経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

肯定できない

はじめまして。
こちらのチェックをしてみて、育ちの中に
何か問題があり、肯定感が低く、ひとに
良い顔をしたり断れなかったりして
つい面倒な仕事などを引き受けてしまったり
して、疲れたりしんどくなったりする、
というような結果が出た者です。
確かに、そのような育ちをしました。
私は人から求められると嬉しいし、
面倒なこと、嫌なこと、しんどいことでも
私を頼ってくれるなら、私を必要として
くれるならと思う傾向があります。
また、ひとに良く見られたい、真面目で
頼りになる、居て欲しい人と思われたい
というのが仕事の一番の原動力になっています。
今現在も、頼まれもしない持ち帰り仕事を
しています、個人情報や会社のモノを
持ち帰っているわけではなく、これがあれば
仕事がしやすいだろうというようなことを
家で準備してしまったりしてしまいます。
例えば、年齢早見表など、お客様の年齢が
パッとわかると便利なので勝手に印刷して
会社に持って行き(そんなものを作ってる暇が
無いほど忙しいため)ラミネートして貼って
おいたりします。そういうことで、気が利く人、
と認められたいのだと思います。
極端な話、月が変わって、1日になるとします、
月末に、職場のカレンダーを翌月にするのを
忘れて、他の人が朝にはがしているのを見ると
しまった!と思ってしまいます。

私の両親は平凡な夫婦でした。
私が4歳くらいになるまでは。
私には姉と弟がおり、ものごころついた頃に
弟が生まれたため、末っ子という特権も
味わった記憶が無く、かつ、両親からすれば
女・女・男、で、待望の長男が生まれ、
跡取り息子としてだいぶ盛り上がり、
弟が特別扱いされたのも事実です。
でもそれが私の肯定感を低めた原因では
ありません。
母がふとしたことから宗教にはまってしまったのが
その原因です。
その宗教自体はよくある小さい団体で、
お金をすごくとられるわけでもなく、
まあ平和な活動をしているのですが、
いかんせん、母がどっぷりはまってしまい。
私が4歳ごろから、家族がその宗教に邁進
しないと母の機嫌が悪くなる家庭になってしまいました。
父は何度も真剣に母と話したと思います。
しかしはまってしまったものは抜け出せず、
子供たちも宗教を強要されました。
子供の意思は関係なく、宗教をやる子が
良い子、行きたくないとか、お話を聞きたくない、
など言おうものなら、極端な話、ではもう
愛さないからね、という感じでした。
父は昔気質の人なので、子供べったりでは
なく、母の代わりにはなりませんでした。

姉は、母が宗教にはまったころはもう、
学校に通っており、幼少期は普通に
親に甘えた経験を持っており、
もう親より友達といるほうが楽しい、
という時期でした。
逆に弟は、生まれながらに宗教に
ふれていたため、何の抵抗もなく
今も信仰しています。
私はいちばん親に甘えたかった幼少期に、
わけのわからない場所で理解できない話を
聞かされ、それらを受け容れないなら愛さない、
もうお前なんか要らないというような態度を
母から見せつけられ、母を笑顔にするために
関心を買うために、もめないために、
自分の本音を言わないで宗教に寄せて生きる
子供時代を送りました。

ひとつは、親から、条件付きで育てられたこと、
もうひとつは、中間子で、そもそも親の
関心が私にむけられにくかったこと、
これらが私の根底に今も残っているのだと思います。

誰かに認められたい、受け容れてもらいたい、
存在を欲してもらいたいのだと思います。
でもだめだった時が怖く、他人を根底から
信じることができない為、独身独居です。

父は早く亡くなり、近年、母が老いてきて
介護が見えてきています。
私の人生は何なんだろうと思いながらも
義務として、母の面倒は、姉弟と同じに
見ようと思っています。

これが私が生きていても砂をかむような
気がする根本だと思っています。
どうしたら自分を全肯定できるか、今もわかりません。
友達が同じことを私に言ってきたとしたら
「そこにいるだけでいいんだよ、私はあなたが大好き
 人はみんな、生きる権利があるし、小さくても
 いいから、楽しいことを見つけてみようよ」
なんて言うと思います。
自分には響かないですけどね、不思議ですね。
長い文章をお読み頂きありがとうございました。

