経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

怒りと共に生きて

物心ついた時に感じていたのは怒りでした。
今より価値観が昔で田舎で、他の子には母がいつもいるのに何故母子家庭のうちには母がいつもいないのか?
入学式卒業式授業参観、周りにはいる家族がいなかった時、何故なのか?どうしてなのか?と怒りを覚えていた。
発達障害を抱えていて、幼い頃は空気を読むのは人より苦労した。母が働きに出ている祖父母はいるということの空気感が読めなかった。
いつも不満と怒りを抱えていて、お腹いっぱい食べられない、欲しいものが買えない、休日に遊びたい母は寝ていた。そんな事の空気が読めずに率直に発言しては「ワガママな子」だとよく言われていた。
月経前症候群なんて言葉の無かった思春期〜成人期は思考が変わっていて、社会的な不満や世の中の不条理にさえ怒った。女であることにも生きにくいことにも怒ったりした。人前でいい人でいるのは難しく、話すと怒りをコントロールできなかった。
家族とは疎遠になり、和解することなく成人して数年で立て続けに母も祖母も亡くなった。

変わった思考のせいで友人はいなかった。
中学生になるまで同い年の子と喋れなかった。親しいと思えば怒りからくる疑問や不思議を一方的に話したりしていた。そりゃあ友達いないわ、と今になると逆に不思議なくらい大人しいけど変な子だった。

少しいい人でいられるようになってきて人生の転機として結婚した。初めて経済的生活として安定した。
でも夫は少しばかり手は動かしても、天涯孤独となった自分に心は寄り添ってくれなかった。大人なんだから自分で気持ちを整理して、死んで悲しいのはわかるけど、うちの親と仲良くするのは嫁として当たり前でしょ?俺も疲れている。
全部受け入れて貰えなくてもよかった、ただ寄り添っていて欲しかった。
発達障害としての特性は言い訳にしかならず、ちゃんとできるのは当然でしょと言われ続けた。
頑張って家事をしたけど、母に祖父母に教えてもらったことは簡単なことだけで、上手くできなかった。
そういうことに向かない人間だった。
洗い物をしたら洗い残しがあるし、賞味期限切れもよく起こる、洗濯はまだ途中。よく自転車を忘れるし、物を忘れて取りに戻るのは日常茶飯事だ。凄く気を遣わないと出来ない。
そういうことが当たり前の家庭で育った彼には、自分の様な人間はあり得なかった。失敗したと言われた。
義父母には「そんな子だからお母さん早く死んだんでしょうね」と言われた。
人生で一番怒った。抗議した。酷いと。
なんかただ怒っている怖い人で片付けられた。以降、信じないことにした。

信じない前に子供ができた。
可愛かったが大変だった。子供も発達障害で育てにくかった。親の気持ちが少し分かった。「大変だったね」と言葉を交わすことはできなかったけど。
生活は満たされたが、母親になってから怒りは更に爆発した。子を育てるには色々なことが多すぎて、自分より弱いものに向かった。酷い時には子供を怒鳴ったり叩いたこともあった、後悔して少しずつ改善して病院にも通った。
やっと発達障害が月経前症候群が分かり、服薬とカウンセリングで怒りの回数を減らした。
でも怒りは根深かった。回数を減らしても何回も何回も怒った。

こういうことはやめて!それは言わないで!お願いだからいうことを聞いて!理由は簡単なことから重大なことまで怒りでしか表現できなくなっていた。
子供達は大きくなり反抗期を迎え、私を拒否した。夫も私を拒否した。夫は許せないことも多いが子供がこんな親否定するのは当然だと思う。私だって嫌だ。
別れて暮らすことになった。
孤独だった私はまた孤独になった。せっかく家族を持てたのに大事に出来なかった。自分なりに大事にしていたのに歪だった。

