まっすぐ(前編)
こんにちは。ここに投稿を寄せるのは2回目になります。長文乱文、失礼します。長くなりすぎてしまい、ただどこを縮めたらいいか分からず前後分けて送信しています。Webに載せる際は削ろうと思いますので、お手数お掛けしますが宜しければご返信ください。
親のことを思い出すのは何度目か分からない。フラッシュバックはいつまで経っても治らず、鮮やかさを日々増している。魘されて起きる頻度も毎日変わらない。
今、良い生活を送っているのだと思う。衣食住に困らず、なんならお菓子も付いてくる。同居人は優しく、暴力もふるわない。一緒に過ごして数年経つからか、相手の不安定さも消えてきている。
同居人は優しくなった。けれど、私の脳裏には同棲を始めて数ヶ月頃の姿がチラつく。私に暴力を振るいながら笑っていた。体中の痣と鬱血は治ってからも痛い気持ちになる。PTSDを発症したのはおそらくこれが原因だ。
小さい頃から周りに信じられる人はいなかった。父親に殴られてばかり、母親には当たられてばかり。祖父母は近くに住んでいたが、母親が私を若くで産んだため、祖父母もまだまだ現役世代で孫の面倒を見ている余裕などなかった。そもそも、女孫で見目が悪いとなれば見る気も失せるだろう。父方の方では数年後に目の覚めるような美しい女孫が生まれ、私はそうそうにお役御免となった。母方の方はそもそも母親よりも母親の弟を大事にしていたため、私への関心は薄かった。母方の祖父母の家に行って「言うことを聞かないから」と家の外へ放り出され、数時間経っても戻れなかったことは成人してからも笑い話として正月の集まりで話された。
幼稚園頃の私の記憶はほぼほぼ、家と会館。あとは幼稚園がちょろっと。家では母親に暗い押し入れに押し込まれ、会館では怒鳴られる日々。母親は熱心な信者で、私は宗教4世だった。幼いながらも異様な光景に怯えて逃げるのを「癇癪持ちだ」と怒られ、先輩らしき人々に怒られるたびに母親は家に帰って私をいじめた。表では気弱で子供に甘すぎる母親は家に帰ると人が変わった。年端もいかない我が子に自分が希望した進路や職を選べなかったこと、初恋の人に振られた腹いせに父親と遊んだら私が出来てしまったこと、祖父母はかばってくれず仕方なく産んだこと、結婚式の時に父方の親族は母親が身ごもっていることを参列者に伏せていたため恥をかいたこと、などをこんこんと語り聞かせた。父親は職を転々としていて、単身赴任していたり、ゲーセン勤務になったりしていた。母親は習性かのごとく、父親に呼びつけられれば何時だろうとどこだろうとかけつけた。夜の22時頃だろうと私をたたき起こしてゲーセンまで連れていくし、深夜遅くても車を飛ばして鍵をなくしたという父親のもとへ合鍵を届けに行った。高速道路の違反金も払いに行ったし、空き缶とタバコの吸殻だらけの部屋も掃除に行った。当然、私はろくな睡眠リズムを覚えられないまま大人になるのだが、母親は「本当に夜泣きが酷かった」としか覚えていないため、私はやはり成人してからも責められ続けた。
幼稚園で始めていじめにあい、椅子を隠されたことを担任に相談すると「嘘つき」だとして怒られた。この時点でPTAってすごく力があるんだなぁ。とぼんやりと思った。
小学校に上がれば担任込みでいじめられるようになる。1年生の時は上級生から筆箱を盗られたのを相談したらまたしても嘘つき扱いされ、下校時には切れた担任にランドセルと首の間の金具を掴まれて引きずり回された。2年生の時には男子生徒からの殴る蹴るが加わり、泥だらけで担任に助けを求めたら、「あなたが我慢したら丸く収まるから」と聞かなかったことにされた。
3年時には女子からいじめられた時に誰も頼れないなら自分でし返すしかないとやり返したら、相手の女子がしてきた事は隠され、私が悪口をしたのが学級会となり1年間クラスから悪者として扱われた。PTA役員の子はやはり強かった。発表会ではゴキブリ役だった。
