって言ってしまった。言ってしまったからというより、自分で決めたことだったから、夢だったから行きたかったし、なかなか諦められなかった。辞めてからの2ヶ月は友達に会ったり遊んだりもした。でも、最近は友達にも転職活動のことを聞かれるのが怖くて会えなくなっていた。そんな中で唯一相談出来る人だったのに。兄弟に言われた。
〜家にずっといる姉を見て家族が不満を持たないわけが無い。ずっと自分探しをしている人みたい。言ってることとやってることが一致していない。ださい。〜
本当のことだと思った。
でも悲しかった。
図星過ぎてイラついたのかもしれない。
1番大切な家族に家にいる無職の私は否定された。
家族が1番大切なのに。
自分が消えてしまったらいいのかもしれない。
適当に生きることなんて出来ない。
消えてしまいたい。
確かにださい。
無職でふらふらしている人に発言権なんて無いんだ。
見苦しい姉だったんだろうね。
ごめんね。
味方なんてもういない。
もういない。
もういない。
感想1
一読したときに、あなたがかけられた兄弟の言葉の背後には「自分探し=ださい」という方程式みたいなものがあるのだな、とまず思いました。「自分探し」ってなんだろうとか、それってださいんだっけとか、そもそも人の行動や願いを他者が勝手にださいと決めていいわけはないよな…とか考えています。
自分探しという言葉の正しい意味はなんなのかわからないですが、文章から、あなたはあなたが願う自分のあり方を実現するために一歩を踏み出した人なのだろうと思いました。それは自分を探しているというよりも、自分にとって大切なものを叶えるために、手段や方法を探すプロセスではないかと思いました。ただ、そうは言っても、実際なにか行動をするときには、自分自身を問い直したり、これまで自分が当然だと思っていたことに疑問が生まれてきたり…ということがあるように思います。その中で、あなた自身も自分がどうしたらいいか、自分のこれまでをどのように捉えたらいいのかわからなくなってきたところで、兄弟からその言葉を言われたのかなと思います。
海外転職の夢は会社の人も応援してくれたと書いてありましたが、もともとはその兄弟の方も反対するわけではなく、どちらかというと賛成していたのでしょうか。それとも、あまり関与していなかったのでしょうか?
これまで兄弟はあなたにとって相談できる大切な相手だったということなので、もしかしたらあなたの兄弟からしても、あなたに親身になったり感情移入したりしてきたからこそ、あなたがしんどくなっている状況にフラストレーションを感じてしまった、ということもあるのかな?と想像しています。(人の困っている話を聞くのって、感情を寄せないのも寄せすぎるのもうまくいかないことがあって、難しいなぁと思っているので書いてみましたが、あなたの状況と違っていたらすみません。)
ずれていたらすみませんが、海外転職というのが、海外の企業などに採用されて雇用されて海外に行くということだとして、もしそのためにはまだ語学力や経験などが十分でないとわかったということであれば、直接採用を目指す以外にも、他にやりかたはあったりしないのだろうか…と気になっています。そう考えると「夢を叶える」と「諦める」の二項対立とも限らないのではない気もするのですが、どうなのでしょうか。
といっても、そもそもいまうまくいかないことが続いていたら不安もあるだろうし、その中であなた自身の在り方を否定されるようなことがあって、相談できる相手がいなくなってしまったら、とてもショックで心細くなるのも当然だろうと思います。そこでひたすら行動し続けるのってなかなか難しいし、私だったら、しんどさに潰されそうになることも、なにも考えられなくなるようなこともあるだろうな…と思いました。
そもそも就職活動ってけっこう疲れることだとも思います。私はあなたみたいに夢があったわけではなく、その時々で転々としながら仕事をしてきているのですが、就職活動というのは「選ぶ」ことを会社側に任せるようなことに思えるし、自分の価値を勝手に判断され続けているような感じがするからかもしれません。本当は、仕事や能力によって人の価値は決まらないとも思いつつ、不採用の返事がきたり、そもそも返事が来なかったり…ということがあると、嫌な気持ちになることは何度もあったな…と思います。
それがあなたと同じだというつもりもないのですが、そういうやりとりが何ヶ月も何ヶ月も続いたら、それだけで疲れるのももっともだと感じています。
「無職でふらふらしている人に発言権なんて無い」ということはないと、私は断言したいです。同じ家の中でお互いの生活状況に疲れてしまっているなら、距離をとるのもひとつかなと思いますが、それはあなたの権利がないということにはつながらないと私は思います。ちょっと脱線してしまうかもしれないですが、私は「働かざる者食うべからず」みたいな価値観はとても恐ろしくて問題のあるものだと思っていて、そういう考えを採用せず、社会の中でそれぞれの人が望む生活をできるやり方を考えたいと思っています。
