経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

頼り方が分からない。

私は小さい頃から家族の形が分からずにいた気がします。姉と私父母の4人なのですが、いつも居場所がないと感じていました。そんな背景の中、中学2年から自傷行為(リスカ)を始めていました。そして、中3の時出会い系アプリで知り合った男の人と遊びに行きました。それが私の初体験でした。出会い系アプリが危ないということは知っていましたがそういう意味で危ないということは知りませんでした。知らない地に連れていかれ初めてだったので痛かったし怖かったです。帰ってから知識もなかったので妊娠するのではないかと怖くなり親に相談しました。そしたら、寄り添ってくれることも無く殴られました。そして2時間以上説教をされました。私はこの当たりの記憶からさらに家族に頼ることが出来なくなり、高校を転校してから寂しさを感じたらパパ活や援交をして寂しさを埋めていました。でもそんなことで寂しさが埋まる訳もなく常に刹那的な空間で生きていました。そこから支援者と繋がり一人暮らしを始めたりして、また、入退院を繰り返す中で柔いものの家族に頼ることができるようになりました。でも頼り方が分からず依存に近いことをしてしまいます。もう21なのに今度はひとりじゃ何も出来ないんです。今は精神的に回復途中だから仕方ないのでしょうか。でも依存してしまうのは親だけではなくパートナーにも依存しがちです。頼り方が分からないのはどうしたらいいんでしょうか。

感想1

「頼り方がわからない」という言葉以上の気持ちや感覚、本当にどうしたらいいのかがわからないという率直な気持ちのようなものを感じながら読ませて頂きました。

一番身近で頼りたいと思う「家族」という小さなコミュニティで、投稿者さんが頼ることが出来ず、気持ちや感情を発露させる機会もない状況で、何とかして頼れないことで膨らむ不安や悩みを自分なりに処理しようとしてきた、そんな印象をとても受けつつ、もしかしたらコミュニケーション自体もあまりない家族関係でもあったのかなとも想像していました。

自傷行為や出会い系などで知らない人との出会いを求めようとしていた行動も、本来一番頼りたい人に頼れない気持ちを埋めるものでもあったのと同時に、どうにかして埋まらない気持ちを埋めるために投稿者さん自身が身につけた自衛の手段であったのかなとも感じられました。

見知らぬ人を頼って自分の気持ちを埋めるということはとても怖さもあったと思います。
ですが、その時の投稿者さんにはもしかしたらそうすることでしか自分を守ることができず、そんな中で頼れないと思いつつも抱えた不安を親御さんに相談したときに投稿者さんに向けられた反応はとても困惑させるものであったのではないでしょうか?そしてその出来事は今まで以上に頼れなくさせられるには十分であったように私には思えますし、寂しさをより強固なものとして刹那的な時間に身を投じるようになったきっかけだったのかなとも思います。

ただ、そういった時間を過ごしていく中で支援者と繋がり、一人暮らしをしながら家族を頼るようになった今があるのは、投稿者さんが「頼り方がわからない」と思いつつも、心のどこかで「頼ってみたい」と思って少し勇気を出して作り上げた現状であるとも言えるように私には思えました。

投稿ありがとうございました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
「頼り方が分からない」という自分の現在地を理解し、言葉にできていることは、あなたが着実に回復への道を歩んでいる証拠だとわたしは感じました。
また、「21なのに今度はひとりじゃ何も出来ない」と書かれていましたが、それも自然なことだとわたしは思います。
わたしは、人間の本当の年齢は、産まれてからの年数ではなく、産まれてから「安心安全を守られて生きてきた年数」だと個人的に思っています。寂しさや孤独感に振り回されて、刹那的に生きるしかない期間が長かったあなたは、極端にいえば「産まれたて」とさえ言えるかもしれません。そう考えたときに、いろいろなものに依存するところからスタートするのは、自然なことだとわたしは思うのです。

傷を少しずつ癒し、ほどよい頼り方を覚えていくのは、時間もかかるし、簡単な道のりではないかもしれません。(わたしは自分にもそういった部分があるのと、頼るのが苦手な仲間が多くいるので、実感としてそう思います)
また、この経験談は比較的短いものでしたが、家族との関わりでの傷つき、寂しさを埋めようとしてきた期間の不安や孤独については、とても書ききれないほどの痛みがまだ胸の奥にあるのではないかと想像しています。

そのような回復の道のりの中で、苦しい気持ちを抱えきれなくなったときや、周りに言いづらい葛藤などがあるときは、またいつでも死にトリを訪れてください。
わたしは、あなたの(そして誰しもの)回復を応援し、その中での揺らぎや孤独を、陰ながら分かち合う仲間でありたいと思っています。

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