4年時には2年生の時から暴力をふるってくる男子生徒に階段から突き落とされた。流石に教頭立ち会いのもと話し合いとなったが、相手の親が子育ての苦労話で泣き崩れ、担任もクラスを見ることの苦労で泣き出し、私が軽傷だったことも相まって話は有耶無耶に終わった。教頭の「こっちは忙しいのに……」というため息と時計ばかり見ていた姿が印象に残る。
5年時には林間学校で班の女子にハブられ、集合時間を教えてもらえなかった私は集合写真にも写れなかった。後日クラスで担任に「あなたは本当にどこいってたのよ」と言われれば笑い声がわいた。男子に班長旗棒や傘で叩かれる機会も増えて、脇腹の皮がめくれたこともあった。この頃には、どの学年にも1人くらいは「いじめても問題にならない」という生徒がいるという暗黙の了解のようなものがあるのを感じていた。たまに帰り道ですれ違う6年生の女子も同じように図書バックを藪へ投げ捨てられたりしていたから。
6年時には別の学校へ転校することになる。理由は母親が崇拝していたママ友に縁切りされたからだ。1年時から5年間に渡って母親を支配していたママ友はうつになった母親をあっさり切り捨てた。私の健康のためと言い張り、自分の家族が先生をしている空手を習わせ、自分の子供と同じ習い事に私を巻き込み、その先々で私を引き立て役として利用した。確かに、その人の子供は私とは違ってとても能力が高かった。幼い頃からの努力もあっただろうし、その子自身のポテンシャルの高さも私とは比べ物にならなかった。しかし、その子は勝手に休憩していることなどを見とがめられそうになると先に私を贄として差し出した。ハードな練習に肩を上下させる私を、怠けているとして差し出す。優秀な子を疑いもしない先生は私に怒鳴り、謝るまで許さなかった。空手でも同じだった。その子の親が先生である分、もっと酷かった。「基礎ができていない罰」「根性を叩き直す」として両足に蚯蚓脹れができるまで脚を蹴られ続ける。その際、痛みを和らげないように脚に力を込めるなと言われる。元々格闘技に恐怖心のある私は、お腹をよく下すようになる。お腹を下して練習が遅れるたびに、罰があったりみんなの前で怒鳴られたり。「真面目にやれば伸びるのに」と他の先生に言われるが、試験や試合に出て帯色が上がったとして余計に過酷な練習と罰が待っている。しかし、試験に出ることを渋れば「根性がない」としてまた蹴られる。私が謝る様子を面白おかしく再現するママ友も怖かった。ママ友に傾倒する母親も、ママ友の子供と私を比べて笑う周りも、公園で遊ぶ日に公園で私と母親を怒鳴りつけて土下座させるママ友を前にしても何も言わない父母会の人達も。父母会で会計が合わなかった時、矢面に立たされたのはもちろん母親だった。実際は違う人が犯人だと分かったが、誰も母親を庇わないし、ママ友でさえ母親には謝らなかった。母親は家の家事はしなかったが、ママ友の家の洗濯や掃除はしていた。家計が赤字でパートに出るが、ママ友が不機嫌になってやめたり、あんなに大好きだった宗教活動もママ友が言えばぱったりと行かなくなった。そして、別の子の親にはめられて母親が実はママ友のことを悪く言っているという噂を耳に挟んだママ友は、母親に確認をとることもなく母親を切り捨てた。母親には何事も確認して秘密を作るなと言っていたのに。それでも洗脳は解けず、母親は「私が悪かったんだ」と何年経っても言っていて、私はそれをもう怖いとは思わなかった。当たり前になっていた。
6年生になって学校の変わった私は友達もできて、普通の子と変わらない学校生活を送れた。友達と同じ班になって取り組んだバザーは数少ない穏やかな時間だったと思う。
