経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

人と仲良くなれない人生

私には小さい頃から場面緘黙症があった。気付いたら他の子とは違っていた。幼稚園に入る時、他の子供達は先生に呼ばれた時に返事ができたのに、私だけできなかった。それから、「私だけができないこと」が増えていった。人と話すこと、人と仲良くすること、明るく振舞うこと。親や先生は「どうしてしないのか」と私を責めたけれど、自分でも「なぜできないのか」「なぜ他の子は普通にできるのか」が分からなかった。今なら、自分が場面緘黙症を持っていたせいだと分かるけれど、当時は誰もそれに気付かなかった。

7歳の時に、自分は周りの人達とは違うのだとはっきりと自覚した。自分は大人になっても普通の人のように幸せにはなれないのだと気付いて、自分の人生を諦めた。自分は間違って生まれてきたのだと思った。ちょうどその頃、学校のプールで溺れそうになり、初めて死の恐怖を感じた。家に帰ってそれを母親に話したら、「プールの授業が嫌だからそんな嘘をつくんでしょう」と言われた。その時は、「お母さんは私が死んでも平気なんだ。私はいらないんだ」と思った。今ならそれは違うと分かるけれど、自分はいつか親に捨てられるんだとずっと思っていた。

その後、私の症状はどんどん重くなっていった。ストレスが増え、気分も落ち込み、いつも死ぬことばかり考えていた。体調も悪くなり、パニック発作が起こるようになった。10歳くらいの頃には、母親以外とはほとんど話せなくなった。私が12歳、弟が6歳の頃、弟が成長に伴って自分の意見を主張するようになり、私の周りには私を否定する人達しかいなかったので、弟もそうなるのだと思って怖くて弟に近づけなくなった。それからずっと弟とは話していない。弟は、なぜ自分が急に避けられたのか分からなかったと思う。

学校には毎日通い続けたけれど、話せないことを両親や先生から責められ続け、自分でもそんな自分に耐えられなくて、14歳の時に学校に行けなくなった。周りの人に説得され、中学卒業まで別室登校をした。図書室の近くだったので、本ばかり読んでいた。自分では高校に通うのは無理だと思っていたけれど、周りに説得されて高校に通い始めた。でも結局中学校の時と何も変わらなくて、半年しか耐えられなかった。死のうとしたけれど、怖くてできなかった。

それから14年間ずっとひきこもりだった。週に一度母親と買い物に行く時と病院に通う以外はずっと家にいた。他の人との交流は一切無かった。田舎だったので、誰かの車に乗せてもらわないと外出できなかった。家では、家族のための夕食作りはしていたけれど、それ以外はほとんど何もしていなかった。この期間はたまに両親から責められた。よく「将来どうするつもりだ」と聞かれたけれど、私はただ死ぬことしか考えていなかった。でもそれは言えなかった。

大人になっても人と喋れなかったので、大人扱いされなかったことが辛かった。言っていることを分かっていないから喋らないのだと思われることが多かった。両親もそうだった。ずっと気分が重くて体調も悪くて、何かをする気力もあまりなくて、毎日落ち込んでいるだけで過ぎていった。10代の頃に自傷行為をするようになり、睡眠導入薬の乱用もした。自分のことが憎くて許せなくて、その怒りを自分の体にぶつけた。当時は、自分は二度と普通に外に出られないと思っていたし、自分の顔も大嫌いだったので顔も切ろうかと何回も悩んだけれど、結局切らなかった。弟もひきこもりになってずっと隣の部屋にいるようになり、ストレスが増えて、さらに調子が悪くなった。

30歳の頃には、毎日ほとんどの時間軽いパニック発作が続いて、ずっとベッドに横になってただ天井を見ているだけでほとんど何も出来なくなった。そんな日々が続いて、何も希望がなくて、もう耐えられないと思った。自分の部屋で首を吊ろうとしたけれど、恐怖のせいで自分の体が自分の意思に反して勝手に紐から首を外してしまってできなかった。何度も試したけれど、いつも失敗して、体の震えがしばらく止まらなかった。死ぬこともできなくて、この苦しみのまま何十年も生きなければいけないのかと絶望した。

