私が初めて明確に「周りと違う」と思ったのは幼稚園の頃だったように思います。私は持病のせいであまり人と関わることがなかった。だから、話しかける方法とか、話題とかそう言うものがなかったのではないでしょうか。みんなと笑い合いたくて、初めてブランコから飛び降りて大怪我したあの日。みんな笑ってると思いました。でもあの怪物を見るような目は今でも忘れられない。ああ、自分はなにかズレているんだな。そう思いました。でも、一人になるのは怖いからなるべく目立たないように周りと同じことをするようになりました。ここで泥団子を作ったら褒められるんだ。ここで縄跳びの練習をしたら褒められるんだ。いつしか誰かがしたことの真似でしか生きられなくなったみたいです。最初はそれでも良かった。でも、だんだん誰も私のことを見向きもしなくなりました。真似ばかりしたからでしょうか。所詮、個性がない量産型の人間になっていたのでしょう。私の世界は動かなくなりました。全てがモノクロ。まるで昔の映画を見ているような気分でした。動いているフィルムの中には、自分が見当たらない。いたとしても人形みたいに作り物。その事実に気づいた日から、感情と表情が一致しなくなりました。対して面白くもないのに、口を開けて笑う私。気持ち悪いったらありゃしない。そして申し訳なくなった。普通じゃない自分を育てる両親に。小学校も半ばを過ぎた四年生の頃。私は初めてリストカットをしました。動機は何だったのでしょうか。ただ流れる血を見て、まだこいつは息をしてるんだなと思ったことだけ覚えています。そして同じ頃母にこんなことを言うのが口癖でした。「ママとパパって不幸だよね。私なんか産まなきゃ良かったのにね。私が縛ってるんだね。」って。今でもそうです。私はどうしたら、これ以上自分に失望になくて済むのでしょうか。生きたいと思っている誰かさん。私の命をあげます。私の代わりにみんなを幸せにしてください。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
違和感
感想2
経験談への投稿ありがとうございます。読ませていただきました。モノクロのフィルムの中に自分の姿が見当たらない、という文章に思わず目が止まりました。あなたの過ごす時間なのに、あなたが不在のまま進んでいる時間の虚しさを感じるようでした。
「みんなと笑い合えるか」「一人にならないように」「両親が幸せかどうか」あなたの中心が自分ではなく「周りの人」であることが、ところどころに書かれており、自分がやりたいかどうか、楽しいかどうかではないところで生きる練習をしてこられたんだと思います。
自分よりも周りを中心にして生きるのはこの社会においては簡単で、あなたと同じように「普通」になりたくて努力して、最後には自分の気持ちや、自分のやりたいことが分からなくなってしまい悩んでいる人は沢山いるように感じます。
それは「自分(の気持ち)を無視し続けている」という状態なのかもしれません。人から自分が無視されるのが辛いように、自分から自分が無視されるのも辛いことです。無視され続ければ、生きていることが辛くなるのは当然のように思いました。
本当はみんながみんな違うことが当たり前で、誰でも「人と違う」はずだなあと思うと、違うことがこんなにも苦しいことではなく、認め合って楽しめるようにはならないものかと、私もいつも悩んでいます。
感想3
周りと違うのかもしれないけれど、あなたの個性はなんだかすごくあるんだなって感じました。話したい話題も幼稚園のときに好きだった遊びも実はあるんじゃないかと。真似を続けた結果、世界が動かなくなったのもあなたの個性が蓋をされたからだったのかもしれません。だからといって、個性全開で今の社会を生きていける気がしないから、どうしたらいいのか、どうしたらうまくいくのかを考えて必死にもがいてきたように感じました。「周りと違う」≒「よくないこと」という”雰囲気”が私たちを蝕んでいるような…。
私は自分が普通じゃないと思うことも辛いし、かといって普通になろうと頑張ってみるとそれはそれで辛いんですよね…。あなたの中にも、個性に蓋をしたくないあなたと、普通にならなきゃと思うあなたがいて、常に戦っているようなそんな想像が私には浮かびました。実は、ブランコから飛び降りたらみんなが笑ってくれるんじゃないかって思ったあなたの心理が気になって仕方がありませんでした。綺麗に着地できていたら拍手喝采だったのかな?など勝手な想像が膨らみ…。そういう話が当たり前にできないから「普通」にならなきゃって思わされてしまうんだろうなとも感じています。
感想1
書き込みありがとうございます。
みんなと笑い合いたい気持ちからブランコから飛び降りたというエピソードの中で「怪物を見るような目でみんなに見られた」というところが気になりました。ブランコから落ちて大けがをした人を見て笑っている人はあまりいないように私は思うのです。ブランコから落ちたあなたを見て、どうしたらいいかパニックになったり、ケガをしているあなたを心配している様子が、あなたにとっては怪物を見るような目で見られているように感じたかもしれません。でもあなたのことを怪物だと思った人は実際にいたのでしょうか。「自分はなにかズレている」というのは、あなた自身がまわりとズレているということではなく、あなたのものごとの受けとめ方が少し違っている可能性もあるのかなと思いました。
これまであなたはなるべく目立たないように周りに合わせようと必死に頑張ってこられたのだと思います。まわりに合わせようと頑張っているのにまわりの人が自分のことを見てくれない、認めてくれないと感じて辛い気持ちになっているのかなと想像していました。
まわりと同じことをする際に「褒められる」という言葉が何度か登場しています。あなたの中で「褒められる」というのが大事なポイントになっているのかなと思いました。目立たないように行動してきたけれど、本当はだれかに自分を見てほしい、認めてほしいという気持ちが強くあったのかもしれないと想像しています。目立たないようにすることと認めてほしいと行動することは矛盾しているようですが、その矛盾があなたの心を複雑にしているのかなと思いました。
「私の代わりにみんなを幸せにしてください」という最後の言葉が印象的でした。「私を幸せにしてください」ではなく、自分じゃないだれかを幸せにしてほしいというのは、「動いているフィルムの中には、自分が見当たらない」という気持ちが表れているように思いました。だけどそこには自分自身を幸せにしてほしいという気持ちが混ざっているようにも思いました。
「普通じゃない」「まわりと違う」という違和感について、あなたの思う「普通」や「まわり」というのはどのようなものなのかぜひ聞いてみたい気持ちです。
書き込みに来てくださってありがとうございました。