ASDかつ同性愛者です。最近生きるのに疲れてきました。
ASDの影響で他人の感情や表情の読み取りに苦労します。普段は人の心の動きは国語の文章題のようなものだと割り切って、目の前の人の発言からその人の感情を過去の事例や小説、映画のストックから引き出して推測しています。四半世紀生きてストックがある程度蓄積されたおかげで基本的な喜怒哀楽は分かるようになりましたが、無言でいられると相手の気持ちは1ミリも分かりませんし、相手が体調不良になっても気づくことができません。また、感覚過敏のせいで人混みは苦手だし、この季節は日光が眩しくてほとんど外に出られません。そのせいで人付き合いも希薄です。
そして私は同性愛者でもあります。世の中には擬態のために異性と付き合う同性愛者もいますが、私にはそれがどうしてもできなかったです。そもそも去年まで自分以外の同性愛者に出会ったことがなかったため、今まで一度も恋人がいたことありません。パートナーのいない自分を劣った存在だと感じてしまいます。親は同性愛を気持ち悪いと感じる人たちなので、バレたら親との関係はギクシャクするのだろうと思います。胸を張って生きたい訳じゃないけど隠すのにも疲れました。できることなら治療でも手術でもして治したいです。できないけど。
貧乏くじ引かされてほんとしんどいです。周りは同棲結婚妊娠出産のレールに乗れてるのに、私は生まれつきスタートラインにも立てないなんてあんまりだと思います。最近は結婚が全てじゃない、セクシャルマイノリティは尊重すべき個性だという人もいますが、それを言っている人のほとんどが定型発達の異性愛者で恋人がいます。安全圏から正しいとこ言われるのが苦しいです。私自身、結婚せずに生きていく人を見ても何も思いませんが、「できるけど自身の選択でやらない」と「生まれつきできない」の間には深い溝があると思います。
この先、どう生きればいいか検討もつきません。同性愛者でASDの当事者を見たことがなく、人生のロールモデルがいないからだと思います。今すぐ死にたいわけじゃないけど明日生きる理由も特段見当たりません。小説や漫画、映画は好きだけど、それらは私の人生の欠落を埋めて「生きたい」と思わせるものにはなり得ません。仕事も忙しすぎて時間的なゆとりもないです。もう疲れました。楽になりたいです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
生きることに疲れた
感想2
あなたが自然に感じていること/感じないことと親や周囲の人たちの思う「普通」が異なることが多い中で、あなたは途方もない苦労をしてきたのだろうと思いました。「普段は人の心の動きは国語の文章題のようなものだと割り切って…」という文章からも、あなたがこの社会の文化に合わせるために多大な努力や訓練をしてきたことを感じました。
私も特性やセクシュアリティは異なりますが、発達障害の診断を持ち異性愛至上主義文化の中でマイノリティとして生きています。周りが当たり前だということがなぜそうなのかわからないまま、わけもわからず自分が悪いから、反省したり、変わらなければいけないと思っていたことが長くあるので、同じということではないとも思いつつ、あなたが日々疲れ果てる気持ちに共感しています。
「貧乏くじ引かされてほんとしんどいです」という言葉には共感すると同時に、ただ少数派であるだけのはずなのに、日々マイクロアグレッション(あるいはマイクロではないアグレッション)を受けなければいけない世の中は未熟だと思うし、その未熟さはどうしたらいいのだろう、と考えています。
私は価値観の合わない親との関係はほぼ消滅しているので、今はその部分の葛藤はあまりないのですが、似た性質の人たちと話すときには親との関わりの話になることは多くて(セクシュアリティやジェンダーに関してだと、たとえば同性愛者であることを言えない、日常的な会話の中でミスジェンダリングされて苦しい、結婚しろと言われるなど…。)、家族との関係を壊したいわけではない場合でも、日々関わるだけで苦しさが蓄積していくということがたくさんあるのだと感じます。