中学生になり、母親のうつは悪化し、父親が家で私に暴力をふるう回数が増えた。家に貯金がなく、父方の祖父母に頭を下げて買った制服にはほとんど袖を通せることは無かった。骨折と母親の看病で不登校になった私は、親不孝として父親に殴られ続けた。小さい頃から父親には「うるさい騒ぐな」「大人になったら楽をさせろ」「殴られてるうちが華だぞ。無関心が1番怖いからな」とばかり言われていた。相変わらず母方の祖父母はそこまで関心がなく、「あなたが頑張るのよ。お母さんのことはあなたに頼んだからね」と義務だけ科した。学校側から児相に通報が行ったが、月1の面談に進展はなく、担任からも「そんなことより勉強しろ」と毎日電話とピンポンが鳴った。修学旅行に行く予算がないと話しているのに、クラスメイトを2人連れて班メンバーからの手紙を手渡しに玄関口に来た時には狂気を感じた。巻き込まれたクラスメイトには申し訳なくて、せめて内申点がたくさん加算されていたらいいなと思った。
児相で心理テストを受けて、精神科へ通うことになった。精神科へ通うようになったことで、月1の面談は私の生活態度がテーマにすり変わり、学校でも特別教室へ編成された。唯一残っていた友達にも「精神病だったなんて」と縁を切られ、学校でも尚更浮いてしまった。つらくてリストカットをしてしまったところ、腕の傷をみとがめられ、保健室の先生には「教育委員会に言わなくちゃいけなくなるからもうしないで」とため息と共に怒られた。
学校で不登校を理由に怒られることは増え続け、文化祭で劇から降ろされた時は流石に涙が止まらなかった。当日穴を開ける訳にはいかないし、それが当然と分かっていても、悔しかった。「この練習に遅れたら役から降ろす。最後のチャンスだから」と言われ、向かった先で練習は終わっていた。伝えられた時間とは全く違う時間だった。真正面から「降りろ」と言われた方がまだマシだった。この中1の文化祭がきっかけで完全に心が折れ、先述した母親の看病や家事が相まって2年生からは完全に不登校になってしまった。3年時では特別教室の担任との相性が悪く、頭ごなしに全否定されたりバカにされたりが続き、出席日数は片手で数える程度だった。
出席日数が足りず、高校は定時制に決まった。1年時2年時と担任とそりが合わず、3年時には留年が確定した。授業を受けたい私と騒ぎたいクラスメイトで対立があり、担任に相談したところ、私が我慢することが決まった。担任は綺麗事が好きで、家の事情にも首を挟んできたが、事が大きくなったらさっさと他人事を装った。しまいには働いていないことを責められた挙句に「学業ぐらい頑張れ」と言われ、名言好きな先生だったがこの先生が言う言葉は全て薄っぺらいので少しだけ同情した。
3年時になる頃には何故か学校カウンセラーの先生の相談を私が聞いていた。4年時の頃は全く授業でも関わらない教科の先生の恋愛相談を受けていてよく分からなかった。放課後等デイに少し通ったこともあったが、その時も心理カウンセラーに不倫相談をされたし、中学生の時のカウンセラーには泣いたら笑われたし、病院のカウンセラーには「私は何も出来ないけど困るから死なないでね」と言われたし、カウンセラーってなんなのだろうか。
4年時が終わり、やっとの思いで卒業資格を得た。3年時の時にやっぱり学ぶことは楽しいと小学生以来のまともな授業を受けて思い、進学したかったがお金がなく諦めた。私は留年していたが、母親がPTA会長だったため卒業式で読む祝辞を書いた。自分のでない卒業式のために母親が読む祝辞を用意する。なかなかない経験だなぁ。と掠れた笑いが出た。帰ってきた母親が周りに褒められたとドヤ顔していたが、祝辞書いたのは私だし、母親がこれ入れといてと言った名言は宗教先生の言葉だし。恩師と濁して書いておいたにしてもそれをべた褒めする周りもなんだか全部ちぐはぐに思えた。
まっすぐ(後編)
先程送信した投稿の後編です。
