経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

コミュ障は死ぬしかない?

 コミュニケーション能力が「ない」こと。結論から言って死ぬしかないと思います。助けてください。
 「人付き合いが苦手」というと程度の差が広く、今回は深刻なレベルの人間が問題を楽観視した場合です。社会は致命的に人間関係に依存していました。

 働けるわけがないです。学校と違って嫌いな人と仲良くしなければならない。人の入れ替えが少ないからずっと仲良しでいないといけない。業務上のコミュニケーション以上に上記の問題が厳しいです。やっぱり仲が良い方が指示を出したり仰いだりが楽なので、例を挙げると重い物を移動するとき「お忙しい中申し訳ありませんが手を貸していただけないでしょうか」と「nちゃん手伝って〜」後者を呼ぶほうが楽です。このことは「仕事が回ってこない」「さぼっている」「作業効率が悪い」という悪循環を生み出します。働けるわけがないです。私の後に入った人がコキ使ってもらえて割引券まで貰っているのを見ているのは辛かったです。社会人も人間なので学生の延長、学校は社会のシミュレーションだったかもしれません。社会に出れば社交的な人間と有意義な関係でもって社会貢献の謝礼として静かな暮らしができると思っていました。
 このレベルのコミュ障が健常者であること、働かないという選択肢がないことに絶望しています。病気ではないので支援もなく治るということもなく本当に何の手立てもありません。直すしかない。

 今回の話題、深刻なレベルの人間が問題を楽観視することについて、コミュ障を直すために無理に輪の中に入ろうとすることはより深刻な問題を起こすからです。

以下自分語り↓スクロール↓
 幼児期から既に浮いていて輪の中に強引に割り込んでいた事が今でも恨まれて地域全体から孤立しています。そこでインターネット上の人間とコミュニケーションしたのですが、それで上手くいけば良かったのですが上手くいきませんでした。人間として何かが欠落しているのだとここからようやく事態を深刻に捉え始めました。
 仕事をクビになったあとソーシャルスキルトレーニングに1回だけ参加して早退しました。それで上手くいけば良かったのですが、犠牲になる参加者に申し訳なくなったのと、人によって善悪の捉え方が違うから勉強するだけ無駄だと考えました。こんなに理不尽なものが暗黙のルールとして共有できている(ように見える)ことこそ異常だと思いました。「問題を問題たらしめるのは苦しみの有無であり、他者に望まない苦痛を与えないようにする」という道徳観さえ共有できないかもしれないのは失望といえるほどの隔たりになります。
 以降、私のコミュニケーションは「他人の気持ちは分からない」前提で動くようになり少なくとも私自身の苦痛は軽減されました。分からないから、分かった気になって誤解を持たない、伝わる工夫をする、分からないから聞く。でも構造上「ミラーニューロン」によって共感することが可能になっている可能性があるらしいです。どちらにせよ、コミュニケーション能力に欠陥がある人間の処遇は重要な社会問題だと思います。

 コミュニケーションが全くできないとコミュニケーションが全くない仕事を選ぶしかありません。資格があっても入社後コミュニケーションがあると無駄になってしまうと思って夢も希望もないです。それ以前に学校に行けないです。将来的に苦しんで死ななければ何でも良いのですが本当に何もない(安楽死も)です。あと栄養失調で人は禿げます。希望があるとすれば、社会がコミュニケーションに頼らないものに変わることです。普通の人でも仕事の人間関係に悩む人がほとんどだと思うので非常に良いことだと確信しています。

 本当にどうしようもなくて感情的な文章になっていると思います。自分なりに楽になった方法を兼ねて何か方法があればと思って書きました。ありがとうございました。

感想1

文章から「死ぬしかない」という考えに襲われて切羽詰まっているような様子が伝わりました。

以前の職場で「仲の良さ」によって差別的な扱いを受けたことで、「仲良くしなければいけない」という考えが染みついてしまったのだろうかと想像しました。本当は、少なくとも仕事の場面では、親しさの度合いに関係なく対等に接するべきではないかと私は思います。割引券を貰える人と貰えない人がいるというのは、ちょっとした差別的な待遇だと思いますし、それ以外にも対等ではない待遇があったのではないかと推測しました。

この職場での経験によって、他人と協力して行う仕事には、仲間との親しさやコミュニケーション能力の程度による差別が付きものだ、と覚えてしまったのなら、勿体ないなと思ってしまいます。でも、文章の最後の方で「コミュニケーション能力に欠陥がある人間の処遇は重要な社会問題だと思います。」と語られていて、あなたはこれを個人の努力や能力の問題ではなく、社会的な問題だと捉えているのだなと分かりました。私も、その見方に同意します。

また、社会に出れば「静かな暮らしができると思っていました」とあり、幼い頃から静かな暮らしをしたくてもできない状況だったのだろうかと想像しました。

ソーシャルスキルトレーニングについてのあなたの感想を読んで、私は世の中には「これくらい全員できて当たり前」というメッセージがありふれていそうだなと思いました。そのスキルが誰のためにどのように役立ちそうか、ということも問われないまま、「できる」ことを要求される場面もあると思います。でもそれによって、「自分には当たり前のことすらできない」のだと感じてしまい、不必要な自己嫌悪を抱える人は多いのではないかなと思いました。

