何で、あのいじめっ子たちは、のほほんと幸せに暮らしてて、私は、今も担任と毎日話して苦しんでる。のほほんと過ごすアイツら見る度に思う。「苦しむべきはあんたらでしょ。」って。わかってる私が心の狭い人間ってことくらいでも、いじめっ子のこと許さないといけないのも警戒なんかせずにクラスメイトとして生活しなきゃいけないのも。でも、あんな形だけの謝罪で許せるわけない。学年主任は話し合いの時に言った。「この出来事が○○さんの人生を潤わすことはないから○○さんには、このことを忘れるくらい幸せになって欲しい」と。でもその手助けは自らはしない学年主任。許さなくていいし忘れなくていいって言うけど幸せになれるようにサポートしてくれる担任。私をいま生かしてるのは、担任だ。担任が忙しい放課後は学年主任と話すけれど、学年主任は、毎回ポジティブに変えて終わるだけだ。その場はポジティブになるのだろうが私は、学年主任の、あの明るさのせいで辛さが増すんだ。それで聞いたよ。「先生は何でそんなに明るくできるんですか?」って。そしたら学年主任「自分の心にばんからの箱を持っておいて嫌なこととかは一旦そこにしまうの」って言った。それを聞いた瞬間に思ったよ。「あんたはそれでいいんだろうけど私は、そんなことできないんだよ。私の心の中には、1人で耐えてた1週間があって、あんたには想像できないレベルに傷ついてんだよ」って。それをオブラートに包んで言った。そしたら学年主任「先生間違えたこと言ったね。ごめんなさい」って言われたけど、学年主任相変わらず明るい。もう嫌なんだよ。学年コーナーにも、明るく元気よく誠実にって書かれてるし、明るく元気にいて欲しいなら、まず元気じゃないやつの、サポートしろよっていっつも思う。けど学年主任は、こちらから助けてって言わない限り助けない。そんなんじゃダメなのに、そんなのだからいじめっ子がつけあがるんじゃん。そのへんがわかんないんだよね。学年主任は。明るい熱血教師だから。私はそんなのより、担任みたいに、許さなくていいし忘れる必要も無いとか言いながら積極的に話そうとしてくれる方がいいんだよ。それがわかんないんだよね。学年主任には。もちろん学年主任には、学年主任の考えやポリシーがあるんだろうけど、それを押し付けられたって無理だよね。私にだって考えがあるんだから。もちろん学年主任が悪いやつだと言ってるのではなく、今回のいじめに関しては納得のいく対応じゃなかったってだけだ。その後も、学年主任は、普通に生活してる。担任は普通に見せて、休憩時間毎回教室に戻ってくるようになった。私は、担任が教室にいる間は、安心する。だって担任もいじめっ子警戒してくれてるから。その間に授業準備する。それ以外は、席でいじめっ子警戒する。昼休みは、10分で弁当食べて、その後担任と話す。担任に最初の方は、すみませんって言ってたけど担任は私が謝る度に「○○さんが謝ることじゃない。○○さんだってこんな状況になりたくなかっただろうし。それに私が○○さんと話したいのよ」って言ってくれてた。それだから安心して、担任と話せた。ずっと閉じてた心の扉を担任にだけは開けれた。もちろん担任だって他の35人のクラスの人たちや、教科担当で見てる子のこともあるから、私だけ見てるわけじゃないけど、それでもこの学校の中に担任がいる。そう思うだけで辛さが少しだけ減る。だから担任が来る前の7時台すごい怖い。いじめっ子が担任より先に来たらどうしようって。今まで何度もそうなっていじめっ子が教室に来た瞬間に、警戒モードが入っちゃう。担任が教室に来るまでの時間。担任が教室に来れば担任と話すから安心する。
ここまで読んでくれた方ありがとうございました。読みにくいし長かったですよね。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
いじめなんかのせいで人生が狂った
感想2
経験談を読ませてもらいながら、終始「うんうん…」と頷いていました。
いじめの理不尽さに対する怒りや、学年主任に対するどうにも納得できない感覚、いじめっ子と同じ空間で過ごすことの怖さ…。辛い経験を忘れたり、考えないようにできたら楽なのかもしれないけれど、それでも投稿者さんが確かに受けたきた「傷」を考えたら、「どんな理屈があったって、そりゃ心からなんて許せないよなあ…」と率直に思ったことを、まずは伝えたくなりました。
いじめが起きたのは、いつ頃のことだったのでしょうか…勝手なイメージかもしれませんが、「1人で耐えてた1週間」を経て、投稿者さんにとっての「学校」という場所の居心地や、見慣れた景色の見え方、先生やクラスメイトへの感覚が、少なからず変化したところがあるのかなと想像していました。その感覚の変化も含めて、「人生が狂った」というタイトルに繋がっているのかなと推測しています。学校における担任の先生の存在は、投稿者さんにとっての安心材料であり、居場所に近いものになっているのかなとも感じました。
