経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分を受け入れてくれる人が欲しかった

小さい時から両親が仕事で不在のことが多く、でも、私の面倒を見てくれるほかの大人はいませんでした。居住区で痴漢に遭っても、両親は忙しすぎて、私はその話ができませんでした。本当にショックでした…。何より、当時の私は何が起きたかすら分からなかったので、その話を暇そうな大人にすると、とても嫌そうな顔をされました。そこで、人前で話してはいけないことなのだと知りました。
両親と会えば、早くご飯を食べろ、早く支度をしろ…早く早くしか言いません。小さい時の私は、不安感からADHDみたいな感じだったとも思うけど、せかされず自分のペースでやれば、問題ないことも多かったのではと思います。
身の安全を守ってくれたり、話を聞いてくれる安心できる大人が不在のまま、その後は、大学に行ってほしいから、勉強しろ勉強しろと言われました。
どういう勉強が好きだから、こういう職業につきたいから大学へ行く、という話もなし。とにかく親は大学へ行かせたいと。私は特に大学で勉強したいこともなかったので、高卒で、地方公務員になりたかったのですが、叶えられませんでした。
大学に行くため、親元を離れると、恋愛依存症が始まりました。本当の自分を受け入れてくれる異性を探し求め、いつのまにか「恋多き女」に。周りが引いてるのも、わかるんです。でも止められない。

散々異性を傷つけて、これ以上は嫌だ、と思った時に、アダルトチルドレン、という言葉を見つけました。
そこで、小さい時に大人に守られたり、話を聞いてもらう経験がないことが、足枷になっていると気づきました。他人を信じられないし、好意も素直に受け取れないのだと。あたたかな人間関係を築けないのです。
だけど、親の言うことがどこかに残っていて、「理想の」自分をやらないといけない、となる。それが、理想と現実のギャップで苦しみ、自分の生きづらさにつながっていると気づきました。とにかく「我慢」が基準値になっているから、人生ハードモードです。

そして、こういう経験をしたことのない周囲の人にいくら話しても、「それは甘え」「親はもう関係ない」で終わってしまいます。だからといって、「幸せのカタチ」も経験していないから、自分にはどうなりたいかが、わからないのです。。サイトなどから、たくさんの先輩の言葉を聞いたりメモして、やっと自分の状態が、わかりかけてきました。

まずは、そこに気づいて我慢してきた自分を褒めて、大事にしていきたいと思います。

感想1

タイトルにある「自分を受け入れてくれる人が欲しかった」という思いが切実に伝わってくる感覚になりながら読ませてもらいました。幼少の頃からの環境は、寂しさを感じながらでもそれを我慢せざるを得なかったと想像しますし、たくさん自分の中で無理やり消化してきたものもあるのだろうと感じています。(もちろん消化できずあなたの中で残り続けているものもあると想像します)仕事が忙しかったという事情はあるにせよ、助けて欲しい時に助けてくれなかったりベースに守られない状況があって、それなのに意思やペースを尊重されることなく一方的に親の思いや考えを押し付けられてしまうことは、様々な場面で影響を及ぼすものだと私もあなたとは状況や環境も異なりますが、少し通ずるところがあり身をもって感じていることです。安心安全の土台が培われてこなかったり、負った傷も含めて心に空いてしまった穴があると何かしらの依存に走ってしまうことは無理もなく、ある意味、生き抜くために必要なことであると私は感じています。(ちなみに私も恋愛依存というのか人への依存が強い傾向にあります)
文章を読んでいると、今あなたは自分の抱える生きづらさについて考え、知ろうとしたり向き合っていこうとしている最中なのだろうと感じました。きっと自分の状態について分かっていくうちに突き付けられるものも出てきて苦しくなってしまうこともあるかもしれません。ただ、最後に書かれていた「我慢してきた自分を褒めて、大事にしていきたい」という表現から、その苦しさを乗り越える力(地力)がある方なのではないかなと私は思います。これまで蓄積されたダメージの回復はかなり時間を要するものですし、どんなに意識をしたとしてもちょっとしたきっかけで自分の望まない方向(これまでの思考の癖や価値観に引っ張られてしまう)ことも大いにあると私自身感じていることではありますが、そんな時は一人で何とかしようとせず同じように悩む人の話を聞いたり(読んだり)、可能であるなら聞いてもらったり、こうして自分のことを書くというだけでもだいぶ気持ち的に違うと思っています。あなたにとっての「幸せのカタチ」について一緒に考えてみたいなと私は思いましたし、また良ければ、心が落ち着かない時や揺らいでしまった時、苦しくなってしまった時はいつでも死にトリに思いや考えを届けてほしいです。勝手ではありますが、少しずつでもあなたがあなたの人生を生きられるようになれることを願っています。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
これまであなたがどのような経験をしてきて、それがどう生きづらさにつながっていって、今どのようなことが起こっているのか、よく整理された経験談だと感じました。
私は身近に、子どもの頃に安心安全を守られず、依存症や人間不信に苦しんでいる人が何人かいるので、「甘え」などとは全く思いませんでした。「これまでよく生き延びてきたな…」と、労いたい気持ちになったし(上から目線に感じられたらすみません)、これからあなたが徐々に自分を取り戻していけることを、応援したいと心から思います。

