私は、一見正常に生活しているように見える。
家族と過ごし、子供を育て、パート勤務している。
週に2回の精神療法と定期的な通院は必要だが、日常生活に支障は無い。健康だ。
でも、私はいつも水の中にいるようだ。
H市は日照時間長い。南向きの窓から日差しがさんさんと入ってくる。
暖かい。心地いい。そしてこの部屋は水の中のようだ。
私には、触れることのできない記憶がある。
触れない、思い出したくない、ではない。
できないのだ。
治療の中で不意打ちのようにソレに近づいたときは、喘息発作のような咳が数週間止まらなくなった。
動悸が激しくなり、言葉が出せなくなったことがある。
日常生活の中で、ソレが入りこむように、流れ込むように、再生されることがある。
そうなると、私の抱える気持ちは今のものなのか過去のものなのか、混濁してわからなくなる
たいていの場合はじっとやり過ごしているが、物を壊したり、自分に嚙みついたり、家族に向かって攻撃をすることがある。それは、今ここに戻るための手続き、儀式のようなもので、必要なものだ。
子供と接する中で、子供を殴りたくなることがある。
私の中には暴力性が渦巻いている。それを暴走させないように常に我慢している。
ソレは、長い期間の間に起こった風景のようなものなので、目の端でちらりとかすめるように見ることはできるけれど、言葉で説明することはできない。
ソレに関する自分の気持ちを言葉で把握することができない。ぽっかりと消えてしまう。それゆえに、ありがたいことに、私は日常生活をお気楽に過ごすことができている。
気持ちがわからない代わりに、体調が悪くなる。だから、体調が悪くならないように予兆に気を付けて暮らしている。
危険な領域に近づかないように。
危ないと思ったら、その場から立ち去る。目をそらす。立ち去れない場合は、耳栓をする。
耳栓は、私を守る壁のようなものだ。
危ない話題には入らない。危険な単語。話せないことは「話せない」と宣言すること。
(表に出ていて日常生活を送っている)私が、日々の危険に気づき回避する。私が回避に失敗すると、「表に出ていない私」が私(たち)を守るために、体調を悪くして、感じたり考えたりできないようにする。私の意志ではコントロール不能な状態であることを、私はこのように感じている。
私は、正常にみえるのだろうし、実際そうなんだろうと思う。人と話し、笑い、適度な人間関係を気づき、仕事をこなす。
だけど、私一人透明な水の中にいるみたいだ。
私の中にある苦しさは、誰にも見えない。わからない。伝わらない。
正常に見えるのは、そういられるように慎重に危険を避け、環境を整えているからだ。
バランスを取った今の状態を、自由に変えることは難しい。
外の世界の人々のことは良くわからない。嬉しいとか、悲しい、苦しい、つらい、その気持ちを表す言葉の意味が、私と同じ(近い)ものを指しているのか確信が持てない。
表面上のやり取りはできても、本当のところ相手が何を考えているのか、私はどこまで把握できているのか、いないのか、わからない。
人々が暮らしている。楽しければいいし、幸せならいい。そこが穏やかな場所であれば私も嬉しい。
そんな場所に私もいられたらいいなと思う。そんな人々を、水の中から眺めていられたらいいなと思う。
いつかその先に行けたらいいなと思う。
感想1
投稿ありがとうございます。H市は日照時間が長いのですね。南向きの窓から日差しがさんさんと入って暖かくて心地よいと感じるという文章に心が惹かれました。心地よさを感じ取れる感覚を持っているのは強みだなと思いました。
タイトルにもなっている水の中について。投稿者さんが表現している水の中というのは、安全な感覚を持てる空間なのだろうと想像しました。そして、その空間は周囲と自分との境目にあって無色透明である。そして、周囲の人は気がつくことができない。投稿者さんを纏うヴェールとか膜とか柔らかい壁とか、そういった意味なのかなと理解してみました。投稿者さんは、一見正常に生活しているように見える状態に自分を整えている。意識的に整える場合もあるし、無意識に整えている場合もある。ということなのかなと私は想像を膨らませました。一見という表現には深い意味合いがあると考えました。自分の中の暴力性を自覚していること。危険を察知して距離をとること。いずれも自分自身を守り周囲の人を守るために必要なスキルであり、それを獲得してきたのだと想像しました。
きっと投稿者さんの伝えてくださったことの100分の1も理解できていないのだと思います。それでも私は投稿者さんの文章表現に惹かれてしまいました。水の中から周囲と自分の穏やかな日常を願う投稿者さんの日々が守られることを願わずにはいられませんでした。