乱文失礼します。感情の赴くままに書き連ねています。
この文章が誰かのためになるわけでもないし、結局自己整理の一貫だけど、こんな奴がいるんだ、でいいので。
ずっと消えたいと思ってる。死にたいと思ってる。
子供の時はそこまでじゃなかったけど、それでも高い建物を見ると死ねるかなとか思ったりしてた。今でもしてる。高いところを見ては「この高さなら落ちる間に気絶して死ねるかな」とか、「このぐらいじゃ重傷止まりで死ねないなぁ」とか、どうせその勇気もないくせに思ってる。
中学のとき一度死にたい気持ちがピークに達した。今にして思えばいじめというほどでもなかったけど、当時の自分にとっては本当に嫌で、不登校一歩手前だった。親が「気にするからだ」「反応するからだ」とかいうからできるだけ気にしないように反応しないようにして登校を続けた。そのうち飽きたのか多少は減ったが結局クラスが変わるまでからかいは続いた。
その後一度落ち着いたけど、それでも高校のときより大学、大学より社会人となるにつれてまた死にたい消えたい気持ちが強くなっている。書いてる今が一番強い。今は死ぬまでの苦痛への恐怖が勝ってるから死なないでいるけど、いつか生きることへの恐怖が勝ったら自主的に死ぬような気がする。ちょっとしたきっかけで天秤が傾きそう。苦痛なく迷惑を掛けず一瞬で死ねるなら別にいつでもいいんだけど。
自己肯定感なんて持ったことがない。少なくともここ最近では絶対ない。一番嫌いな人は誰ですか、と聞かれたら自分と答えるぐらいには嫌い。物覚えが悪い。不細工。のろま。自堕落。めんどくさがり。それを自覚しながら現状を変えようとも思えない。変えた方がいいのはわかってるけど、出来ない。甘えだしそれで自分が嫌いとか一番自分がわからなくなる。消えた方が周りのためなのはわかる。けっきょくクズの自分が変えられないから。
人に迷惑かけたとき、嫌な思いをさせたとき、自分の価値がないと再認識したときなどに死にたくなる。
どうせ自分がいなくてもいいのならどっかで消えたい。最初から居なかったことにして欲しい。
別に家族に恵まれなかった訳じゃない。友達に恵まれなかった訳じゃない。それでもどうにも生きる気力はわかない。
ときどきいいことがあったり、久しぶりに友達に会えて遊んだときなんかは気力が上を向くけど、それだっていつまでも続くものじゃなくて充電がなくなるみたいにすり減っていく。そして希死念慮を抱く日々に元通りになる。
生命線が短いからそれだけを頼りに死なないでいる。きっと早くに死ねる筈だと思ってる。そうでなきゃ苦しい現実を過ごすことが出来ない。本当に終わりを明確化することができれば、「ここまで頑張れば終わる」という気持ちを持って生を続けられるかもしれないけど、結局そんなことが出来はしないから「いつまで」を抱えてる。
職場だって別にブラックとかではない。仕事を覚えられない自分が嫌にはなる。
ずっと笑顔を張り付けて、猫をかぶって、丁寧に接し、失敗しないように気を付けても毎日絶対失敗して間違えて迷惑をかけて死にたくなる。先輩が大丈夫、と言っていても、いいよ、と言っていても裏で「こいつ邪魔」だとか「使えない」とかそんなことを言われてる気がする。所詮被害妄想だけど、勝手にそう考えては苦しくなる。「この仕事向いてない」と思いつつも続けるのは自分でもわからない。死にたいなら、死ぬならお金も立場も関係ないのに。笑える。
ずっと死にたいを引きずって生きなきゃいけないなら誰か殺してくれという願望を持ってる。
時々安楽死も調べるけど不治の病とかだし、そもそも日本じゃ合法じゃないから無理。他の誰かが言ってたけどいつでも死ねる、逃げられるようにして欲しい。最期の頼みの綱として存在して欲しい。
書きながら自分は生の苦しみから逃れたいのだと思った。楽しいこともあるけど、それより苦しみの方が多い。楽しい趣味が、億劫になってる時点で救いがない。
自殺するなとかそれは悪だとか周りの気持ちを考えろとかテレビだとかはいうけど勝手にさせてくれないかと思う。
