死にたい時に、死ぬことが出来る。 日本がそんな国だったら、どれだけ幸せな国になれたのだろうか。 金無し、職無し、能力無しの三重苦。31歳になった私は、そんな状況に陥っていた。 果たしたい目的も、果たしたい目標も、何もかも全て喪ってしまった。 これを生き地獄と言わずして、何と言おうか。 この果てしなき生き地獄を、耐え忍んで生き抜けと言うのか。 昔から、未来をどうしたいか、考えて動くような人間ではなかった。 何とかなるだろうと、只々自由気ままに生きたはずだった。 ずっと家族に迷惑をかけて、無理を言って専門学校にも通わせてもらった。 それなのに、この体たらくになってしまうなんて思いもしなかった。 自分が望んで進んだ、華々しい筈だったIT業界の仕事。 待ち受けていたのは、客の都合によって使い捨てられる、人以下の生活だった。 惨めな扱いをされ続けた自分の心は、ズタズタに荒んでしまった。 仕事をすることが嫌になって、ニートに成り下がってしまった。 障害年金を頼りに、生活をせざるを得なかった。 その年金が足りなくなるほど、生活は困窮を極めてしまった。 実家暮らしにしがみつくのも、限界になってきた。 何時か実家を追われて、独り身で暮らすことを迫られるのだ。 もっと前から、もっと真剣に考えて、もっと真面目に行動すれば良かった。 しかし自分は、それら全てをドブに投げ捨てた。 こんなはずじゃなかった。だけどこんなことになってしまった。 全てに絶望し、もはや生きることすら望まなくなった。 30歳まで生きられたら十分だ。小学生時代の私が放った言葉だ。 その言葉を今、現実のものにすべき時が来たと言うべきか。 そうだ、もう十分生きたのだ。もう十分楽しんだのだ。 これから先、只々ひたすら生き地獄の人生でしか無いのなら、生きる必要はない。 それなのに、どうして日本は死ぬ自由を与えないのか。 生きる義務を押し付け、生きる自由を掲げ、生きることだけしか権利が無いと叫ぶ。 どうして死んではいけないのか。どうして生き続ける必要があるのか。 口々に揃えて返ってくる答えは、どれもこれも論理立ったものとは言えなかった。 自由に生まれる権利も、自由に死ぬ権利もない。 そんな絶望まみれの国で、どうやって人生を全うしろというのだ。 死にたければ、死なせても良いでは無いか。 本人が死にたいと願うのだ。だったら本人の言う通りにさせてやるべきではないか。 この世は所詮、赤の他人の集まりだ。 赤の他人が死のうが生きようが、何も関係ない。 ただ単に、人が独り亡くなった。それだけのことだ。 それ以上でも、それ以下でもない。 どんなに人が死のうが、世の中は回る。そういうものではないのか。 だから生きるか死ぬか、その人の自由ではないか。 人の人生を、他人が決める主義はない。 死にたければ、死ねば良いのだ。 なのに、自分は未だにそれが出来ない。 死にたいのに、死ねない。 嗚呼、自分はどれだけ情けないのだろうか。 嗚呼、自分はどれだけ無能なのだろうか。 願わくば、死にたい時に死ねる日が来ることを、只々待ち望むばかりである。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
死にたい時に死ねれば良いのに
感想2
主張が明快で、シンプルでした。「死にたい時に、死ねれば良い」というのは「食べたい時に、食べれば良い」とか「行きたい時に、行ければ良い」と理屈は同じかもしれませんが、世の中では「死にたい時に、死ねれば良い」とはなりません。何が違うのだろうかと考えています。一つは死ぬのは一度死んでしまったら戻れないことかなと思います。だからこそ、死にたいと思う人は強くそう思うのかもしれません。
あなたは死ぬことも生きることも個人の自由の延長だと理解しているように感じましたが、私はちょっと違う意見を持っています。私たちは自分だけで生きているのではなく、普段意識はしませんが、これまでもこれからも望むか望まないか関係なく、無数の他者からの恩恵を受けています。他者だけではなく、自然環境、動物、植物などに依存しないと生きていけません。そして、生まれてくることも自分の意思でも希望でもなく生まれてきてしまいます。人間は中途半端に脳が発達して、意識を持ってしまったり、社会というつながりを形成してしまったので、自分の力や意思で何でもできるように感じてしまいますが、実は自分の力や意思なんて本当にちっぽけなもので、ごく限られたことしか自分で選ぶことはできないし、力が及ばないことがたくさんあるのではないかと思っています。
しかし、私たち人間は自分たちの世界が中心だと考えてしまい、その中でも何かができることや、稼ぎがあること、成功することなどさらに小さな物事が世界のすべてだと思ってしまうことがあります。
そう思って、あなたの経験談を再度読んでみると、死にたいというよりも、「この先の生き地獄が嫌だ」「生き地獄から逃れる方法は死ぬしかない」というロジックが浮かび上がってきました。私はもう少しあなたの生き地獄について深め、そこから解放される方法が死ぬことしかないのかと考えています。私は生まれてしまって、知らないうちに多かれ少なかれ社会の恩恵を受けてしまったので、生きているうちはできることをぼちぼちとやるしかないのかなと思っています。どうして死んではいけないのか、なぜ生きる必要があるのかという問いに対してこれまで納得いく論理には出会っていないとのことですが、ぜひ死にトリでいろいろな人とそのテーマについて議論をしてみたいと思いました。
感想1
死ぬ権利があったって良いはずだ、経験談に詰まったこの主張からあなたのいまを生きる苦しさが伝わってきました。自分がいなくたって変わらず日々は回るし、他人の人生を誰かに決められるのはおかしい…いくつもそうだなと納得するお話もありました。子どもの頃から30歳まで生きればいいやって思っていたのはなぜか気になりました。経験談の中でも私が目を止めたのが、あなたが目指して働き始めた職場です。業界としてもハードな仕事なのかもしれませんが、ひとを人と思っていないような勤めた会社の職場環境を想像しました。残業や労働時間、職場の人間関係などあなたの気力を能力を削ぎ落としていくような環境だったのではないでしょうか。あなたを追いつめたその経験は心身に強いダメージを残してそれはいまも日常に影響しているのだと思います。ひとは環境でパフォーマンスが大きく変わるものだと私は考えているので、当時のあなたのことを思うと勝手ながら悔しい思いが湧いてきます。いまはほぼ家で過ごしているでしょうか。気力や意志がわかなくて、社会から切り離されたような感覚があるとしたら、生きる自由よりも死ぬ自由の方に意識が向いていくことも不思議ではないですし、この死にトリにつながってくれて良かったなと思いました。今回は経験談を通して対話をしました。考えていること、気持ちをこれからも言葉にしてもらいたいと思います。もしかしたらあなたは自分の中には能力も気力もないと思っているかもしれませんが、こうやってリアルではない方法でやりとりを続けているうちに何か戻ってくる感覚があるのではないかと私は思いました。死にトリは死や生について語ることもつぶやくことも、眺めることもできます。ぜひまたお待ちしています。