あなたのすべての願いが叶うかどうかは私にはわからないですが、少なくとも、あなたが悲しい時、辛い時にそれを押さえ込まなくてもいいような場所があるといいなと思っています。よかったらまた死にトリに言葉を置きにきてください。
感想1
一読したときに、あなたがかけられた兄弟の言葉の背後には「自分探し=ださい」という方程式みたいなものがあるのだな、とまず思いました。「自分探し」ってなんだろうとか、それってださいんだっけとか、そもそも人の行動や願いを他者が勝手にださいと決めていいわけはないよな…とか考えています。
自分探しという言葉の正しい意味はなんなのかわからないですが、文章から、あなたはあなたが願う自分のあり方を実現するために一歩を踏み出した人なのだろうと思いました。それは自分を探しているというよりも、自分にとって大切なものを叶えるために、手段や方法を探すプロセスではないかと思いました。ただ、そうは言っても、実際なにか行動をするときには、自分自身を問い直したり、これまで自分が当然だと思っていたことに疑問が生まれてきたり…ということがあるように思います。その中で、あなた自身も自分がどうしたらいいか、自分のこれまでをどのように捉えたらいいのかわからなくなってきたところで、兄弟からその言葉を言われたのかなと思います。
海外転職の夢は会社の人も応援してくれたと書いてありましたが、もともとはその兄弟の方も反対するわけではなく、どちらかというと賛成していたのでしょうか。それとも、あまり関与していなかったのでしょうか?
これまで兄弟はあなたにとって相談できる大切な相手だったということなので、もしかしたらあなたの兄弟からしても、あなたに親身になったり感情移入したりしてきたからこそ、あなたがしんどくなっている状況にフラストレーションを感じてしまった、ということもあるのかな?と想像しています。(人の困っている話を聞くのって、感情を寄せないのも寄せすぎるのもうまくいかないことがあって、難しいなぁと思っているので書いてみましたが、あなたの状況と違っていたらすみません。)
ずれていたらすみませんが、海外転職というのが、海外の企業などに採用されて雇用されて海外に行くということだとして、もしそのためにはまだ語学力や経験などが十分でないとわかったということであれば、直接採用を目指す以外にも、他にやりかたはあったりしないのだろうか…と気になっています。そう考えると「夢を叶える」と「諦める」の二項対立とも限らないのではない気もするのですが、どうなのでしょうか。
といっても、そもそもいまうまくいかないことが続いていたら不安もあるだろうし、その中であなた自身の在り方を否定されるようなことがあって、相談できる相手がいなくなってしまったら、とてもショックで心細くなるのも当然だろうと思います。そこでひたすら行動し続けるのってなかなか難しいし、私だったら、しんどさに潰されそうになることも、なにも考えられなくなるようなこともあるだろうな…と思いました。
そもそも就職活動ってけっこう疲れることだとも思います。私はあなたみたいに夢があったわけではなく、その時々で転々としながら仕事をしてきているのですが、就職活動というのは「選ぶ」ことを会社側に任せるようなことに思えるし、自分の価値を勝手に判断され続けているような感じがするからかもしれません。本当は、仕事や能力によって人の価値は決まらないとも思いつつ、不採用の返事がきたり、そもそも返事が来なかったり…ということがあると、嫌な気持ちになることは何度もあったな…と思います。
それがあなたと同じだというつもりもないのですが、そういうやりとりが何ヶ月も何ヶ月も続いたら、それだけで疲れるのももっともだと感じています。
「無職でふらふらしている人に発言権なんて無い」ということはないと、私は断言したいです。同じ家の中でお互いの生活状況に疲れてしまっているなら、距離をとるのもひとつかなと思いますが、それはあなたの権利がないということにはつながらないと私は思います。ちょっと脱線してしまうかもしれないですが、私は「働かざる者食うべからず」みたいな価値観はとても恐ろしくて問題のあるものだと思っていて、そういう考えを採用せず、社会の中でそれぞれの人が望む生活をできるやり方を考えたいと思っています。
あなたのすべての願いが叶うかどうかは私にはわからないですが、少なくとも、あなたが悲しい時、辛い時にそれを押さえ込まなくてもいいような場所があるといいなと思っています。よかったらまた死にトリに言葉を置きにきてください。