さて、社会人になった。無理やり会館に連れていかれたり、断ったり、選挙の票をどこどこに入れろと脅されたり、親のヒステリーが悪化したり、弟からお金とられたり。バイト先で家庭事情を理由に正式雇用されなかったため、バイトを辞めて違う職場に就いた。もともとブラック(持ち場にいる人数表記を変えて資料提出、ウォーターマークの入ったイラストをフリー素材として使う)よりだったし、身の上を知ってか無給で出される日もあったから未練はなかった。新しい職場は時間も固定で給料も安定していた。仕事量はおかしかったが、低学歴なら仕方ない。日々、職場をあちこち駆けずり回って慌ただしい日々を送った。勤務が終われば数時間歩いて家に帰った。田舎だから車がないと厳しいが、私は当然免許は持っていない。親が離婚してお金を選んだ弟は父親に着いていった。父親のもとで立派なギャンブラーとなった弟は生活費と称してうちに来ては母親からお金をもぎって行く。母親は弟に帰ってきて欲しくてお金を差し出す。当然うちの生活費が赤字になる。バス代さえも惜しかった。
公務員になれば安泰という考えが根強く残る土地で、職に就いた途端に母方の祖父母がよく家に来るようになった。親が離婚した当初は無一文からの受給世帯である私と母親を「恥ずかしい」として「弟夫婦に遺産を残したいから苗字を戻さないでね」と言っていたのに。愛情に飢えた母親は祖父母の関心が向いただけでも嬉しいようだった。母親自身違和感は感じているだろうに、直視したくない部分は私に当たることで解消しているようだった。
週5日の勤務、土日は祖父母宅で従姉妹の世話、祖父母宅近くの木造長屋への引越し要請の拒否、ふらりとやってきてはお金をもぎっていく弟。加えてストーカーまで現れるし、母親は買い物にハマったり急に昔の知人に電話をかけたりするし、人に相談しようにもにべもなく切り捨てられる。今までの人生で何度相談機関で「でも今日明日死ぬわけじゃないでしょ」と言われてきたことだろうか。
追い詰められる日々の中で、現在の同居人に手を貸してもらって家を出た。風通しが良すぎる田舎でいつ親に漏れるかとひやひやしながら、全ての手続きを1人で行い、荷物をまとめ家を飛び出した。親のいない時間はわずかしかなく、知り合いに1人でも会ったら1発アウト。電車は1時間に1本もない。乗り遅れても即アウト。天気の悪いなかを必死に早歩きした。走って目立たないように。
迎えに来た同居人に連れられて現在の住居につく。あとは冒頭に書いたとおり。同居人は嫉妬深いが、私が人と関わらなければそれもない。仕事をしようにも私はうつになってしまって動けないし、回復するのもとても時間がかかるそうだ。病院は転々として心無いこともたくさんあったが、やっとお医者さんらしいお医者さんに出会えたことは唯一ラッキーだったと思う。
私は子をうむ予定はない。きっと一生ない。もともと生理困難症だし、ホルモンバランスですぐに生理がとまってしまう。学もなくて職もなく、あるのは病気だけ。まともな親族もいないし、もし子をなしても同じような目に合わせたくないし、男孫なら親が奪いに来ると毎晩魘されるだろう。幸い、今の同居人となら子はできることはない。でも、これでいいのか。
私には何も無い。まともな親も、頼れる親戚も、話ができる友達も、知人でさえ。学歴もろくな職歴も資格も。人とする雑談のネタさえない。普通の人がする話題や趣味もよく分からないし、普通の人が持っているような過去も経験もない。今更培えるとも思えない。ばかみたいにがむしゃらに生きてきて、まけたくなくて折れたくなくてこんな生まれでも真っ当に生きて行けるって証明したくて、死にたくなくて。でも、意欲すらも潰えた今。私に何ができるだろう。気持ちだけで生きてきた。これは過言じゃないと思う。何も無いと思っても、前は向きたかった。自分の気持ちが過去形になった今、私は本当になくしてしまった。おかしい。家がある。ご飯があって着替えがあって。寝床は暖かく、同居人は優しくなって、定期的に通院もしている。本もぬいぐるみも。でも、ないと思ってしまう。前よりもずっと恵まれているのに。
