経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

何も分からない

何も分からない

自分のコトが何も分からない。

他人に否定された自分を肯定し続けると、自分がどういった人間が分からなくなってくる。

努力で得た結果は敗北、努力の過程は全て否定される。
ましてや好きだったものも、陰口で罵倒される。

方向性が狂い始めて、人生は滅茶苦茶になる。人生の中で積み上がったのは成功体験ではなく、後悔と自己嫌悪。社会人になっても、人より努力をして人並み以下。努力は無駄だと脳内に刻まれ続ける。だから、成長もできない。勉強すればするほど、自分が惨めになって辞めてしまう。努力は全て苦痛に変換される。

アラサーになりつつある今、危機感と絶望感に殺されそうになっている。

小中高はイジメ。大学生は才能と挫折。社会人は否定と絶望。前職では自殺者が出た環境だ。お世話になった人は適応障害になった。
新天地では再就職活動は上手くいかない。お前はいらないと言われているみたいに。
命よりも先に貯金が先に尽きそうだ。

青春をするわけでもない、夢を追う訳でもない、働いての上に行こうとしている訳でもない。

何も情熱がわかない。興味も憶えない。
楽しい思い出は何もない。人に誇れるものもない。

自分の人生のはずなのに、まるで他人の人生みたいだ。
虚無感と無力感と絶望感。

命を貰ったから生きているだけだ。苦痛なく消えるなら早く消えたい。

感想1

「自分のコトが何もわからない」、「自分の人生なのに、まるで他人の人生みたいだ」という表現が思わず目に留まり、同じような感覚を抱えながら生きてきて、今もまだ「自分というものがなんなのか?」、「何を目指し、何を形作りたいのかがわからない」私にとって勝手ながらにとても親近感を感じながら読ませて頂きました。

「他人に否定された自分を肯定し続けると、自分がどういった人間かわからなくなる」という文を読んで、思わず首がもげそうになるほど頷いてしまう私がいます。

自分自身が成そうとしたことがあったり誰かに否定されることがあると、普通なら(私含め)逃げ出してしまったり、受け止められないことの方が多いと思いますが、何とかして状況を変えようと、自分を変えようと、たゆまぬ努力を続けてきた、そんなあなたの姿を想像したり、意志の強さのようなものを私は感じていました。そしてそれは「努力」というには生易しい、理不尽や不条理に抗うようなとてつもない研鑽の時間だったのかなとも。。。

残酷な話ではありますが、確かに努力は必ずしも、というよりほとんどが結ばれないのかもしれません。しかしそれは「個人の資質や裁量がどうこう」というより、積み重ねた時間や経験に関係なく最後は「運」による要素が大きいもののように私には思えるからです。

ですがそれは「努力」をして始めて立てるスタートラインともいえるので、あなたがイジメや挫折や否定や絶望を経験してきた中でも、たとえ実を結ばずとも逃げずに必死にもがいてきたことに他なりませんし、否定されない自分に至ろうとしたあなたの「努力」は確かに存在しているように私には思えます。そしてそれは、誰に否定されるものでもないはずです。

否定されたことによって強いられた努力で成りたかった・在りたかったあなたではなく、本来のあなたは何を望み・どんな自分を形作りたかったのかなと気になりつつ、虚無感と無力感と絶望感に苛まれつつも、もしこれから「他の誰でもないあなたの人生」を生きていく中で浮かび上がってくるものがあれば聞かせて頂きたいと思いました。

投稿ありがとうございました。

感想2

経験談を読ませてもらいました。学生時代から就職して働き、そして今に至るまで、あなたが度重なる否定を受けながら、過酷な状況の中で生きてきたのだと感じました。自分の努力も好ましいという思いや楽しみも、否定され続ければ、喜びも興味も感情自体も色褪せたようになってしまってもおかしくないと思いました。その中で、自分の人生にも日々の生活にも実感が薄れているようなところがあるのかなと想像しました。
それは苦しみの中であなたの心身を守るための防衛反応のような側面もあったのかな、それとも、疲れ切ってしまって、感情も麻痺しているような感じなのかな…などと考えていました。

「努力は無駄だと脳内に刻まれ続ける。」というあたりの文章を読み、あなたがなにか行動をしようとした時に、これまであなたの行動やあり方を否定してきた言葉が降りかかってくるようなことがあるのだろうと感じました。それは何度も繰り返しあなたに押し付けられてきたもので、だからこそ切り離すことが難しいのだろうと想像します。それらの言葉は不当で、いじめをはじめとする、あなたを蔑ろにしてきた行為や、それがまかり通ってしまった社会に対して憤りを感じます。構造的な暴力だからこそ、その構造を見直し、変えることが必要だと思います。死にトリで経験談を読ませてもらうたびにそう感じて、どうにかしたい、と思いつつ、自分のできることの少なさ、変化の難しさに気が遠くなりそうな気持ちにもなるのですが…。

「虚無感と無力感と絶望感」それらはどれも近しさや重なる部分もありつつも別の感覚なのだろうと思います。すべてなにかを無くした、失った感覚という共通点があるように思いました。そのなかで、絶望感は望みや未来への願いみたいなものが叶うイメージの持てない中で、無力感は、なにかを変えたり、なにかに働きかけたりする力を持てないと言う感覚の中で湧き出てくるものなのではないかと思いました。虚無感は意味や価値、生きることの実感の薄さとか、得ることの難しい中での感覚でしょうか。その中で「わからない」という感覚だけが取り残されたようにあなたの中にあるのかなと想像しています。(感覚がずれていたらすみません。)
私は精神的にきついときに、世界からも自分からも膜を隔てたような、すべての実感が遠くなって、ただひたすら絶望感や苦しさがある、みたいに感じる時があるので、勝手にそういう感覚にすこし重ねつつ読んでしまっていたのですが、それに近いところがあるか、それとも別の感覚なのか、あなたの感じていることをもう少し聞いてみたいなと感じました。

読んでいて感じたのは、あなたがたくさん傷つけられてきて、その中でも働いて、力を使い続けて、消耗しているのだろうということです。その消耗は、体を休めることの必要もあるのかなと思います。ただ、それだけだとこれまでに言われてきたような否定的な言葉が浮かんでくるかもしれないし、心は焦燥感で苦しくなってしまうところもあるでしょうか。あなたには休む権利が当然あるし、それはあなたがあなたの回復を優先する権利を持っているということだと思います。そのために、あなたがどんなふうにしたら少しでも過ごしやすいか、きっとあまり気を抜けず、緊張して暮らしている部分があるのかなと想像しているのですが、それをすこし緩めることができるか…考えています。自分の感覚として気づくのは簡単ではないかもしれませんが、たとえば、こうしていた日のほうがすこし睡眠がとりやすかったとか、こんなことをすると呼吸がしやすいとか、そんなことが目安になることもあるのかなと思います。そんな瞬間見つからない、というときもあるかなとも思いますが…。

また、分からないその感覚を文字にして、投稿することは、あなたにとってなにか感じるところのあるものだったでしょうか? それとも、それもまたどう感じていいかわからないものだったでしょうか。書くことがあなたの心身にとって負担になりすぎるのではなく、なにかまたやってみてもいいと感じたら、よかったらまた書いてみてください。投稿してくださってありがとうございました。

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