経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

欠陥しています

社会人の女です。昔から、優しく過保護な両親に育てられてきました。愛情は人並み以上に注がれましたが、甘やかされたため、他人に甘えること、自分の要求がまかり通ることが当たり前になっていたのかもしれません。自己中心的な性格で、いじめにもあいました。家族は優しくサポートしてくれ、大人になって、友人にも同僚にも恋人にも恵まれました。私の周りの人たちは、私にも他人にも優しくできる、安定した、素敵な人ばかりです。本当に支えて貰っています。

 ですが、私はそうではありません。自分の事で精一杯です。もちろん、友人や恋人が嬉しそうだと私も嬉しいのですが、その他の、大げさに言えば人類全体に対しては、到底優しくできません。幸せそうな人を見ると嫉妬してしまい、苦しんでいる人を見ている方が安心するような始末です。そのため、仕事を通して社会の役に立つことに生きがいも感じられません。仕事にも身が入らず、人に対する思いやりがなく、すぐに腹を立ててしまったり、なあなあに済まそうとする自分が嫌になります。人にやさしくなれたら楽なのに、と思います。自己を捨てたい。利他の気持ちで生きられたら、自分も他人も社会も好きになれるのに。実際には怒りや嫌悪ばかりです。

 うつ病を患っており、仕事もいっぱいいっぱいにこなしている感じです。今の仕事に限界を感じ、転職を考えてもいますが、自分が何をしたいのかもわかりません。今の仕事に不満と限界ばかりがたまっていき、苦しいです。何もしたくないのかもしれませんし、職種がどうこうという話ではなく、そもそも働くことができない人間なのかもしれません。自分勝手で、社会奉仕もできないし、かといってハングリー精神にも欠けている怠け者。こんな状態の人間は、きっといずれ友人や恋人にも嫌われてしまうでしょう。自立して生活していくことも難しいでしょう。それならば、死んでしまいたいと思うのです。これから先も、これまでと同じように、自己嫌悪や落ち込みが幾度となく繰り返されるでしょう。途方もないです。

 好きなことはいくつかあります。やってみたいことや、楽しみな予定もあります。上手に気分転換できる時もあります。他人と関わって落ち込むこともあるけれど、元気をもらえるのも他人との関わりからだったりします。ただ、それでも埋め合わせがきかないくらい、生きることの負担や途方の無さが突然襲ってきます。色々なことを考えても、結局「でも死ぬのが一番だよね」と言う結論になってしまいます。やりたいことやなりたい自分はイメージできるけれど、それを達成できる能力や努力に欠けていて、自分を高めていくこともめんどくさいと思ってしまいます。もう若くもないですし、きっとこれ以上生きていても、何もできません。そうして病んでいる自分を見て、ますます生きていくのが難しく思えます。コスパが悪いというか……こんな状態で生きているメリットってなんだろう?と思います。

 私は生きていていいのでしょうか。生きていきたいのでしょうか。「生きていたい」「生きていなくてはいけない」「死にたい」「死ななくてはいけない」、いろんな気持ちで頭がいっぱいで、ぐるぐるしてしまいます。「私みたいな人間はこの世にいてはいけない」と、いつもつぶやいてしまいます。皆、どうして平気で生きていけるのでしょうか。

感想1

本当にひとは利他的なんだろうか…とひとのあり方について深く考えさせられる経験談でした。

何というんでしょう…社会的にこう振る舞うと良いんだ、優しくするものなんだという無意識の感覚で生きているひとや、同調圧力に合わせて振るまっているひとも多いように思います。相手との関係性は優しく接する方がスムーズだから社会的なスキルとしてそうしていて、本来的に優しい人間ではない…少なくても私は自分でそう感じることがあります。(優しいの意味も深くは理解していないかもしれません)あなたの中では、優しく接することができないと感じて自分をとても責めているように感じますが、周囲のひとにとってあなたはどんなひとに映っているのかな…ちょっとあなたの友人に聞いてみたくなりました。