気が抜けたように何か大事にしていたものまですべて抜け落ちてしまうような感覚が拭えない。私はもう社会復帰は難しくて、働いても二束三文で、フラッシュバックを起こしてしまうから人と関わっても長続きしないから迷惑かけるから、もうよくわからない。普通は当たり前はどこにあるんだろう。「普通なんてない」なんて、そこからあぶれた人はどこで生きているんだろう。上手くカモフラージュして必死に耐えているのかな。それとも、カモフラージュしてたらつらくなくなる? カモフラージュするための部分が壊れてしまった人はどうしているのかな。天涯孤独の人は?生保を勧められても、過去のやり取りを思い出して私はまたフラッシュバックするのかな。次は大丈夫ってまた歩ける日は来るのかな。
人生で何度か感謝されたことがある。いじめにあっていた先生に声をかけただけだったのに、「あの時声をかけてくれたおかげで頑張れた」と言われたこと。役所の担当さんの1人に「あなたの真っ直ぐな姿に元気をもらった。救われた」と言われたこと。病院で出会ったおばあちゃんに問いかけられて「精一杯生きるだけ」という話をしたら何故か感謝されたこと。よく分からないけれど、私の良い部分はここにきっと詰まっている。だからこそ、今の私は何も無い。私はまだ若年層だけれど、治療には何年かかるだろう。まともになる頃には中年を超えているかも知れない。学歴や職歴や人生の土台もない。何歳になっても腐っている人をたくさん見てきた。私もひん曲がってしまうのかも知れない。人に暴力をふるうような人間になってしまったらどうしよう。最近は親をころしてしまいたいとばかり思う。真っ直ぐじゃなくなる。手を汚すならしんでしまいたい。
感想1
経験談を読ませていただきました。7000文字超の大作で、その中にはあなたがこれまで抱えてきたあまりにもたくさんの理不尽なことが書かれていました。その体験を世間に流通する言葉にしたら、虐待やネグレクト、宗教2世問題(あなたの場合は4世ですが…)、ヤングケアラー、いじめ、性暴力、DV…などの表現にもなると思います。ただ、それらの言葉ではまだ見えてこない部分がたくさんあり、その部分を丁寧に教えていただいたと思います。
あなたが幼少期過ごした家庭では、暴力や暴言やさまざまな排他的な感情の中で危険を感じることが多かったと思いますし、「私はろくな睡眠リズムを覚えられないまま大人になるのだが」と書いてあった通り基礎的な生活を覚えることも難しい状況だったのだと思います。宗教団体の中での構造、家庭内での上下関係、親戚との関係、学校、ママ友関係、それらすべてがおそらく相当に閉鎖的で、その中で様々な暴力や支配の連鎖が起きていたのではないでしょうか。
中学生の時のあなたの生活への児童相談所の介入も、あまり効果的ではなかったのだろうと思います。また「教育委員会に言わなくちゃいけなくなるからもうしないで」という言葉にはとても悲しくなってしまいました。その考えはどう考えても保健室の先生が優先すべきことではなかったと思います。なぜ担任や保健室の先生や児童相談所の職員など、子どもに寄り添って考える立場の職業の人たちが、それをできないのだろう、と悔しい気持ちになります。世の中が窮屈で、それぞれの余裕がないということもあるのかもしれません。でも、その皺寄せが弱い立場の子どもに向いてしまうことが悔しくてならないです。
社会人になっても同じ閉鎖的な文化の中ではあなたは無理を自分に求め続ける以外に方法がなかったのだろうと思います。その中で、「現在の同居人に手を貸してもらって家を出た」ということは、そこを抜け出すために必要な選択だったのだろうと思います。ただ、現在の同居人さんとのことを読むに、同居人さんからの暴力が現在はないと言っても、それは同居人さんの思い通りに振る舞ってさえいれば、という条件付きの平穏であり、そこには理不尽な支配があるのではないかと思いました。とても勝手な言い草だとは思うのですが、私は安全にあなたが過ごせる場所はその他にもあるのではないかと思います。(そして本当は今以上にもっとたくさんあるべきだと思います)
「気持ちだけで生きてきた。」というところからの文章にはあなたの実感がとても表現されているように感じています。あなたは「がむしゃらに」生きてきた中で、そうやってどうにか持ち堪えてきたのだろうと思います。