少しでも楽になれる方法を必死で考えた。一番のストレスはこの家と家族だと思ったので、なんとか家から出たかった。両親には外出の練習のためだと言って、単身赴任で都会に住んでいた父親のところに滞在した。父親が1年後に定年退職して田舎の家に戻ってくることは分かっていたけれど、私はもうその家に帰るつもりはなかった。何とかして都会に残りたかった。何とかならない場合はホームレスになってでも都会に残る覚悟で家を出た。父親のところに行くまで約500kmの長い距離があり、市内で買い物するだけでもいつも具合が悪くなっていた私にはできないかもしれないと思ったけれど、もう全てに耐えられなくて、途中で倒れたとしてもこのままの状態が何十年も続くよりマシだと思った。かなり具合が悪かったけれど何とか父親のアパートにたどり着き、次の日から外出したり電車に乗ったりする練習を始め、少しずつパニック障害の症状が良くなっていった。

半年経った頃にアルバイト探しを始めて何件か面接も受けたけれど、それまで全然仕事をしたことがなく、病気もあってコミュニケーションも苦手で採用されず、どうしたらいいのか途方に暮れていた。そんな時、今も診てもらっている精神科の先生をインターネットで見付けた。その先生に相談したら、生活保護を使えると教えてもらった。親が働いているのに受けられるとは思っていなかったので、その方法は考えたこともなかった。その後、親にもそのことを打ち明けて、一緒に色々な手続きを進め、最終的に私は都会で一人暮らしができるようになった。

まずは作業所に通いながら、高卒認定試験を受けた。その1年後に、家でリモートワークのアルバイトを始めた。最初はオンラインショップのスタッフで、簡単な作業で給料も低かったけれど、上司が色々と仕事を変えるのに必死でついていったら、最終的にデータ分析の仕事にたどり着き、今は時給1,000円くらい貰えている。スキルアップをすればもっと上がるので、今勉強をしているけれど、要求されるレベルが高くてストレスが多い。今は週に3日リモートワークでアルバイトをし、月に2日作業所に通い、週に2日英会話に通っている。でもそれ以外に知り合いがいなくて、人と話す機会がない。ひきこもり当事者会に参加してみたり、趣味の教室に参加してみたりしても、結局コミュニケーションが苦手なままなので人と仲良くなれない。私の周りにはいい人しかいないけれど、話しかけてもらってもちゃんと答えられないことが辛い。

コミュニケーション能力を鍛えるために英会話を始めて、信頼できる先生を見付けて、その先生とは少し楽しく話せるようになったけれど、孤独感が全く消えない。会話した後は一時的に気分が晴れるけれど、毎日気分が重くて、その重さは実家にいた時と変わっていない。いつもよりも気分が落ち込んだ時は、以前のように軽いパニック発作が長時間続くことがある。今は自殺を実行しないけれど、まだ毎日考えてしまう。私が一番望んでいるのは、人と仲良くなる事だと思う。もし、全く緊張せずに誰かと打ち解けて話せたらきっと楽しいんだろうな、と思う。たったそれだけのことがうまくいかない。ずっと精神的にギリギリのところで生きていて、自分がいつまで耐えられるのか分からない。

感想1

言葉を話すかどうかで、人の理解力や能力を判断するのはナンセンスだ。これは、貴方の投稿を読んでから、私が最初につぶやいた言葉です。

貴方は、相手の言葉やしぐさを受信する力が、すこぶる高いのだろうと感じました。ご家庭や学校の大人たちが、あなたのように、受信力が高かったら、今とは違う貴方の人生が描かれていたのだろうと思います。

よくぞ、家をでて、ここまで生活を整えてきましたね。もしかしたら、別室登校している時に、図書館の本とコミュニケーションをとって、力を蓄えてきたのではないかと想像しました。本は、こちらがどんな感想をもっても、肯定も否定もせずに存在してくれていて、コミュニケーションをとりやすい存在だと私は思っています(本の内容によっては、心が動揺したり傷ついたりすることもありますが、そんな私に対しても本は無反応でいてくれました)。
*でも、もしかしたら、本を読むことでしか、時間をやり過ごすことができなかった、そんなこともあるかもしれません。