痴漢は自分の身体や尊厳を脅かされる行為だと思いますし、そのショックは大きく、簡単には語り切れなく、傷を癒すのは簡単じゃないと私は思います(両親と関係が良好な人でさえ困難なときが多いと感じます)。
だからそれが丸ごと消化できずに残ってしまったのは、深くあなたを蝕んでいるかもしれない…と私は感じました。
傷つきも意思もペースも尊重されないまま生きてくるのは、過酷なことだと私は思いますし、あなたと同じような経験をしてきた人の話を聞く度に、苦しんでいる姿を見る度に、そのことを痛感します。それを話しても「甘え」「親はもう関係ない」と言われてしまうような社会を、とても残念に思うし、どうにか理解を広めていきたいと思います。

また、そこで自分にはコントロールできない依存症を、表面的なところだけを見て「恋多き女」みたいに捉えられる社会も、ほんと困っちゃうな…と思っています。
私は個人的には、女子の恋愛は依存症の要素を含んでいることが多いと感じていて、それを簡単に外野が「恋愛」とみなしていいのか?と、いろんな大人に問いかけたくなります。恋愛と呼ぶことで、依存してしまう女性が「悪者」「未熟」みたいに見えたり、自分が悪いと責めたり、ただ依存されている関係を男性が「愛されている」と捉えたりすることで、女性(弱い側)が不当に尊厳を奪われている気がします。(ちょっと過激で極端な論ですかね…?あと、恋愛は異性だけではないですが、不当に尊厳を奪われることは男女間が多いと感じるので、ここでは異性愛だけを取り上げています)
極端な行動や依存には、そうなった背景が必ずあると私は思うし、表面的なものを見て自分の経験と照らし合わせて勝手に解釈するのではなく、きちんと想像する人間でありたいです。

なんだか私の主義主張ばかりの感想になってしまった気がします・・・。すみません。
回復の道のりは、きっと簡単なものではなく、時には一歩進んだと思ったら三歩戻って、みたいなこともあるかもしれませんが、ゆっくりでもあなたが前に進んでいけたらいいな…と願っています。

お返事1

このたびは、ご感想を送ってくださり、ありがとうございます。
自分の体験談を読んで、共感してくださったり、受け止めてくださったこと、心強く思います。

私のことに共感して開示してくださったり、よくこの環境で生き延びてきた、と仰ってくださったことで、私だけではないんだ、という気持ちが湧き、客観的に自分のことを顧みることができました。
改めて、自分をも壊してしまうほどの依存と自責を繰り返していたのだと知り、よくあの精神状態で、生きてこられたな、と思います。
そして、あなたには乗り越えていく力があるよ、と仰っていただけたこと、とても勇気づけられました。
「幸せのカタチ」、ぜひ考えていきたいですね。
感想をいただいたり、振り返りの時間やチャンスがあることを、大事にしたいです。

また、社会から見る「恋多き女」の視点も、大変興味深かったです。たしかに「それは恋愛と呼べるのか?」(本のタイトルになりそう!)というものが多かったです。たしかに、依存されてる状態=愛されてる、というのも、おかしな話です。
社会全体で「恋愛ではなく、依存ということもある」という認識が生まれれば、周囲の受け取り方や、接し方も変わってくると思います。
自分の悩みは、自分の中で解決するだけでなく、社会全体で考えていく必要があることとも、捉えられました。

当時は、なぜ自分の味方をしてくれる人がいないのだろうと、ずっと根底には「自分を受け入れてくれる人」が欲しかったと思います。
それなのに、周囲とは常に乖離がありました。両親は忙しくて話せる状況になく、男子からは「高みの見物」「あいつやべぇ、と面白がる」、女子からは、友達なら単純に「恋を応援!」、友達でなければ「イタイ女」、「変わってるから芸術的な絵が描けるんでしょ」とか。。

周囲から行動を理解されたことがありません。
「個性」ととってくれても、そのことで本人がどれだけ苦しんでいるか、わかってもらえません。

先生も、心を受け止めるどころか、怒り狂う人もいました。優しい先生もいたけれど、心の中まで受け止めてもらえないというか、どこかで「この人は、私だけの先生ではないから、甘えてはいけない」と思ってました。

心と体を大切にしなさいね、と言ってくれたのは、検査を受けに行った保健所の方だけだったなと。それでも当時は意味がわかりませんでした。他人の対応まで気が回らないぐらい、生きることに精一杯だったし、このことについて知識があるのは、接した中では、同じような女性と会う機会が多い、保健所の方だったのだと思います。
そういう意味でも、自助会の存在は、大事だなと思いました。

また、自分の中でしっかり整理がついたら、今度は傷ついている人たちを助ける側にもなれるのかな、という希望も湧きました。

長くなり恐縮ですが、何かの役に立てれば、ぜひ体験談、返信等含めて掲載いただければと思いますし、ご利用ください。

本当に、読んでくださり、ありがとうございました。
日々、大変暑い日が続いておりますが、体調にお気をつけて、どうぞご自愛くださいませ。

一覧へ戻る