経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

甘えですか?

私は中学一年生の女子です。
今年中学生になり、部活も入って友達と一緒に遊んだりする、という普通の学生が送るような生活ができる…と、思っていました。
でも実際私は世間で言うようなコミュ障で、同じクラスの子ともまともに話せず、孤立するばかり。
唯一いる小学生からの同じクラスの友達は、気分の上がり下がりが激しすぎてほとんどコミュニケーションが取れない状態。
何故みんなと仲良くなれないのか自分なりに考え、自己中心的な行動をしていないか、色々考えていましたが…そもそも自分がおかしい事に気づきました。みんなは流行りのものが好きですが、私はどうしても好きになれない、というより、周りと同じになりたくないと言う思いがある事に気づきました。
そこで私も流行りのものを好きになろうと思いましたが、どうしてもできなくて、私はどんどん孤立していきました。
学校での出来事だけならまだ耐えられたかもしれませんが、私の家庭は周りと違いました。
私のお父さんは、躁鬱になった事があり、それ故か、怒ると大きな声で怒鳴ったり、暴言を言う事もあります。物に当たることもありました。怒ったあとは一日寝込んでしまうこともありました。
私の両親は共働きで、お母さんも働いています。
お母さんは、仕事から帰ってくると疲れているようで、仕事の愚痴を私にも言ってくる事があります。
私の両親はいつもは優しい人です。家での生活を支えてくれています。
だから、私は両親に強く言えません。我慢するしかないのです。
そして限界を迎えた時に、学校の先生に相談してカウンセリングを受ける事になりました。
しかし私の心は晴れることはなく、リストカットなど自傷行為に手を出してしまいました。
でもこれはカウンセラーの人や先生などの気遣いを踏み躙るものなのではないでしょうか。実際両親からはやめろと言われています。
ある日、お母さんから、カウンセリングを受けているのは甘えではないのか、というニュアンスの言葉を言われました。
私は勉強も運動も出来ません。宿題もやれないんです。
それなら甘えだと思われても妥当だろう…と思いました。
実際これを書いていても、自分のことを認めて欲しいだけではないか、と思い、苦しくなるばかりです。
でも、私も私なりに苦労しています。
自傷行為だって、やりたくてやっているわけではないんです。
精神病や障害が欲しいわけじゃないんです。
周りから心配されたいわけじゃないんです。
ただ、助けて欲しいんです、私を元に戻して欲しいんです。
こんなこと言ったらダメだけど、周りの人に対して、分かってくれない、と思っています。
部活も運動部から途中で文化部に転部しました。
塾だってやめました。
受験も途中で諦めました。
その他にも、みんなはできてるけど私はどうやっても出来なくて諦めたものもありました。
それは全部「甘え」ですか?
甘えないために、今自分が抱えている苦しみをなくすために、社会から私というゴミを掃除するために「死にたい」と思ってはいけませんか?口に出してはいけませんか?
口に出さなくとも、死にたい、消えたいと思い続けたいたら、甘えですか?犯罪なんですか?
周りを基準とした物差しで自分を測られ、甘えと言われるような世界にいたくないんです。
私にとって、周りというのは、高すぎる壁なんです。

