経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

社会的に生産性のないものは、馬鹿か

「お前にかけた養育費以上の金額を、お前が社会で生産できなかったら、何の為にお前を産んだのか」

これは私が実親に言われた言葉だ。今でも帰省した際の家族間での食事中、私が何か意見する度に、「お前は稼いでから物を言え」と言われる。まるで稼ぐ能力のない者は人間ではない、とでも言うように。

とはいえ私は、親から暴力を振るわれていたわけではない。自分の親なんてもっとひどい、という人などいくらでもいるだろう。ただ、彼らの言葉に傷つけられてきたのは確かだ。私の人格を否定する過去の言葉が、残響になって今も私を苦しめ続けている。いわゆる“親ガチャ”は、私の場合、ハズレなのだろうか。

私の知人にもいるが、親から正しく愛されている(いた)人は、家庭は幸福であるというイメージがあるのか、子を愛さない親が存在すること自体、信じられないらしい。無条件の愛を受けた人とそうでない人との間には深い溝があり、分かり合うことは難しい。

私はさしてあたたかくない家庭で育ったからなのか、結婚も子供を持つことも、未来永劫、決してないとはっきり言える。そもそも他者に関心はないが、仮に誤って結婚したとして、自分もいずれ、自分の子供を同じように傷つけてしまうだろうと思うのだ。生きることの疲労から、ふと、相手を憎んでしまうのだろうと。

反出生主義を、冷酷な、慈悲のないイメージで捉えられているのを目にすることがあるが、私はむしろ、産まれない命への愛ゆえにそれを支持する。これ以上、私(たち)のようにひどく傷つく人が産まれないために。

冒頭の言葉は、私の親の言葉なのだが、世間の声のようにも聞こえる。経済を回す者が人間なのだと。社会に貢献する者が人間なのだと。

だが私を含めたどれほど多くの人が、その生産性至上主義に苦しめられているだろう。

働くことに向いていても、向いていなくても、生きていられればいいのに。

「私なんてもっとつらいのだから、そのくらいのことは耐えて、働きなさい」と言う人は多い。みんな、つらくなくなればいいのに。

うつ病の寛解も、生活保護からの脱出も、最終的なゴールは“社会復帰”だ。だが真の意味で人間らしい、健康で文化的な生活を営める場所は、今の社会である、といえるだろうか。

私は現在、アルバイトを転々としている。仕事を覚えられずに怒られ、怒られると頭が真っ白になり、動悸がして、胸が焼けるように熱く痛む。たった一度言われた言葉の、鋭さも、そこに潜む悪意も、すべて記憶されて、一人になっても思い出して苦しくなる。心にギターアンプを抱えているかのように、精神の痛みが増幅する。

アルバイトにもかかわらず、あまりの仕事の多さや押しつけられる責任によって心が折れ、辞めたこともある。そしてやっと続けていけそうな職場が見つかったかと思った矢先に、契約が打ち切られた、ということもあった。

当然、収入は何年も低い。お金がないということは、選択肢がないことだ。旅には行けない。服は買えない。さまざまな、自分へのご褒美もできない。食事を我慢し、心療内科へ通院していたこともあったが、金銭が底を尽きて中断した。

考え方の古風な人は、「女性ならば結婚すればいい」と言うだろう。だがそれもまた、私を含めた多くの女性を苦しませている言葉だ。恐ろしいほど家事の苦手な女性や、一人でしか生きられない女性を。私のことなのだが。

さて、こんな社会は“ゴール”だろうか。もちろん、私の過ごしてきた世界は、社会の一面でしかない。だが、そこで生きることには、もう疲れ果ててしまった。私の心はずたずたに切り裂かれてしまった。

そんなとき、私は誰かに打ち明けることが難しい。子供の頃、親に恐る恐る悩みを告げたとき、「お前があのときああしなかったから」と、私自身のせいにされてあしらわれた。それは正しかったのかもしれない。だが、そう言われて悲しくなった経験が、誰かに頼ろうとする気持ちを失わせた。誰かに言っても意味のないどころか、余計につらくなるだけなのだと、思うようになってしまった。