こんなにも色々なことを感じて考えて行動してきたあなたのことが、周囲に理解されないことがあるのは、とても悔しいです。声の発信力だけで人の価値を判断しないセンスが、世の中に広がる必要性を感じました。

私は貴方の投稿に出会えて良かったです。人と接する時に、声の発信だけで判断せず、相手を理解する力をつけたい、そういう気持ちに気がつくことができました。

感想2

周りに自分を否定する人しかいなかったとあり、それでは自分の思いや考えを表現しづらくなっても自然なことではないかと思いました。

そして、あなたに話せないことを責めることは、間違っていると言いたいです。例えば、目が見えづらい人、耳の聞こえづらい人に「なんで見ないの?」「ちゃんと聴いてください!」と責めることが甚だ理不尽であるのと同じように、話せないことを責めることは、的外れで失礼だと思います。
ただ、社会に場面緘黙症についての知識が普及していなければ、話せないことを正しく理解してもらうのは難しいかもしれません。なので、一緒に場面緘黙症への理解を広めていけると嬉しいなと思いました。

小学校のプールのお話では、お母さんに本当のことを話しただけなのに、嘘つき扱いされていて、どうして信じてくれなかったのだろう…?と思ってしまいました。事実を話しても端(はな)から信じてもらえないなら、もう人に何も話さない方がいい、と感じても不思議ではないなと推察しました。親や先生など、最も身近にいたであろう大人に責められ続けることは、自分そのものを否定されていると感じるだろうし、死の淵まで追い込まれるのも頷けます。

私は、この社会では、会話のスキルが偏重されているように思います。会話でのコミュニケーションが流暢にできることが、大人として必要不可欠なスキルであるかのように…。そういう空気があるのはどうしてだろう?と不思議に思います。そのような空気が、場面緘黙症などで会話が難しい人たちを余計に辛くさせていると思うのです。

でも、人間が思いや考えを交わす(communicate)手段は、会話以外にも色々あるはずです。このような文章を書くこともその一つだと思います。
ネットの居場所「死にトリ」では、掲示板やチャットルームもあるので、もしよければ色々な人との交流に慣れる場所として活用してもらうことはできそうだなと考えています。
でも、できれば私は直接会ってみたいなと思いました。会話するかどうかはどちらでもよく、ただ会って時間を共有できることがあればいいなぁと思ったのでした。

家を出られたことは、自分で考えて決断した、というポイントが重要だったのかなと思いました。中学や高校の時は、周りに説教されて、自分で選択する余地もなかったように感じられ、それが自信や気力を一層削いでしまったのかなと考えたからです。一度、自分で一大決心をして行動したことが、その後も、自分のことを自分で選択・行動していくための支えになっているように見えました。

今回、経験談を送ってくださったことに感謝します。ありがとうございます。

お返事1

こんにちは。感想のコメントありがとうございます。
今までの自分の経験について誰かに知ってもらったのは初めてでした。
読んでくださってありがとうございます。

家を出た後に色々と頑張れているのは、いい人達に出会えたおかげです。
それまでは私を否定する人がほとんどだったので、無力感があって人間不信になっていたのだと思います。
今でもほとんどの人とは合わなくて辛いですが、探し続けていればいい人達に出会えるのだと気付けたことが希望になっています。

場面緘黙症についての知識の普及や会話以外のコミュニケーションの方法については、私もいつも考えています。
ネット上では場面緘黙症について話している人を見ることがあります。
でも、ひきこもり当事者会やデイケアや作業所やフリースクールに行ったことがありますが、他の場面緘黙症の人は見付からず、場面緘黙症について話しても誰も知らないようです。
自分が行動するときには、会話だけのコミュニケーションにならないような方法を選んだり、自分の負担が減るように工夫したりはしていますが、なかなかうまくいきません。
なので、場面緘黙症への理解を広めることや、場面緘黙症の症状の負担軽減方法を探すことは、何か自分にできることがあればやりたいと思っています。

私の経験談を温かく受け止めてくださり、ありがとうございます。

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