このコミュニケーション偏重社会とでも呼びたい世の中に、私も疑問を持っています。必要最小限の情報共有をして、もっと人との関わりを楽しみたい人は自由にすればいいのではないかと私は思います。でも実際には、生きていくために重要な情報は隠され、誰かの心を傷つけるような情報や噂などが多く出回っているような気さえしてしまいます。

「分からないから聞く」をあなたが実践したときに、苦痛な目に遭うのではなく、誠実な反応が返ってくることが多くあればいいなと思いました。

感想2

経験談読ませていただきました。

どうやら人間は群れ(社会)をつくって生きる生物であるようで、コミュニケーション(言語・非言語)が必須となり、人間の集団を見ていると、たとえ学力や仕事のスキルなどで同じ能力を持っていたとしても何らかのコミュニケーション能力が高い人の方が好かれている場合が多いように私は思います。そう考えると確かにコミュニケーションが苦手なことは社会の中で不利にはたらくことが多いのは1つの事実だと私は思います。

コミュニケーションが全くできないと表現せざるえない経験を投稿者さんは重ねてきたことを想像し、言語でも非言語でも他者と意思疎通ができない場合、どう仕事をしたらいいのだろうと悩みました。

人間関係の悩みを減らすには、投稿者さんが実践しているように「他人の気持はわからない」を前提に人と関わるのは1つの方法だと私も思いました。相手の気持ちを想像しても擦り合わせが出来ないと誤解が生じてしまうので、わからない前提を置いておくのは大事なことだなと思いました。そして、そのことを周囲にも知っておいてもらうと「気持ち」も言語にしてもらえないかと淡い期待をしてしまいそうに私はなります。(察する文化のある日本だとまだ難しそうと思ってしまう自分もいますが。)

それと、自分のトリセツをつくってみるのはどうだろうと私の頭に浮かんできました。
自分が自分について細かく知っておくと、客観的に見る材料になりますし、もしかしたら周囲に自分を知ってもらうことにも役立つのかもしれないと思いました。

得意にしろ苦手にしろ自分のことって以外と知らないこともあると思うので、自分について知りたくなったら、リアルな周囲の人よりも傷つくリスクの低い匿名の電話相談などを利用してみるのもありかもしれないななんて思いました(余計なおせっかいだったらすみません)。

感想3

投稿者さんとしては、コミュニケーション能力がないことの結論は死ぬしかないという仮説なのですね。楽観的な反応かもしれませんが、私としては死ぬ以外の結論があるような気がしました。現代社会ではコミュニケーション能力が高くないことに加えて、孤立している場合、生活が立ち行かなくなったり、死ぬしかないと感じることを多少なりとも理解しているつもりで感想を書いてみることにします。

ところどころ表現が極端に感じる部分はあったのですが(文章の最後を読んでみると)、感情的な文章ということだったのですね。自分なりに楽になる方法を模索しての投稿と知ることができたので、投稿者さんの思考に柔軟さがあるのだと私は考えを改めることができました。

投稿者さんとしては、仕事の人間関係よりも、学校の人間関係の方が楽な部分があったのかな、と想像しました。最近10代の若者が「学校なら気の合う人といればいいが(もしくは一人でいればいいが)、職場は違う。苦手な人ともコミュニケーションをとって成果をださなくてはならない」と話していたのですが、その意味に近いのかな・・・と考えました。

確かに「人付き合いが苦手」の程度の幅は広いなと思いました。私は、「人付き合いが苦手」という言葉を浅く捉えていたかもしれません。個人が感じる苦手感と、制度やシステムで社会側が認定する人付き合いの苦手さについては差がある。ということを、投稿者さんは伝えたかったのかな、と理解してみました。

「他人の気持ちは分からない」を前提で動くようになったことで、投稿者さんの苦痛は軽減されたのですね。私としては、他人の気持ちをわかろうとする姿勢を前提としながら、結果がでたときに「他人の気持ちはわからない」という落としどころになることが多いような気がします。いずれにせよ、他人の気持ちはわからないことを前提にコミュニケーションをとるのは1つの知恵だと思いました。

投稿者さんは、周囲を気遣っているけれど、周囲に理解してもらえた手ごたえがないのかもしれないとも考えました(間違っていたらごめんなさい)。投稿者さんの考えていることや感じていることを、死にトリの他のコンテンツも使いながら深めていくのはどうでしょうか。気が向いたらアクセスしてみていただけたら嬉しいです。

お返事1

拝読いたしました。お目通しいただきありがとうございます。自分の状況を客観的に見ることができました。改めて余裕がない文章に感じます。

 あれから引きこもりを対象とした軽作業の説明会に行きました。ですがやっぱり難しいように感じました。接触が少なければ……と簡単な事から慣らしていこうという目標だったのですが……。確かに、実際のコミュニケーション能力以外にも課題がありそうです。苦手なことを明確化して0から鍛えていくのが確実かもしれません。

 現在SNSや所属している団体のチャットでぎりぎりコミュニケーションに触れるよう意識しています。上手くいかないことばかりでネガティブに考えてしまいがちですが、憧れの団体で夢を叶えるためにも何とか死ななくて済む方法を考えていきたいです。この度はありがとうございました。

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