感想1

経験談を読ませてもらい、あなたがあなたの人生の捉え方、あなたのしんどさの捉え方をずっと模索してきたのだろうと感じました。現在のあなたの性質やたいへんさ、そして人生の早期にあった家庭での生活、それらを結ぶもの…そういうことをきっと自分自身で理解して言葉にするため、繰り返し考えてきたのではないかと想像させるような、理路整然とした文章だと感じました。
幼少期のあなたの家では、家庭内の関係の中心であった母が宗教にのめり込み、あなたには強くその皺寄せがいったのだと思います。
宗教と呼ばれるものすべてが問題だとは思わないですが、ただ団体や状況によってはハマっていきやすい構造のものも少なくはないようだと思います。少なくとも、「家族がその宗教に邁進しないと母の機嫌が悪くなる」ということはあなたたち個人の意思や思いを無視する暴力的な状況があったということだと理解しました。それは本来宗教思想などに限らず、問題と言えることだと思います。
「誰かに認められたい、受け容れてもらいたい」ということは人間が生きる上で当然の感覚だと思います。ただそれらが「条件付き」だと感じ続ける中では、だれかの「条件」をみたし続けようと努力することがやめられなくなるのも無理はないと感じました。
…と、こういうことは私のような、今日はじめてあなたの人生にすこし触れさせてもらっただけの人が言わずとも、あなた自身ずっと考え続けてきたことなのだろうと思います。ただ、いくらそのように理解してもそれをするっと変えられるというものでもないし、「生きていても砂をかむような気がする」というその実感の中でしんどさを感じ続けているからこそ、今も考え続けているのかなと想像しています。
あなたの文章を読んでいて、あなたの願いや思い、不安などに、へんな表現かもしれませんが、一貫性のようなものを感じました。私は自分に対する感覚や人生への思いもあまり安定せず変化が多いので、余計にそう感じたのかもしれません。その一貫性は実際にずっと同じように感じ続けているということなのか、振り返った時に一貫性を見出したのか、それとも変化する部分はあるけれど小さいのか…など、あなたがどんなふうに捉えているのだろうと気になりました。
「義務として、母の面倒は、姉弟と同じに見ようと思っています。」という文章を読んで、個人的にはそれを義務とする必要もないと思ったのですが、また同時に、あなたには義務としてやらなければいけないこと(周囲の状況から要請されていること)が今も昔もたくさんあったのだろうとも思いました。その中では「楽しいこと」に目を向けること自体難しそうだと想像しています。(私は現実逃避をしがちなタイプで、ドラマや映画などの世界に逃亡したりするのですが、気を張っている中では、そういうこともしづらいのかなとイメージしています)
「そこにいるだけでいいんだよ」という言葉が自分自身には響かないのは、その言葉ではあなたが願う「誰かに認められる」ということだと感じない、ということなのだろうか?と想像しました。(的外れだったらすみません)
そう考えると、「認められる」「受け容れられる」「存在を欲される」ということ、そしてそのようにまなざしを向けられていると自分自身が実感することの間にも違いがある場合もありそうだと感じましたし、もしかして、その感覚も一人一人違うような気もします。
あなたの言葉を追いかけながら、ひとつのていねいな考察を読ませてもらったような気持ちでいます。あなたの経験を教えてくださってありがとうございます。