また、そうした担任の先生への安心感ゆえなのかはわかりませんが、学年主任の先生に対する違和感というか、「なんでそういう対応になるんだ…」感が強まっている様子も伝わってきました。本来なら守ってほしい立場の相手から自分とは違う感覚を伝えられたら、伝えること自体を諦めたくなるというか、「この人には伝わらないだろうな…」って感覚になるような気もするなあ…イメージしています。一方で、学年主任の先生は投稿者さんの「これから」や「今以降」に対しての声掛けをしているようにも思えましたが、当人(投稿者さん)にとっては「今」のしんどさや怖さと闘っていると思うので、見ているところが違うという部分もあるのかなと推測しました(どちらが良い悪い・正しいか間違いかということではないですし、何より、投稿者さんが理不尽な目に遭い、傷ついたことには何ら変わりないと思っています)。そういった視点で考えると、投稿者さんが学年主任の先生に対して「相手が悪人なのではなく、今回の対応が自分に合わなかった」というようにズレを「違い」として捉えたり、合わないものとは距離を取ったりすることは、とても大切な力であるようにも私は感じました。
全体を通して、投稿者さんの辛さや悲しさ、やるせなさをたくさんイメージしましたが、きっと、実際に投稿者さんが感じてきた気持ちは、この何十倍にもしんどい思いなのかなとも想像しました。「怖い」と感じる場所に毎日通い続けること、警戒モードを発動することは、私や周りの人が想像する以上にメンタルが削られると思います…。
きっかけとなる出来事が表面上過ぎ去ったとしても、嫌なものは嫌だし、許せないものは許せないでいいと、私は考えています(心の広さは人によるし、どれだけ広くて余裕があったとしても、「受け入れたくないもの」は確かにあると思うからです)。とはいえ、その感情とずっと付き合い続けるのも、それはそれでしんどいよなあ、とも思います。心が疲れたときにでも、そうでなくても、またいつでも死にトリという場を使ってほしいです。
投稿ありがとうございました。
感想1
あなたのやり場のない憤りと、今も学校の中でたくさんの不安や怖さを感じながらも、なんとか日々をつないでいるあなたの生活を想像しながら読ませてもらいました。あなたの率直な感覚や思いが言葉になって表れているまっすぐな感じのする経験談だと感じました。
いじめという状況があったその日々はすぎたけれど、それは謝罪によって「終わった」ことになっているかのように見えるかもしれないけれど、だけど、あなたにとってその後の毎日は続いていて、その生活の中で感じることは、「人生が狂った」と感じるくらい、それ以前の生活とは違うものなのだろうと想像しています。
「ポジティブ」で「明るい」学年主任は、あなたが「元気じゃない」ままなんとか学校に通っている状況とあまりにギャップがあって、別の世界の言葉みたいに通じない感じなのかなと思いました。それとは違って、担任の先生は、あなたに「ポジティブ」みたいなことを求めないで、あなたの今の状況をそのまま受け取った上で、あなたの様子を見守ってくれている感じなのかなと想像しました。そういう相手であれば、「話したい」という思いにも安心して応えられたのかなぁと思います。
本当であれば、学校という場所自体が、あなたにとってもっと安心して過ごせる場所だったらいいのだと思いますが、それがとても難しくなっている中で、担任の先生が近くにいてくれることは大きな安心材料なのだろうと思いました。
私はあなたがあなたをいじめた人たちを許さなくてもいいし、それが「心が狭い」ということではないと思います。いじめは本当は学校という場所自体の問題でもあると私は思います。それは学校の中にいる教員などの大人が解決すべき話でもあるし、もっというと、学校という場所の仕組みを作っている国の制度の問題でもあると思います。いじめが起きないやり方、起きてしまっても、すぐにちゃんと解決できること、苦しい気持ちをした人が蔑ろにされないで済むことなどはとても大事だし、考えていかなければいけないことだと思います。
あなたがとてもたくさん傷ついたこと、今も怖い思いを持ちながらあなたなりに日々を生活していることを文章からとても感じました。あなたにとって「警戒モード」にならなくても過ごせる場所や時間、相手が少しずつ見つかるといいな、と思っています。あなたの経験談を投稿してくれてありがとうございました。