少なくなってきた怒りをさらに強い薬で封じ込めた。
残ったのは無気力な鬱だった。
怒りを感じないようにすると、他の感情も強く塞ぎ込むため、何が面白いのか興味を持つのか憤りも感じなくなった。わからなくなった。
変わった思考を出さないようにしていたら、当たり障りのない会話しかできない。
話しかけてくれる優しい人達でさえ、どんどん会話ができず離れていく。

今何がしたいのか、これからどうなりたいのかわからない。
面白いと思う映画や漫画を見ても心躍らない。止まらなかった思考や妄想は、パタリと止まり静かだ。
でもふと心を省みると、未だにふつふつと湧き上がる怒りを感じる。
なぜなのか?どうしてなのか?
自分のせいなこと自分のせいじゃないこと、直視してもどうすればいいかわからない。
なぜまだ怒りが湧いてくるのか?それすらに怒りを感じる。

周りはアンガーマネジメントだ上手くコントロールすれば力になるだのいうが、怒りと共に生きてる民はコントロール出来ないから苦しくて色々破綻している。
時代さえ違えばよかったのかな、としか思えないが、人が人の怒りに押されて苦しんだり、酷い目に遭うことは嫌だ。
でも自分が人を苦しめるほどの怒る側の人間なのは事実で、飲み込まれもするし抑え込めば抑え込めばで困ってもいる。厄介な存在だと思う。

人並みに生きてはいるが、人並みに生きるのに苦労する。毎日へとへとになり、楽しみもない。
怒りの代替だった過食は年と共に食べれないし、眠って過ごそうにも1〜2時間寝ては不安になって起きる。現状救いがない。
素直に怒ったら手がつけられないと思う。人さえ殺めてしまいかねない。
そんなことせず偉いと思うけど、孤独だ。
怒りとともにただ生きているだけである。

感想1

投稿ありがとうございます。子ども時代から抱いていたあなたの怒りについて読んで、その思いは真っ当だしもっともだと思いながら文字をたどっていきました。「お腹いっぱい食べられない、欲しいものが買えない、休日に遊びたい」という子どもの言葉が当然のものでなくてなんなのか、それはワガママではないだろう…と、勝手に憤りを感じてぐるぐるしています。一読しただけの私がこのように感じているその生活で、あなたの苦しさはどれほどだったかと想像しています。

もちろん、それぞれの状況で叶わないことやできないことがあるのも、私自身の体験としても理解しています。まわりと同じということは起きない、とも感じます。それはそこにある人的な、物質的なリソースが常に有限だからだと思いますし、そこにいるだれかを責めたところで解決しないのだとも思います。でも、リソースがたりないなら、たとえばもっと周りの大人の力を借りることが当然のような価値観が世の中にあれば、あるいは、それでもなにかたりないなら、世の中の知恵をこのような状況のために振り絞ることができたら、もっと違う可能性もあったのではないかと思います。だけど、実際にはそれがなかった中で、あなたがまさに怒りと「共に」生きてきたさまを教えてもらっているように感じました。

発達障害の特性があることで、集団生活の中で不利になることが多かったのかなと思います。私も発達障害の診断を受けていて、一緒くたにするわけではありませんが、学生時代から今に至るまで、いろいろな苦労があったことを覚えています。

夫さんの「大人なんだから自分で気持ちを整理して」はこれまで周囲の状況の中で傷つき怒ってきた人に対して暴力的な無理解だと感じました。また、「うちの親と仲良くするのは嫁として当たり前でしょ?」については、なにも当たり前ではないと個人的には思いました。それを押し付ける慣習があったとして、それ自体が問題とも言えるように思います。

あなたが怒りという形で発してきたことは、あるいは、怒りという形でしか表現できなかった、さまざまな気持ちなのではないかとも思いました。そこにはたとえば悲しみと呼べるようなものも含まれていたかもしれませんし、そのほかのさまざまな感情が渦巻いたまま、その時々に怒りの中にあったのではないかと想像しています。
そう考えると、ただ怒りを封じたら解決というわけでもないのかな…とも思いました。
ただ、そうは言っても、怒りによって周りの人を傷つけてしまうこともあっただろうし、それで自分自身も傷つき、疲弊してしまうことも少なくなさそうです。(いろいろ想像して書いてしまいましたが、あなたの感覚とずれていたらすみません)