人はすごく気を張っている時には普通よりも力を出し続けられたりするようですが、おそらくはあなたのこれまでの生活はそういう緊張の連続だったのではないでしょうか。でも、人はずっとそのままではいられず、少し安全な場所に行くと緊張を少しといて、これまでの分の疲れを癒やさなければいけないのだと思います。(これは人間に限るものではなく、おそらくサバンナ辺りで生きている動物も同じだと思います)今は、これまでに生きてきた環境とは違う場所で「家がある。ご飯があって着替えがあって。寝床は暖かく、同居人は優しくなって、定期的に通院もしている。本もぬいぐるみも。」と以前よりは落ち着ける瞬間があるのかもしれません。それによってあなたに変化が生まれているのかもしれないと想像しています。ただ、その中でこれまで表面化せずに済んでいた苦痛が出てきたり、これまでできていたはずのことができなくなったりしてすごくしんどいのかもしれない、と思います。(的外れだったらすみません)
「普通は当たり前はどこにあるんだろう。「普通なんてない」なんて、そこからあぶれた人はどこで生きているんだろう。上手くカモフラージュして必死に耐えているのかな。それとも、カモフラージュしてたらつらくなくなる? カモフラージュするための部分が壊れてしまった人はどうしているのかな。天涯孤独の人は?生保を勧められても、過去のやり取りを思い出して私はまたフラッシュバックするのかな。次は大丈夫ってまた歩ける日は来るのかな。」というあなたの問いかけを読みながら、あなたが世の中を捉えている真っ当な感性を強く感じました。私はあなたがここに書いているどんな人でも、普通かどうかを気にすることなく安全に生きていられる国や社会であるべきだと思います。社会の中にそういう場所を作って維持しようとしている人たちがいることを私は知っていますが、ただ、それが追いついていないという現実もあると思います。
「まっすぐ」というタイトルにどんな意味があるのだろうと思いながら読んでいました。最後まで読んで、そこにあなた自身への思いや葛藤がつまっているような感じがしました。「あの時声をかけてくれたおかげで頑張れた」「あなたの真っ直ぐな姿に元気をもらった。救われた」という言葉は、あなたにとってなにか信じられる光みたいなものなのかなぁと想像しました。光じゃなければ、温かいものとか……。比喩はなんでもいいのですが、あなたにとって、すごく大切にしたいものなのだろうと思いました。それがあなたを支えてきた反面、「もし、そうだと思われないような自分になったら?」と想像すると、すごく恐ろしい気持ちになるのではないかと想像しています。
個人的にはまっすぐな時もあれば、まっすぐじゃない時もあっていいと思っています。(人ってそんなに一面的なものではないし、それが悪いとも思わないです。本当は、もし誰かが加害的になったりなんらかの困った状況になった時に、その人やその周りの人を支えられる環境が必要なだけなのではないかと思います)
ただ、「まっすぐ」という言葉は今のあなたにとってあなたの人生を大切にするための言葉にもなっているのかな?とも思いました。
もしかしたら、この後のあなたの人生にまた別の角度から光が差し込むように、あなたが大切にしたいと感じられる別の何かに出会うこともあるのではないかと思います。それは言葉かもしれないし、全然違うものなのかもしれないとも思います。そういうものがたくさん隠されている社会がもっと健全に一人一人の人を大切にできるものになるように心から願っています。
私はたまたまあなたの経験談に出会い感想を書いているだけのつながりの人間ですが、あなたの言葉を読みながら何日か考えたり、反芻したりしていて、読めたことをすごくありがたいと感じています。私個人の感情を押し付けるようなことも違うと思うのですが……あなたの言葉であなたのこれまでの生活やその中で感じてきたこと、あなたが今感じていることなどを教えてもらえたことをうれしく思います。投稿ありがとうございます。