(あなたが感じている自分自身と周囲が感じるあなたではだいぶ印象が違うかもしれません)うつ病を抱えながら仕事をしていることを考えると自分のことで精いっぱいで周りのひとに気を回せないのは無理もないことです。気持ちをグッと保ちながら目の前の仕事を何とかやっているあなたを想像しました。そんなとき、あなたに限らずひとはどうしても「何で自分は…」と矢印を自分に向けがちです。そしてひとりでその考えからグルグル抜け出せなかったりします。そういう意味では、こうやって死にトリの経験談を通して一度頭の外にあなたの考えを出してくれたのは良かったかもしれません。そしてあなたの経験談を読んでいてひとつわたしなりに気づいたことがあります。経験談の中には、「利他の気持ち」以外にも、「社会に役に立つ」、「社会を好きになる」、「ハングリー精神をもつ」、「社会奉仕」…といくつものとても社会的に理想だとされるような言葉が並んでいました。これらはたしかによく聞く言葉ですが、本当に理想なのかなと考えてみました。(ここからは私のつぶやきも含まれます)これらができないと生きられないのかな…。周りのひとはみんな身につけているのかな…。少なくても私はこれらをほとんど満たしていません。利他的でもないし、社会を好きでもないし、ハングリー精神もない…などなど実は理想とされているこれらのことはもしかしたら幻想ではないかとさえ私は思います。こういった言葉たちを目の前から横に避けたときに本来のあなたはどんなひとでしょうか。“ひとは理想と現実のギャップがあると苦しむのではないか”と死にトリから私は学びました。一方で理想は家庭や社会から自分が知らない内に取り込んで苦しめられるものでもあります。理想に照らし合わせたときに「死にたい」と思うのかもしれません。あなたが感じている社会的なメッセージについてぜひ一緒に話してみたいと思いました。とは言え死にたい気持ちは日々感じているのだと思いますので、また死にトリにアクセスしてみて欲しいです。とりコミュという24時間つぶやけるコンテンツもあります。私としてとても深く考える機会となりました。思わず感想が長くなってしまいました。ありがとうございました。

感想2

大変興味深く読みました。自分が人に優しくできないことについてここまで真剣に考える人に私はあまり出会ったことがないからです。一般的に周囲のことを考えられず、優しくできない人のことは自己中だとか、傲慢だとか評されることが多いのですが、経験談を読んで感じてくる印象や人柄はそれとは真逆のものでした。謙虚で真摯に自分と向き合い、生きる人という印象を持ちました。不思議な気持ちでした。
そこで、目に留まったのは「自分の事で精一杯」という表現です。あなたはすでに利他的な考え方の持ち主だと思いました。ただ実行するには、余力が足りないだけなのではないかと思いました。気持ちはあるのに、実行できないのは、とてもつらいことだろうと想像します。おそらく、いろいろなことが気になってしまったり、感情のひだも多く、感じることが多い人なのではないかと推測しています。ほかに回すエネルギーが少ないのではないかと想像しました。
周囲は疲れたら休んだらいいよとか、気分転換をしてまた頑張ろうというかもしれません。そしてあなた自身も好きなことをやったり、リフレッシュしたり、仕事も何とかこなして、自分なりに工夫や努力をしている様子が伝わってきました。「それでも埋め合わせがきかないくらい、生きることの負担や途方の無さが突然襲ってきます」という表現が切実で、状況がよく伝わってきました。「これ以上、どうやって生きていったらいいのか」という嘆きにも聞こえました。
タイトルに「欠陥」とありますが、私にはちっとも欠陥があると思えませんでした。むしろ、大切なことから目をそらさずに向き合っていると感じて、会ったことのないのに、一緒に利他的について考えてみたいと思いました。そして、それぞれの人たちの限りあるエネルギーの有効な使い方や人の優しさについても一緒に考えてみたいと思いました。
願っていることができないつらさ、ありたい自分でいられないもどかしさは苦しいものだと思いますが、そんな苦しさがわかるからこそのあなたらしい利他があるのではないか、それをほかの人とは違った形で発揮できるのではないかと思っています。
ぜひ、また死にトリに来てください。待っています。

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