私もなぜかわからないくらいイライラして怒りが溜まってしまうことが結構あって、そういう自分に対して、またすごく疲れてうんざりしてしまうことが多いです。その怒りには、外的な出来事や他者の振る舞いや関わりなども関係するし、それ以前に私の思いや願いもあるし、さらには発達特性、気候や月経周期、血糖値、疲労など、たくさんの要因が絡み合っていて、自分でコントロールすることの難しさを感じます。最近はホルモンの薬や漢方薬、生活習慣、血糖値のコントロール、疲れすぎない……などなどで、以前よりは少しましにはなったものの、コントロールできないときはとにかく人から離れて…とする以外思いつかないし、人にぶつけてしまうこともあります。 というのは私の個人的な話でしかないのですが…。とくにあなたの場合は、子育てをする中であなたが責任を持たなければいけない場面や、あなたが離れられないような場面がたくさんあって、距離を置くことも難しかっただろうと想像します。そういうとき、(恩を着せるようなことでもなく、当たり前のこととして)ちょっと見ていてくれる人が数人いるのが当たり前の世の中だったら、世の孤立しがちな子育て事情はだいぶ変わるのではないだろうか…と、安易に考えてしまいましたが、それもそれで難しさがあるでしょうか。

「人並みに生きてはいるが、人並みに生きるのに苦労する。」という一文に、ものすごく共感しています。私は人並みにやろうとして無理を続けては沈没するような生活を続けてきたので、同じではないかもしれませんが、当たり前のように世の中に要求される「人並み」のためにどれだけたくさんの自分のリソースを捧げてきたことだろう、という気持ちになっています。
「人並み」というのは結局、いわゆる「定型発達」と呼ばれる多数派の人たちの特性に合ったやり方で構築された社会への適応ということでしかないように、最近は思います。「定型」という言葉自体、多数派の人が多数派の人を標準と定めたことによる言葉なのではないかとも思いますし…。そう思うと、「人並み」である必要も実はないような気もします。

そんなことを考えながら、改めて最初からあなたの文章を読んでいて、あなたの怒りには、理不尽と感じられることへの疑問がまず含まれているように感じました。私も幼少期から、世の中について、というか物事なんにでも疑問がたくさん湧くタイプです。それは、理解して納得したいからだと思っています。その上で、理解を試みても納得できないような理不尽なことなら抗議したいと思っています。あなたはたくさんの議題を抱えて、でもその問いを一緒に考えたり、深めたりする他者との機会がなかなか無かったのではないかと思いました。読み終えた今、私はなんだか、あなたの「なぜ?」を一緒に考えてみたい気持ちでいます。

