経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

遺書を書きました。

2019年の夏,大学3年生だった私は,日中眠くて仕方がなくなりました。

始めはただの疲れだろうと思っていましたが,気が付くと夜に寝付けなくなり,学校のない日はベッドから起き上がれなくなり,体重はぐんぐん減って,涙が止まらなくなりました。

ただの疲れだ,大丈夫。そう思い込んでいましたが,ある日の帰り道,車道に立ち尽くしていました。夜遅くだったということもあり,車は通りませんでしたが,本当に無意識に車道のど真ん中にいたのです。

その後からは階段から転げ落ちるように死にたい気持ちが加速していきました。
高いところにいれば「あぁ,ここから今飛び降りれそう」と思いました。
刃物を持てば「これで心臓でも刺してみようかな」と思いました。
充電器のコードを見て「首つりって寝れるように死ねるっていうよな」と思いました。

別に死ぬことが怖かったわけではありません。
死んだら,葬式やら火葬やらでお金がすごくかかってしまうし,借りてるアパートにも迷惑がかかってしまう。だからだめだ,ってなけなしの理性で踏ん張っていました。

親にはとても良く育ててもらいました。私なんかが育ってしまったのが申し訳ないくらい良い家庭だと思います。だからこそ,親より先に死ねないという理性が働いてくれたんだと思います。

カウンセリングにも通い始め,親に辛い状況を説明し,精神科に通い始めたころ,私は遺書を書きました。先に死んでしまうことの懺悔,苦しかったこと,死んで私は楽になれたこと,ごめんなさいごめんなさい。
遺書を書いているとき,ボロボロと涙が出てきました。そして,同時にすごく安心したのです。
これでいつでも死ねるって。
書き上がった2枚だけの短い遺書は財布に入れました。いつ衝動的に死んでも良いように。
この遺書のおかげか,せいか,まだ死んでいません。毎日生きています。
だっていつでも死ねるから。可哀想な子じゃなくて,ちゃんと自分の意思で死んだって伝えられるから。

一度は遺書を捨てちゃおうかなと思える程に精神が回復しました。
でも,また最近だめなんです。社会に私は必要ないんです。親に恩返しもできなくて,何も出来なくて,生きているだけで迷惑がかかる存在で。なんで生まれてきたんだろう,はやくいなくなっちゃえ。苦しい,苦しいです。

親に「死にたい」だけは言えません。だから遺書を書きました。

感想1

経験談を投稿いただき、ありがとうございます。

文章からは投稿者さんが死にたくなってしまった直接の理由が述べられていない気がして、その点についてはあまりわかっていないのですが、自分の存在を肯定できるような心情ではなさそうだなと感じました。

死そのものは怖くなかったとのことですが、それ以上に周りの人に迷惑をかけることが怖くて、いやなことなのかなと感じ取りました。また、そういう風に自分より周りのことを優先して考えてしまう方なのかなと考えています。

親に辛いという状況は話せても、死にたいという言葉は発せないのだなと思いました。それだけ投稿者様の中で死にたいという言葉は、恩を感じている家族に言ってはいけないことという認識なのだろうか、と思いました。自分が死にたいと言ったらどうなるのだろう……というところまで思案しているからたとえつらくても言い出しにくいのかなと感じました。
そうなってくると、どこに自分の死にたい気持ちを吐き出してよいかわからなくなって余計にしんどくなっている部分もありそうだなと想像しています。

ですが、投稿者さんにとっては遺書を書くことがその気持ちの吐き出しにつながったのかなと、お話を聞いて思いました。いつ死んでも大丈夫と思えるというのは、なんだか保険ができた気分で、ある意味安心感につながる部分もあるのかなと思いました。

書いた遺書を捨てちゃおうかなという状況になったこともあるということですが、遺書は捨てても捨てなくてもいいと思いました。ただ、その遺書があることで安心感につながった部分はありそうだし、遺書を書いて、それを持ち続けてみることでもしかしたら生きやすくなったりするのかなと私なりに思いました。

感想2

2年前の夏に疲労やストレス、プレッシャー…そういったものが一気にはじけてしまったような感じだったのだろうかと思いを馳せながら読ませていただきました。

「可哀想な子じゃなくて、ちゃんと自分の意思で死んだって伝えられるから」という言葉がとても気になりました。この言葉を聞いて、もし自分が投稿者さんと同じ立場なら確かにそんな風に言われるのは嫌だなあと率直に思いました。表現が正しいかどうかはわかりませんが、死んだ後にも「かわいそうな子」というレッテルを貼られているような、そんな気分になってしまいそうです。自分で選んだことを否定されているような、自分の存在ごと否定されるようなそんな気持ちになっても無理はなさそうだと思いました。生死の選択に限らず、他者の選択に関して人は憶測で話してしまうこともあるように感じているので、自分の知らないところで意に反した自分像が出来上がりそうで、そのギャップもまた苦しさに繋がることもあるのかなと考えていました。

遺書を書いたのは投稿者さんが辛かったこと、苦しかったことを親をはじめ周りの人に知ってほしいという意図もあったのではないかと思いつつ、この経験談の中には「迷惑をかける」「申し訳ない」というキーワードがいくつか出てきたので、遺書を残しておくことで、周りの人に迷惑をかけないようにしたいという気持ちがあるのかなあとぼんやり考えていました(勝手に想像しただけなので、間違っていたらすみません)。その遺書があるおかげでまだ生きている、とのことだったので投稿者さんにとっては遺書がお守りのようになっているのかなと思いました。

投稿者さんのこの経験談を書いてくれたことによって、私も生きることや死ぬこと、個人の選択や尊厳について考えるきっかけになっています。またこの経験談が誰かの目に留まり、誰かのヒントになったりすることがあると思うので、それだけで誰かの役に立っているのではないかなと感じています(こういったつながりは直接目には見えないので役に立っているというのはとても実感しにくいかもしれません…)。こんなにも「苦しい」と表現されている投稿者さんが周りに迷惑をかけていると感じるということでしたが、むしろ投稿者さんにそんな風に思わせる社会のほうが投稿者さんに迷惑をかけているのでは、と疑問を投げかけざるを得ませんでした。そこで、どんな社会になったらちょっとでも生きやすいと感じられたり、苦しみが和らぎそうか、投稿者さんの意見を聴いてみたいなと思いました。

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