私個人の話をすると、最近は自分のまわりに発達障害とセクシュアリティ・ジェンダーなどにおけるダブルマイノリティーの人がかなりいます(同性愛者でASDの当事者もいます)。ただそういう自分に近いと感じられる人たちとたまたま出会うまでには、どうやって知り合えばいいのかもわからなかったし、ロールモデルがあまりに不十分なのもたしかだと思います。(というか、同棲結婚妊娠出産のレールも実際にはかなり崩壊している気がするし、それなのに他のロールモデルはあまり見つからなくて、「シスヘテロ」で「定型発達」の人であっても、他にも選択肢が必要なのでは…という気持ちになります。)
そんな中で私にとって参考になったのは、自分と近い属性を持つ人たちによるインターネット上のブログ記事やZINE(自費出版している少部数の本で、文芸系の即売会や、オンラインショップなどで買うことができました。)などでした。
自分自身とだれかの生き方が完璧に同じということはあまりないとは思うのですが、その中でも発信してくれている人はいて、私の場合はそこに書かれているものに教えてもらうことがいろいろとありましたし、現に自分自身の感じ方で感じ、物事を捉えて、興味を持って/持たないで生きている自分のあり方に気づいたり、そういう人が他にもいることに励まされたりしたように思います。
あなたが考えたり、行動をしたりするための材料になるものが見つかることを願っています。経験談を投稿してくれてありがとうございました。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。
私はASDなので、感情の読み取りの部分などわかるなと頷きながら読みました。ちなみに私は中学生のときに、周囲を観察・分析することでコミュニケーションの構造を理解し、軍隊教育のように自分を調教し、人間関係を最低限つくれるようになりました。
どうして生きることはこんなに努力が必要で、自分はこんな不便を背負っていかないといけないのだろう(私も感覚過敏によるいくつかの制約があります)といった感想を私はどうしても人生に抱くのですが、あなたも同じような疲弊感を抱いているのではないか…と勝手ながら想像しています。
また、「できるけど自身の選択でやらない」と「生まれつきできない」の間には深い溝がある、というあなたの言葉には、深く共感しました。
私は異性愛と同性愛かの2択なら異性愛に該当しますが、マジョリティ側かというとたぶんそれも違って、性的指向がどうこう以前に、一般的な恋愛文化への明確な馴染めなさがあります。自分なりに求める関係性はあるのですが、その質を理解・合意してくれる相手がいる見込みは薄いです。
そしてその生まれつきの部分と、後天的な諸々もあり、婚妊娠出産は”選ばない”ではなく”選べない”に限りなく近いところにあります。
恋愛以外にも、自分の人生について、いくつかの選択肢が奪われてしまった/最初から奪われていた感覚を抱いていて、安全圏の人たちが語る正論や無自覚に謳歌している自由に、ちくちくと傷つきながらそれを隠すしかないことが時折あります。
私は、ASDのしんどさは、文化の合わない世界に迎合を求められることで、同性愛者のしんどさは、自分の好きなものを否定したり迫害されることだと思っています(それら一言で表せるものではないですが、最もシンプルに言うならば、です)。
ASDのしんどさの方は「やりたくないことをやらないといけない」、同性愛者のしんどさの方は「やりたいことをやれない」と表現できると思っていて、後者の方がより残酷なことに私は感じます。
どう生きればいいか・・私は直接関わりがある中にセクシュアルマイノリティに分類される人が何人かいて、「同性愛者でASD」に完全に該当する人はいないのですが、それに近い属性の人はいます。当事者から話を聞く感じ「同性愛者でASD」はそれほど珍しい属性ではないだろう感触はあるので、当事者グループにつながるのは、一つの良さげな選択肢かもしれないと思いました。
少なくとも、結婚妊娠出産が当たり前として語られない人・場所やつながることで、私は少し呼吸がしやすくなった感覚があります。
よかったら死にトリもまたいつでも利用してください。