誰も生んで欲しいと言ってない。親はなんだかんだ優しいし、実家暮らしを許してくれたけど、ときどき「あんたが出来るわけない」と否定される。例えば「一人暮らしなんて出来るわけない」。確かにそうかもしれない。そうやってその発想は消えた。「運転なんて怖くてさせられない」確かに自分は事故を起こしそうだ、免許取るのやめよう。それは自分でも理解できるけど、改めて言葉にされるとしんどくなる。「生んであげた」とかは言われたことないからいいのかもしれないけど、逆に生んで欲しくなかったと言ったら怒られるのかな。今のところ言うつもりはないけど。
これまでの人生、肯定もされた。その倍位否定された。大学選びや趣味については否定されないだけマシだけど。
テストでいい点をとっても、資格をとっても、高校、大学合格しても、内定がとれても、褒められた記憶がない。しいて言うなら「ちゃんと褒めてよ」と口にだしてようやく棒読みの褒め言葉がくる。頭を撫でられた記憶がない。抱き締められた記憶がない。なんだったら頭を撫でられた明確な記憶は中学の先生だ。抱き締められたのは友達だ。どっちかと言えば抱き締める方が多かった。多分それもあって人とのスキンシップがよくわからない気がする。話が逸れてる。
多分愛されてない訳じゃない。それでも生きる理由にならない。
誰かに必要とされたい訳じゃないけど、それでも否定されたら傷つくし、無価値な人間であることを突きつけられるようで悲しくなる。必要とされたい訳じゃないとか言いながら実際拒絶されれば傷つく自分が嫌。気にしないでいられればもう少し生きやすいのかもしれないけど、性質がそう変わるわけもないから矛盾を抱えてる。
なんで生きなきゃいけないのか。とにかくずっと目覚めない眠りにつきたい。目が覚める度絶望する。まだ続けなきゃいけないのか。もうゲームオーバーでいいから。コンテニューなんて望んでない。いつか終わるのをずっと夢見て死なないでいるのは嫌だ。電源を切るみたいに意識を永遠に喪失したい。終わりたい。終わらせて欲しい。
感想1
これまでの人生で言語的あるいは非言語的に否定されたり、責められたりする経験があり、投稿者さんは自分を「甘え」と思わないと納得できない気持ちになっているのかなと思いました。読んでいて、投稿者さんはむしろかなり努力していて、ただそれが正当に評価されてこなかったのではないかと思いました。努力をしなければいけないということもないと思いますが、取り組んでいることが認められず、また自分自身でも肯定しづらい状況だと苦しさを感じるのも当然だと思います。
投稿者さんが受け取ってきたメッセージの中には「人には迷惑をかけてはいけない」「他の人がこなせていることをできないのはおかしい」というような内容が含まれていたのかもしれないと想像しました。
でも、そもそも人はさまざまな存在の中で支えられて生きているものなので、他の存在に自分のなにかを負ってもらっていない人はいないはずです。また人それぞれできることは違いますが、それは当たり前のことで、だからこそ「じゃあどんなふうにやっていけばお互いにとっていいだろう?」と考える余裕がなければ、お互いにとって不幸な状況になってしまうだろうと思います。
「あんたが出来るわけない」という言葉にはどこか投稿者さんの存在を狭小化してしまう力が働いているように思いました。
もちろん、人にはできることもあればできないこともあります。でもそれは、人を思ってのことだとしても、親であっても、他者が勝手に決めることではないだろうと思っています。
「必要とされたい訳じゃないとか言いながら実際拒絶されれば傷つく自分が嫌」という言葉が印象的でした。個人的には、人は傷つく時は傷つくし、悲しい時には悲しいものだと思います。それはつらいことかもしれないけれど、少なくとも悪いことやダメなことではないと思います。この経験談に、投稿者さん自身が思っていることを率直に書いてくださったように、投稿者さんの感覚や気持ちがそのまま尊重される機会が増えたらいいと思いました。
実は、読ませていただき、書かれていることに共感する面がとても多かったため、もしかすると無意識のうちに自分を重ねて書いてしまっているところがあったかもしれません。もし見当違いなことを書いていたら、申し訳ありません。なにか感じたことがあれば、ぜひ返信をください。
自己整理として、経験談を書いて送ってくださってありがとうございます。