感想2

「肯定できない」というタイトルと書いてくださった内容を読み、その後ろにある「肯定したい」「肯定されたい」という渇望感や強い願いを受け取った気持ちでいます。
子どもの頃に自分を保護する立場の大人との関係において「求めていたけれど、得られなかった」経験があると、大人になってからもいろいろなところで影響を及ぼすことは、周囲にいる経験者から聞いたことがありますし、経験談に寄稿する人たちやつらチェックを訪れる人にも多いと思っています。そして、周囲の人に当たり前にかけられる言葉が自分に対して響かない感覚についても、少なからず聞く話でした。あなたも書いていましたが、私も不思議に思っています。
その不思議を考えてみて私に浮かんでいたのは、分断という言葉でした。人は単体で独立して存在するのではなく、人とつながり合った存在として「自分」というものを確立したり、自分であるという感覚をつくりあげていくのだと私は思っています。それが、あなたはどこか自分の一部を切り離して、子ども時代を生き抜いてきたように思いました。そして、今も、現実に日々生活している自分や周囲の人からも少し距離を置いたところにいて、実際に人と関わってはいるものの、心のどこかで何かを切り離しているようなイメージが浮かびました。子どもの頃の自分の意思ではどうにもならない体験や環境と折り合いをつけるために、人とのつながりを求めながらも、落胆や絶望を回避する術として、もう一人の自分を作り出し、自分を守ってきたようにも思えます。自分の周囲で起こることや、自分自身が抱えている苦しさについて、理屈ではいろいろとわかっているけれど、心には何も響かないような状態なのかなと私なりにイメージをしています(的外れだったらすみません)。
最近、宗教二世の問題が話題となりましたが、そのことによって改めて自分に起こったことについて理解をしたり、客観視を促すことになったところはあるのでしょうか。子どもにとって自分が育った環境が基準となってしまうので、何かおかしいと思ったり、だからつらかったと自分なりの解釈をすることに時間がかかることもあるのだろうと思います。そんな時、自分がした経験が社会的に話題になり注目されることには、一定の意味のあることではありそうな気がする一方で、どのように話題になったのかによっては悩みを深めることにもなるかもしれないとも考えています。いずれにせよ、子どもが自分の存在や気持ちに心を寄せてくれる人がいなかったことや、向けてほしい相手が目の前で別のこと(あなたの母親の場合は宗教ですが)に気持ちを向け、一方的に押し付けをしてきたという経験は簡単に消化できるものではないと思いました。
最後の方に母親の介護のことが書かれていました。姉や弟と同じように介護をしようと思っているとありました。あなたにとって自分だけ介護をしないという選択の方が苦しいのかもしれないと思いました。私は介護はしてもしなくてもどちらでもいいと思いましたし、あなたなりの行動をとるだろうと思いました。ただ、心の中で「介護なんてしたくない」と思うことは自由だし、母を恨んだり、今でも肯定してほしいと思ったり、逆に今すぐにでもいなくなってほしいと思うことがあっても、そう思う気持ちは全部本物だと思うし、いくら矛盾する気持ちでも、そのまま受け止めたいと思いました。
最初の「肯定できない」に戻りますが、肯定はしなくてもいいのではないかと思います。自己肯定感という言葉があるので、どこか「自分を肯定することが必要」と思われがちですが、私にはちょっと違和感があります。肯定はできなくても、必要以上に否定をせず、ほどほどに否定的なこともあり、時にはちょっと肯定もしているような状態でもいいかなと思えるぐらいがいいのではないかと思うのですが、実はそういう中間的な加減が一番難しいのかもしれないと書いていて思っています。
経験談という文章に対してこうして言葉で応答をしていますが、あなたが求めているものは単なる言葉ではないのだろうと思います。あなたの込めた思いが伝わってきましたので、本当にささやかですがその思いを受けて感じたことをできる限り言葉に込めてみました。
今後も必要な時にはまた来てください。待っています。

お返事1

お二人の、感想をありがとうございました。

お二人の感想につきまして
私の気づかなかった面を
鋭く読み取って戴いており
改めて自分を見つめ直す
良い機会となりました、
お礼申し上げます。

お二人共通で、介護をしても
しなくても良いのではという
ご意見でした。
それにつきまして、母が
若い頃に宗教にはまり、
私はいわば宗教2世としても
悩み続けた経緯を書きました。
が、現在、要支援となった
母の一番の関心事は
自分の身体や生活が思うように
うまくいくこと、にシフト
しております。宗教は二の次。
昔、実母(私にとって祖母)の
危篤時に「前から予定していたし
神さんは、私が行ってる間に
ばあちゃんの命を取るなんて
ことはしないから」と
親戚一同のごうごうたる
非難をものともせず、宗教の
本山へお参りに行った
(その間に祖母は死亡)のが
信じられないくらいです。
つまりは簡単にいうと
母はひどくワガママで、
自分がしたいかしたくないか
快適か不快かだけで目の前の
物事を決める人間なのです。
宗教を続けてはいますが
単に習慣化してるところまで
順位が下がっております。
長い付き合いでそれを解って
おり、なおかつ、要支援の
身体ではしたいこともできて
いないため、単なる老人、
として、たんたんと介護を
できると思ったから、
しようとしている、というのが
私の心境です。
母と向かい合った時に、昔の
恨み辛みや苦しさより、
この老人に食べやすい
メニューはなんだろうとか
冷蔵庫のあれを調理して
帰れば今晩困らないだろう
ということが頭に浮かぶのです。
(それと、宗教は母を、別に
 救ってないではないか、
 という呆れもあり)

これはある種、悩み切った、
と言えるかとも思います。
そして、早くから親を見切り
社会で一人で生きていくために
色々なことを体得してきた
結果、超・客観的に目の前の
課題をこなすスキルが
私をそうさせているのかもとも。

長くなりました、すみません。
たまに辛い日もあり、
根本的な部分が揺らぐ時も
ありますが、大半は淡々と
生きております。
もしかしたら今、辛さの頂点に
いる、若い方々に、年取ると
少し変化したり和らいだり
するかもしれないよと、
可能性を発信できたらと
思っています。

皆様にメッセージを読んで
感想を戴き、それを読むことで
また新たな視点でものを
考えることが出来ると
思います、

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