それでも死ぬことは恐ろしい。飛び降り自殺の多いことで有名な陸橋に立ち、下を見ると、恐怖に胸がひんやりとした。

私たちはこんなにも、色んなことを前もって知れる世界にいるのに、誰も死んだ後のことを教えてくれない。過度な情報化社会にいてもなお、それを知ることはできない。死を見るとき、その抗えない不可逆性を思い知らされる。

死への恐怖を乗り越えられる状態があるのだとしたら、極度の疲労と酩酊、そしてほんの一時の衝動だろう。行けるか。まだ、行けない。思えば宿題や決断を先延ばしにしてきた人生だった。そのようにずるずると最終決断を先延ばしにしてここまで来てしまった。

まとまりのない文章になってしまったが、私にとっての生きづらさとは、と考えたとき、それは多層に混線した理由なのだということが、綴りながら見えてきた。

何となくとても生きづらい、私の“唯ぼんやりとした不安”の解体にお付き合いくださり、読んでくださった皆さま、ありがとうございました。

感想1

経験談を投稿いただき、ありがとうございます。

投稿者さんは身近な人からも、社会からも「生産性がないことは悪いこと」といったメッセージを浴びせられているのだなと感じました。

確かに、独り立ちして労働して所得を得て家庭を作って……といったものがあるべき姿のように言われることも多いように感じますし、それができないと「生産性が低い」というレッテルを貼られて、後ろめたい気分になることにもなりそうだなと考えます。でも、社会が要求する「あるべき姿」って、社会にとって都合の良いものでしかなく、個々人が生きやすいかどうかとは無関係かもしれないと思うこともあります。

それに、いったいどんな人間なら生産性のある人間と言えるのでしょう……。少ないインプットで多くのことをアウトプットできる人間を生産性が高いとするならば、それはいくつ以上なら高いという基準になるのだろう、と疑問が湧いてきます。基準値が決まったところでその基準内でも下位層ができてしまう、不毛な状況を想像してしまいます。

個人的には生産性が高いことだけが価値ではないと思います。ですが、生産性が高いことは社会的にも見えやすいし認められやすいから、生産性至上主義になってしまうのかなと考えました。競争させることで発展につながる側面もあるかもしれないけれど、投稿者さんの言うように、生産性至上主義で息切れしてしまう人がいるのも事実だという感覚があります。

生産性は高くあるべきで、収入はできるだけ多く、心も体も病まずにいるのがよくて、女性なら結婚すればいいといった「みんな」の「当たり前」が「みんな」の想像よりもはるか多くのひとを傷つけているかもしれないのに、それを無視したり見ないふりしたり蓋したりしている社会の状態がありそうだなと感じました。

自分よりつらい人がいるからまだ自分はましだ、だからまだ頑張れるじゃなくて、みんながつらいと言い合える方が確かに健全な気もしてきます。

なにはなくとも生きていていいし、つらくなくなれば死にたくなったり、消えたくなることも減りそうだなと想像しました。

投稿者さんの生きづらさや唯ぼんやりとした不安をつづられている中で、社会の求める「あるべき姿」は息苦しくて、本来的にはその人の「ありたい姿」でいられればいいのに、となかなかに実現の難しそうなことを考えてしまいました。でも、少しずつでもそうなったらいいな、と感じました。

感想2

文章を読んで、生きづらさはあなたのものであると同時に社会のものでもあるのかなと思いました。今の社会に広くある、行き過ぎた考え方をそのまま信じるのではなく批判的に考えている方なのだなと思いました。

一文目のセリフは、父親さんの資本主義的な価値生産性至上主義を顕著に表していると思いました。人は価値を生み出すためだけに生きているとか、生み出されるものの価値は全てお金で測れるとか、生み出したものがその人の価値そのものであるとか、そうした極端な思想に私は全く同意できません。思想が人によって違うのは自然なことであるとしても、そのように人の価値を勝手に測り、誰かに価値がないと見なす考え方には、おかしいと言いたいです。おかしいと思うし、自分の考えとは違う、と分かっていても、そうした主張に触れると心が苦痛を受けます。

私は、反出生主義を肯定も否定もしていません。ただ、現時点で生まれている命(それは人以外も含め、日々刻々と増えていそうです)については、その存在を否定したくないと思います。どうしたら、もう生まれてしまった私たちが、なるべくお互いを傷つけないで一緒に生きられるだろうかと思います。

