経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「人として」と「人以外として」

 前回もお返事ありがとうございました。
 正直に言えば、私は人の視線を気にすることが生存戦略な生き方をしておりました。それを前回の返信でご指摘を受け、しかし治し方もわからないまま支援を受け、勉学に励んでおりました。
 
 少し心が楽になった要因が一つあります。就労支援にて、私の話に現実で心配をしてくれる方に出会いました。

 その方は特別な人間でもないと思います。
 特異な能力があるとか、才能の塊だとかそういう理想的な人間像でもなんでもない、普通の人です。失敗することを自分で許す人です。私と普通に接してくれるし、けれど境遇を聞いてくれた後は少し特別に話を傾聴してくれる一般的な関わり方を知っている人だと思います。
 私からすれば励まし方もテンプレートで、しかし何度もそんなテンプレートを投げかけてくれる一生懸命な方です。
 感謝しつつも、何度もお時間をかけていただき申し訳ないと思います。

 その分結果で返してきました。仕事が早いとよく言われ、コミュニケーションも問題なく、優しい方だと他の方にも褒められます。
 
 ただし、人間を諦めている。
 人の事をよく見ている。
 人の欲しい言葉がすぐ理解できる。
 一生懸命にやり過ぎている自覚がない。
 考え事ひとつだけで体にも精神にも大きな負担がかかり、人に気を遣いすぎる。
 入所して半年ですか、それでも人間を諦めている項目には変化はありません。
 まあ諦めているのはそうなんですけどね。

 よく「人として」という話し方をネットでも現実でも聞いていました。
 よく自分を人間だと自称できるなと思いました。前回のお返事でもたしか、書いておられましたね。排除的な論理を感じる……だとか。すみません、メールボックスを少し前に整理したせいでどういう文脈か確認できず……。ただ、人間を語る時に排除的な論理を感じるのは首を縦に何度も振っていたと思います。私自身もそういう排除的な文脈を自然と使いがちだったかもしれません。もしご気分を害されていたら申し訳ないです。
 
 私、あんまり「人」になりたくなくなったというか。「化物」でもいいかなというか。だって受容してくれる場所が家にも支援施設にもできましたし、友達もいますしね。
 自信がついたのかもしれません。
 そうじゃないかもしれませんが、半年で変化があったのは確かです。自分で自分を可愛そうと思えるようになったのはすごく大きなことだと実感しています。
 それを「それでいい」と言ってくれる場所がようやくできて「あっ、他の人もそれでいいんだ」と。

 最初のお返事でもらった言葉が答えだったみたいですね。「化物でもいい」って。
 ありがとうございました。
 これからはどっちの自分でもいいと許しながら、考えながら好きになれそうなことを見つけて生きていこうかと思います。

感想1

投稿ありがとうございます。あなたの中で起きた重要な変化について書いてくれた経験談だと感じながら読みました。これまでのあなたは、人間を諦めながらも、人間になりたいと思ってきたのだと思います。その認識や思いはあなたの中でとても重要なテーマだったのかなと思いました。それが以前とは変化している、あるいは、別の考え方や要素があなたの中に増えている、ということなのかもしれません。
「あんまり「人」になりたくなくなった」「「化物」でもいいかな」というということの背景に、環境や友達の受容をあげていることが興味深かったです。別の言い方をすると、あなたでないものにならなくていい、今の自分の在り方をむりに変えなくていい…ということにもつながるのでしょうか? また、同時に、「受容してくれる場所が家にも支援施設にもできましたし、友達もいますし」ということを、あなた自身がしっかり受け取ることができて、その環境の中に受容されながら身を置いている実感を持っているからこそ、という面もあるのかなぁと想像しました。
私も、人間でも化物でも、宇宙人でも、べつの生き物でもいいし、人間になりたいと思っても思わなくてもいいと思います。あなたの経験談を読みながら、私自身の場合を考えていたのですが、私は自分に対して「こうありたい」と願う気持ちが強くなる時もあれば、今のままの自分でいいと感じる時もあり、そういう両方を行きつ戻りつしながら生きているような感じがしています。私も、自分が人間ではない感じがする意識がずっとありますが、最近、私以外の「自分は人間ではない」という自己認識を持ってきた人たちと関わることが増えて、「人として」「人間らしさ」ってなんなんだろう?ということがむしろどんどんわからなくなっているところです。
あなたを心配している「特別な人間ではない」その人との出会いは、あなたの世界の「人間」の奥行きを少しだけ広げるようなものだったりしたのかなぁ、と思いました。

感想2

前回お返事を書いた人物とは別になってしまいますが、タイトルの「人として」という言葉が目にとまり、思いがけず海援隊(70年代のフォークバンド)に同様の歌があることを思い出しながら感想を書かせていただきました。

投稿を読ませていただきながら、身を置く環境もですが、あなた自身の内面にも少しずつ変化があったことを感じました。就労支援事業所で、安心して関わることができる人との出会いがあったのですかね。失敗をすることで自分を許す人・・素朴だけどあたたかい、そんな人柄をイメージしています。何気ない「普通」の関わりの積み重ねが、言葉ではない部分であなたの心に響いたことを想像しました。

「人間を諦めている」ことは、あなたの苦悩を象徴する表現であるとともに、自分を守るための世界との向き合い方でもあるのかなと感じながら読んでいました。
対人関係において自分のスタンスを示す表現であるようにも感じているのですが、ありのままの自分でいるにはあまりにも酷な状況下で、「人間を諦める」ことは生き延びるための戦術でもあったのかなと、そんなことを考えています。
(私の勝手な想像で、あなたの気持ちと違ったことを書いていたらすみません)

人が人を語ろうとするとき、排除的な論理を感じるということは私自身も身につまされる思いです。ここでは率直な思いを綴ってもらいたいと思っているので、気分を害しているということは一切ないので安心して下さい。

自分を受容することは、周囲の言葉や態度にも影響を受けますが、自分のストーリーを自分自身で編み直していく過程もあったように思います。「化物でもいいのかもしれない」という思いが芽生えたことに、あなたの中にある確かな力を感じながら、読んでいる私自身も元気をもらったような思いでいます。
死にトリもまた、訪れてくれる方々の声なき心の叫びに耳をすませながら、安心して自分の気持ちを語れる場所でありたいとあらためて思いました。またよかったらお話を聞かせて下さい。経験談への投稿ありがとうございます。

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