感想1

投稿ありがとうございます。
読んでいて、おそらくあなたは他の人に流され切るのではなく、自分の見方で考える力がある人であるように思いました。あなたの表現にはハッとさせられることや「本当にそうだなぁ」と思うことが何度もありました。
あなたはいま学校でも家庭でも疲れてしまっているのかなと想像しながら読みました。あなたが「甘えですか?」と書いてくださったことはすべて「甘えではない」と私は思いました。むしろ、あなたは甘えることがむずかしい、あるいは周りの大人などから十分なサポートを受けることがむずかしい環境に置かれているのではないかと思います。
学校で他の人に合わせなければいけないのは、それ自体かなり大変なことだと思います。「周りと同じになりたくない」と書いてありましたが、同じになる必要はまったくないと私も思います。(もちろんたまたま好きになったものや好みや考え方などが同じなのであれば、それはそれでいいのですが)問題は同じでなければいづらいような環境の方だと思います。
また、父親さんが怒鳴ったり暴言を言うこと、物に当たることを目の当たりにしていたらつらいと思うし、その後寝込んでしまうと気を遣うかもしれないし、母親さんが愚痴を言っていたらあなたはどこかで自分の気持ちを後回しにしなければいけないこともあるかもしれません。「だから、私は両親に強く言えません。我慢するしかないのです。」と書いてあるのを読んで、本当は、あなたが我慢する必要はないことだし、あなたの家族の周りにあなたの家族、そしてあなた自身を支えてくれる人がもっといるべきなのだと感じました。
「自傷行為だって、やりたくてやっているわけではないんです。」という言葉もそうだよなぁと思います。私も自傷行為を10代の頃からしていましたが、私にとってそれは、ほかに自分を落ち着けるすべがないときに必要なことだったと思っています。
この社会の大きな問題の一つが「周りを基準とした物差し」がすごく強くなってしまう環境が多いということだと思います。人それぞれ本当は違う物差しがあるし、それを揃える必要もないし、それぞれの物差しを大事にできたらいいと思うのですが、みんな余裕がなかったり、それぞれが違う物差しで生きていることを知らなかったりすると、物差しを押し付けてしまうようです。そういうとき「甘え」とか「○○できないなんてだめ」とかという言葉が出てくるように思います。
一方で、世の中には、そういう言葉を使わず、それぞれの物差しを前提にして関わりたいと思う人もいるし、そのほうが楽に生きられるという人も本当はたくさんいると私は思います。そういう人がもっと関わり合ったり、否定するのではなく、それぞれが大変なこととか、困っていることを知り合って、一緒に考えることができたらいいな…と心の底から思っています。
あなたの思いや考えてきたことを経験談で教えてくれてありがたいです。またいつでも死にトリに書き込みにきてください。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。あなたの言っていることは私にとって共感できる部分がとても多く、心から頷きながら最後まで読みました。
私は「甘え」だとは全く思いませんでした。(そもそも私は「甘え」は生きていくために一定程度必要なもので、責められるべきものではないと思っています)

読んでいて一番「その通りだ」と頷いたのは、「周りを基準とした物差しで自分を測られ、甘えと言われるような世界にいたくないんです」という一文です。
もしそのような世界にい続けないといけないならば(そう感じてしまうのならば)、死にたいと思うのは自然なことだと私は思います。私は死にたい気持ちを抱え続けて10年以上経ちましたが、自分の死にたいは、「このままの世界では生きていきたくない」と言い換えることができると感じています。
そういった、とても自然な反応としての死にたい気持ち、心が晴れない中での自分なりの対処としてのリストカットを、周りに理解されないことはとても孤独で苦しいものだろうと想像しました。
その中であなたが死にトリを見つけて、自分の思いを送れる場だと感じてくれた(から経験談を書いてくれたのかな?と想像しています)ことに、私はあなたの逞しさのようなものも感じました。

「自分と一緒だ…!」と読んでいてちょっとテンションが上がったのは(不謹慎に感じられたらごめんなさい)、流行りのものを好きになろうとしてもどうしてもできなかったという部分です。
私も中学生のときに流行りのものを好きになろうと懸命に努力したのですが、どうしても興味をもてませんでした。幸運なことに家庭が安定していたので、それほど苦しくはありませんでしたが、家でも孤独感とストレスを感じている状況であれば、居場所がどこにもないような感覚になるのではないかと想像しました。
それだけ心に負荷がかかっている中で、宿題がやれなくなるのは当然のことだし、部活や塾や受験の負荷を軽くする選択をとったのは、適切なことだと私は感じました。
あくまで私の一意見ですが、宿題も部活も塾も受験も、生きていく上で大切なものではないと思っています。(私はそれらに力を注ぐことなく大人になり、一応10年以上社会人をやっていますが、後悔も困り感もありません)
それよりも、自分の気持ちに気づき、無理がかからないような選択をし、やりたいことや理解してくれる人が見つかったときにそこで少し頑張れる体力を残しておくことが重要だと思っています。
だからその私基準で捉えると、あなたは中学一年生だと思えないくらいに、まっとうに成長していると言えます。

頷ける部分が多かったため、熱が入りすぎた感想になってしまいました…。
もし死にトリが少しでもあなたの居場所になるならば、またいつでも訪れてくださいね。

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