中2のときに自殺未遂を起こして通うようになった精神科で、発達障害だと診断された。ASDというものらしい。こだわりが強く、コミュニケーションが苦手。私に限った話なのかもしれないが、処理速度が以上に遅い。診断された当初はそれでも頑張ろうと思えていたが、最近は死んだ方がいいのではないかと思うようになってきた。
社会の普通は私にとってハードルが高すぎる。
コミュニケーションもそうだし、学校に毎日行ったり、受験勉強をしていい大学に合格したり、就職活動をしたり。そんなことも当たり前にできない私は死ぬべき人間だ。会話がうまく続くことはほとんどないし、常に泣いてばかりだ。受験勉強もうつで寝たきりになり、最近できていない。就職もこの調子だと多分難しい。仮に就職できたとして、すぐにクビになるだろう。無能だから。
かといって、私の中では実家暮らしやニートにはなりたくないし、生活保護は受けたくない。もちろん他の人が実家暮らしをしたり、休職をしたり、仕事を探しつつ休んだり、生活保護を受けたりするのは全然いいと思う。むしろ心が壊れるぐらいなら、そうしてほしいと思う。でも、私は別だ。私にはそこまでしてもらう価値がない。家族には家族の人生を生きてほしいし、大切な税金は私なんかじゃなくもっと他の人に使ってほしい。だからもし、受験に失敗したり、就職に失敗したりしたら死ぬしかない。でも、そのときに死にたくないと思ったら社会に迷惑をかけてでもいきてしまうだろう。だからこそ今死ぬべきだと思うのだ。
死にたいというより、自分に対して「死ね!」と命令しているような感じがここ最近続いている。本当にこれからあと数十年社会に迷惑をかけ続けるわけにはいかないのだ。怖いけど死ぬしかない。
経験談というものではなくなってしまったかもしれないです。本当にすいません。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
迷惑をかけないように
感想2
今のあなたはどういった状況にあるのだろうか(受験は大学受験なのか、高校受験なのか…?)と想像を巡らせながら読みました。
いずれにせよ、切羽詰まった気持ちが伝わってきたので、「将来」「社会」みたいなものを強く意識させられる場所にいるのだろうとは想像しています。
私はASDで、処理速度は速いタイプですが、周りに処理速度の遅いタイプのASDも何人かいます(どちらかといえばASDは遅い方が多いと聞いたことがあります)。コミュニケーションの難しさはこれまで痛感してきましたし、処理速度の遅いASDの苦労も見てきたので、あなたの苦しみはリアルに伝わってくる感覚がありました。
ただ、中2のときに自殺未遂をしたという話から、あなたの生きづらさはASDだけで語り切れるものではないのかもとも想像しています。
これまでどんなことに、どれくらい傷ついてきたのか。つらいときに頼るものはあったのか、なかったのか・・・。生まれ持った性質の生きづらさはあれど、いろいろな環境要素と合わさって、今のあなたを圧倒するほどの生きづらさがあるのかなと思っています。
かなり鋭利な言葉があなたからあなたに向けられている状態かと思うのですが、その鋭利な言葉は、最初は誰かからあなたに向けられたものだったのか、それとも、世間で言われているいろいろなものを取り込んで、形作られていったのか・・・。そのあたりの部分も、ちょっと掘り下げてみたい気持ちです。
迷惑って、一体何なのでしょうね・・・。
私は自分に金銭的余裕があれば、生きづらい人の一人や二人養っても迷惑だとは思わないですが、恵まれた環境にいる定型発達から「努力すればどうにかなる」的な正論を聞いたりすると(きっと向こうにも悪気はないのでしょうが)「本当に迷惑なのでやめてください」と言いたくなりますし、元気を失います。
このままの社会が続くと、どんどんそういった正論の声が強くなりそうで、私は不安です。
苦しんでいる人たちに「生きて」なんて簡単に言えないけれど、このように声をあげてほしいと思うし、その声を拾って一緒に考えていきたいと、私は勝手ながら思っています。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。きっと診断を受ける前からも違和感や生きづらさを抱えながら過ごしてきたのだろうと想像し、診断がついたことで腑に落ちたところもあるかもしれませんがあなたにとっては、余計現実を突き付けられるものだったのではないかと感じています。(違っていたらすみません)苦悩や葛藤がじんわりと伝わってきて、自身に対して厳しい評価(「私にはそこまでしてもらう価値がない。」などの表現など)やタイトルにある「迷惑をかけないように」という思いが、プレッシャーとなって日々の生活をさらに苦しいものにさせているのかな…と思いました。
社会の「普通」や「当たり前」というのは本当に厄介なものだとあなたの経験談に限らず、社会的な価値観に苦しむ人の話を聞いたり、私自身も体感的に痛感しているところです。いくら社会的な価値観に囚われなくてもいいのだと言われたり自分でも頭ではそう思ったところで、あらゆる場面で他との差を感じる経験が積み重なっていくと、自分の価値についてないものだと信じて疑わなくなったり、自分の存在について否定的になってしまうのは自然なことのように私は思います。ただ、誰しも生きていれば何かしらに迷惑をかけていて、それは避けられないものだとも私は思っていて、あなたが他の人が迷惑をかけることや何かの助けを受けて生きていくことには寛容でも自分に置き換えると途端に許せなくなってしまうのは、なぜなのだろうとそのメカニズムが気になりました。もしかしたら、自分の中にある「こうあるべき」自分の姿から外れた状態で生きるということが耐え難いからなのも一つあるのかもしれないなと思ったりもしました。(少なからず私はそういうところがあって、自分に価値がないと思うのはある種の自己防衛が働いているのだろうなと思っています)
「死にたいというより、自分に対して「死ね!」と命令しているような感じ」という部分が印象的で、自分は死ぬべき存在という強い意思があるのだということは感じつつも、その意思は深いところで「どう生きるべきか」を模索している証でもあるのではないかと考えたりもしました。あなたが自分自身とよく向き合っている人で、だからこその苦しさがあるのだろうと私は思いました。もし、こうして思いや考えを言葉にすることが何かあなたの役に立つのであればまた死にトリにいつでも書きにきてください。