感想2

確かに怒りと共に生きてきた人生について書いているのに、私には「怒り」という表現では語り切れない何かを感じています。あなたが途中で書いてくれた「抗議」に近いのかもしれません。もしくは「憤り」の方が私が理解するうえではしっくりきます。
何かの本で憤りには「私憤」と「公憤」があると読んだことがあります。あなたは自分に関することで怒っている、憤っているので、通常の定義で行くと「私憤」なのかもしれませんが、私にはこの世の中の理不尽を代表して怒っているように感じました。私にとっては「公憤」に思えたのです。
だから、いくら何をしても怒りが収まらないのも私としては納得できます。あなたが怒っていることは手を変え品を変え、私たちの社会に蔓延していて、怒っても怒ってもそれが解消したり、解決したりする方向性に行かないからです。
例えば、あなたは子ども時代に自分がどういった状況に置かれているのかわからないことがたくさんあったのだろうと思います。納得いかないこともたくさんあったのだろうと思います。子どもであっても自分に関係することについて知る権利はあるはずなのに、子どもだから知らなくていいとか、子どもにはわからないだろうと周囲の大人たちが必要なことを説明することなく、子どもに一方的な適応や順応を強いてしまうことがあります。食べることや寝ること、遊ぶことや休むこと、そして意見を尊重される権利があるのに、それを大人が大人の力や立場をもって抑圧してしまうことが躾や指導や教育のように解釈されることもあります。そんな状況に本当は子どもたちは怒っていいと思います。
子どもだからということだけではなく、発達障がいもまた知る権利や学ぶ権利を阻害することが多いと思います。必要なことをわかるように教えてもらったり、自分に合った周囲との関係の作り方を教えてもらえないまま、うまくいかないことを批判されたり、努力や我慢不足のせいにされたら、それも当然怒ってもいいことだろうと思います。
子どもだから、女だから、大人だから、嫁だから、〇〇だからと決めつけられたり、勝手に役割を押し付けられたりするのも怒っていいことだと思います。私たちの社会にはそうした怒っていいことがたくさんあって、本当におかしなことなのに、真っ当に怒っていたら身が持たないし、立場や信用を失いかねないし、何よりも慣れて諦めてしまう順応性というものが力を発揮して、どんどん怒ることを忘れていくように思います。その中で、あなたが怒り続けていること、そしてその怒りをこうして書いて送ってくれたことに敬意の念を抱かずにはいられない私がいます。
最初に「怒り」というより「憤り」でありその中でも「公憤」なのだと書きましたが、なぜそう感じるのか自分でもよくわかりませんでしたが、ここまで書いてみて気づいたことがあります。あなたの書いた経験談には誰かを攻撃するような要素を感じなかったからです。だからこそ、「抗議」にも思えたし、「主張」だとも思えました。同調が前提の社会、予定調和な社会では真っ当な主張が怒りのように理解されてしまうのかもしれません。そして、ますますそうした主張が単なる個人の怒りとみなされて、アンガーマネジメントに代表されるような個人の努力で何とかする方がいいように思わされているのかもしれないと思いました。
ここ数年、アンガーマネジメントについて紹介されているのを見聞きすることが多くなり、確かに何かしらの有効性があるのかもしれないけれど、妙に推奨される登場の仕方に違和感や釈然としない気持ちがあったのですが、あなたの経験談を読み、そうした当然の怒りや公憤を個人的な心の問題として解決させようとすることに対してセンサーが働いた違和感だったのだということに明確に気づくことができました。
もう一つ、あなたの怒りについて私が感じたことがあります。それは確かに今のあなたや、その時々のあなたがその時点で遭遇した出来事や局面で怒っているのかもしれませんが、どこかあなたの中に置き去りにされた幼いあなたが泣き叫んでいるようにも感じたことです。置き去りにされた幼いあなたはいくら泣き叫んでも受け止めたり、なだめたりしてくれる存在が見つからずに、泣き叫び続けているのではないか…そう感じました。
もしそうだとしたら、幼いあなたに声をかけたいと思いました。あなたがそんなにも泣きたいことはよくわかるし、泣き叫びたい、怒りたい、そんな気持ちは誰も否定できないし、評価もできない確かなものだと。そもそも、抱く感情にいいものも悪いものもないし、出したいものは出したらいい。そして、なぜそれが出てきたのか、果たして出てきたものが何なのか、よかったら一緒に考えたいし、その扱いについて一人で難しいことがあるのなら付き合い方についても一緒に考えようよとお伝えしたいと思います。ちょっと私の想像が暴走しているかもしれませんが、あなたの怒りのパワーを借りて、触発された気持ちを素直に表現したらこんな感想になってしまいました。的外れなところや、行き過ぎた表現などありましたら、ご容赦ください。
一人で怒るのはとても疲れるだろうし、随分と長いこと一人で怒り続けてきたのでしょうから、不毛な消耗戦のように思えているのかもしれません。でも、こうして経験談として投稿してくれたことであなたの怒りはあなただけのものではなくなったと私は思っています。だから、これからは怒りを分かち合い、憤りを解明して、ともに自分たちが立っている今の世の中に向き合っていきたいと思っています。

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