「みんな、つらくなくなればいいのに。」というあなたの言葉に、共感しました。もうこれからは資本主義的な価値を増やす工夫よりも、つらさを減らしながら暮らす工夫をした方が、お互い幸せになれそうなのにな、と思います。ですが、その発想の切り替えが、社会全体ではあまりうまくいっていないのかなと思います。それでも、小さいところから、つらさを減らしながら暮らせるような工夫をして、周りの誰かに広げることができたらなと思います。

全ての人が健康で文化的な生活を営むことができるというのも、現時点では理想であって現実ではないのだろうと思います。でも、私は少しでもそこに近づけたいと、そのために何かできることがあるのか探りたいと思います。

選択肢が制限されるのは、それだけでも苦しいことだと思いますが、今の社会では選択肢の広い人と狭い人の格差が大きいということが、理不尽で、私たちの苦しさを上乗せしているように思います。そこでより多くの豊かさを我が物にしようと競い合ったとして、勝っても負けても幸せではないだろうと思います。

資本主義的な市場の枠組み(ルール)の範囲内では、お互いに競争せざるを得なくなってしまいますが、そうではない別の枠組みによって、豊かさを分け合っていくにはどうしたらいいのだろうと、これからも対話しながら一緒に探りたいと思います。

あなたが経験されたように、誰かに思いを伝えることで、相手の思想を押し付けられ、つらさを増やされてしまうということも、残念ながら実際にはあると思います。でも、この経験談を送っていただいたことで、あなたが実体験から考えてきたこと・感じてきたことを知ることができて、私はありがたく思いました。

お返事1

お返事をありがとうございました。
とても真摯にお読みくださったことを大変ありがたく思います。

まず、反出生主義のくだりについては、私自身も、「もう」生まれてしまった命の存在はまったく否定しません。むしろ一人も否定されることなく、肯定されていてほしいと個人的には思うほどです。

また、「これから」生まれようとしている命に対する、言葉にならない嬉しさも知っています。知人に子供が産まれれば、誰からも存分に祝われてほしい、と何の理由もなしに思うものです。

ただし、私の肉体から新たな肉体が分離し、生命体となる可能性が万一でもあるのなら、それは「まだ」ですら存在してほしくないのです。そして他の「まだ」存在していない命が、存在してしまうことによってこの苦しい目に遭遇しないように、「まだ」ですらなければ、と願ってしまうのです。

そして「もう」生まれてしまった私たちについて、どうすれば少しでも生きやすくなるかを、私なりにも考えていきたいです。

幾人かの知識人が提言されているように、行き過ぎた資本主義社会は限界に来ているのかもしれません。ただ突然にその構造が崩壊することもないでしょうから、お返事にいただいたように、既存の枠組みとは別に、豊かさを分け合っていく枠組みが今の段階では必要なのだと思います。

この社会に疲れてしまった人々が多いという事実があり、疲れたのは自分だけではないのだと知れること、つらいと言い合えること、それも大切な心の分かち合いです。

そして資産、生活の糧を分かち合うこともまた、私は重要だと思います。今の社会で疲弊しきって倒れた人々の、その犠牲の上にあぐらをかいている人に、このままで本当に良いのかと、問い続ける必要もあるでしょう。

私をこんな目に遭わせやがって、という社会への怒りとその報復のために、無差別に人を殺傷する選択をしてしまった人さえいます。決して彼らを擁護するつもりはありませんが、社会がこのままで良いはずもないところまで、来てしまっているようにも感じます。

生産性の高いことは見えやすいから、生産性至上主義になりやすい、と私も思います。ある意味、最も容易いやり方です。見えるものだけで人の価値を決めることには、何の知恵も思慮も要らないからです。その易きに流された一面的な決めつけが他者を傷つけ、社会を傷つけ、その社会のなかにいるその人自身をも苦しめているのではないかと、考えなくてはなりません。

みんなつらくない世界は、確かに絵のようなユートピアかもしれません。しかし誰一人ユートピアを語らなくなったとき、真に社会はディストピアになるのではないでしょうか。

つらくならないようにと思っている人がいる、そのことが誰かにとっての些末な助けになるかもしれない、とおこがましくも私は願ってこれを書いています。

つらさを減らしながら、暮らしてゆけますように。

傷だらけの人が、優しさのなかで生きてゆけますように。

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