経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

楽になりたい

優しくされるのが、辛い。嬉しいのに、辛い。
幼い時の記憶といえば、母に怒られたこと、もう知らない、もう出て行けと言われたこと、あなたはいつも不貞腐れてると言われたこと、酔っ払った母に馬乗りにされて苦しかったこと。父との記憶は一緒の空間にいるのが辛かったことぐらい。だからなのか、毎日夜眠るのが怖かった。朝起きたら、知らないところへ箱の中に詰められて置いて行かれたらどうしよう。手や足を包丁で切られていたらどうしよう。こんなことばかり考えていて、朝起きると、あぁよかった、ちゃんと家にいた。と安心する日々だった。
小学生、中学生の時の記憶は、宿題をいつしていいかわからなくて(というと言い訳みたいだけど、毎日習い事やら日々連れ回されていてするタイミングが本当にわからなかった)、できなくて担任の先生に白い目で見られていたこと、何をしてもどんくさくて同級生にも先生にもバカにされたこと、そんなことをされても虐められても絶対親には言えなかったこと。
それでも進学の費用などはある程度出してくれていて、お金で苦労することはなく大学へ行き、社会人になった。
そこで直属の上司になった人は、私の母より少し歳上の女性だった。いつもは一社会人として教わったり、話したりするけれど、我が子ぐらいの年齢だからか、童顔で化粧も薄いからか、たまに「いい子やねぇ」「おーちゃんがんばったね!」と、小さい子に話すように話されることがあった。最初はびっくりしたけど、どんどん心の中があったかくなって、嬉しくて。頭の中が上司のことでいっぱいになった。
ある日、お昼ご飯を食べてた時に、なぜか言いたくなって、我慢できなくなって「わたし、きのこちゃんと食べた。(きのこが苦手)」と言ったことがある。すると、「そう。えらかったね。」と無表情で言われた。私は涙が出るほど嬉しかった。家に帰って何回も何回も思い出した。でも、よく考えれば、本当にえらかったねって思って言っているならにこにこ笑っているはずなのに。上司に言わせてしまった私が嫌だった。それからも、上司が私を小さい子扱いしても、自分から甘えちゃだめだ。と心に決めて、たくさん我慢をした。自立しなくちゃと思ってなんとか実家も出て、1人で暮らすようになった。
でも、上司と関わって親しくなればなるほど、優しくしてくれることが増える。私はそれに、もっと甘えたい、もっと頼りたいと思うことが増えた。増えたというより、一日中ずっと考えるようになってしまった。本当は、もっとえらいねって言ってほしいのに…頭をよしよししてもらったら、どんな気持ちになるんだろう…でもそれは叶えてはいけないから、必死に我慢の日々。
レンタル家族というのもネットで見た。恐ろしかった。私はいくらお金を注ぎ込んでしまうんだろう、そのために借金をしてしまうのではと思うと怖くて、見ることができなくなった。
こんなことばかり考えてしまう自分が気持ち悪い。甘えたい気持ちは隠して生きていかなくちゃいけないのに、もうどうすればいいかわからない。

感想1

 甘えたい、頼りたい、褒められたい…そういった欲求を持つことは、ごく自然なことだと私は思いますし、気持ち悪いと全く思いませんでした。ただ、そういった欲求が大きく膨らみ、今、あなたの気持ちの負担になっている状態なのかなと私は感じました。(それは、相当しんどそうです。)
 本来そういった欲求は幼少期、身近な大人との間で満たされるものだと私は考えているのですが、満たされずに大人になった今、幼少期に満たせなかったものを改めて満たそうとしているのかな…と私は推測をしました。そして褒められること、甘えられることを1度経験して、やみつきになっているような感じでもあるのかなと。また、それを求める相手が一人に集中していることも、気持ちの負担になっている要素の一つなのかなと思いました。逆に、一人に集中させない=複数の人に分散させる(欲求を無理に押し殺そうとしない)ことはどうだろうか?とも、感想を書きながら今、考えてみました。
 満たしたいのに、満たされず、自分の価値が揺らぐ時が私にはあります。そんな時、自分で自分を認めよう、褒めよう、甘えようという考えが浮かぶけれど、中々現実は難しいです。せめてと思い、声に出して「今日頑張ったな~。」「自分偉いな~。」と無理やり言い聞かせています。ちょっとこの実践をあなたに共有してみたくなりました。声に出すことで、少しでも自分を自分で認めてあげられた気が私はするので、もし良かったらやってみてください。

感想2

心の中にしまってあった気持ちをストレートに表現していることが伝わってきました。子どもの頃の記憶は鮮明かつリアルなので、深く心に刻まれた経験だったのだろうと推測しています。どこか静かに淡々と書かれているのですが、あなたが子どもの頃に経験したことは安心と安全を必要とする子ども時代において、ずいぶんと過酷なことだっただろうと思います。そうした経験が今あなたが苦しんでいることにつながっていることはあなた自身もよくわかっているように感じました。
今のあなたが求めている「いい子だね」「偉いね」「よくできたね」という言葉は本来は子どもの頃のあなたがずっとほしかった言葉なのでしょう。そして、長年強く求めていたけれど得ることのできなかった渇望感から、今どうしようもなくほしくなっているのだろうと私は感じていますが、それはとても自然なことだと思っています。気持ち悪くもなんともないと私は思いました。
私は子ども時代に子どもらしい時間を過ごせずに我慢を強いられてきたり、ケアを受けられなかった時期のある若者たちと一緒に活動をしています。若者たちは、どうして今こんなに生きづらいのか分析して、子どものときに子どもらしくいられなかったことに気付いたときに「子どもでいられなかった年月を実年齢から引いて欲しい」と話しています。20歳を過ぎても、自分の生きづらさに気づいて、自分としての意思を持ってから3年だと「まだ3歳だ」というわけです。3歳なら、自分のことをほめてほしいと思うのは当たり前だし、本当にそれが必要なのだろうと思います。しかし、世間はもう大人になっている人をそんな風に理解し、扱ってくれるわけではないですし、必ずしもそうした扱いを受けたら満足するかというとそれも違うのかもしれないと私は感じています。じゃあ、どうしたらよいのか正解があるわけではないと思いますが、どうしたらよいか一緒に考えることはできると思います。少なくとも、あなたは自ら心の中にある葛藤をこうして自主的に素直に表現して送ってくれました。その行動は間違いなく「どうしたらいいか」の答えの一つだと思いますし、その行動を選択したことに自信を持ってもいいと思います。私にとっては、心のさまをよく表現しているあなたらしい文章だと思いました。
死にトリはどんな発信や表現でも、あなたの中にあるものを歓迎します。こうして素直に書いてみると駄々をこねている心の中の3歳児が少しなだめられるのかもしれないと思ったりしています。ぜひ、これからも自分の素直な気持ちに耳を傾けて、その気持ちを受け止めてみてください。受け止めるお手伝いを死にトリはしたいと思います。

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