昔こちらに送った際分かりにくいと言われたのでなるべく分かりやすく書く為に第三者の発言も纏めてみます。長いですが良ければ読んでみて下さい(元の文は7万字を超えているのでこれでも削った方です)。
貴方はカウンセリングと聞いて何を思い浮かべますか?カウンセラー自身の言葉を代用するのなら「本当の貴方を探す手伝いをする」「話を聴くプロ」「心の専門家」しかし実態はとてもそうだとは思えません。私が話してきたカウンセラーは例外なくどこか異常でした。断定口調で話し、一方的かつ決めつけが多く、疑問に思う点がいくつもあります。私の疑問には答えず効果が出なければほぼ必ず言うのが「相性が悪かったんでしょう」確かに相性の問題もあるでしょう、要領が悪い私なら特別効果が出にくいというのも考えられます。しかしそういった個人的素養だけの問題ではなく根本的な問題が潜んでいる気がします。私はカウンセラーと話して楽になるどころか余計に死にたくなりました。自己矛盾が多く会話内容が不毛だからです。
先日のこちらのこえサーチ(26弾)でもそうですが、もっと質の高い相談が必要という声が少なからずあるのは今の相談員、カウンセラーがただ相槌を打つ、傾聴だけで終わってしまう現状を表しているように思えます。確かにカウンセラーは医者ではないですからクライアントを治す事はしませんし出来ません。しかしとあるカウンセラーの言葉ですが、例えばトイレに行きたい時に「貴方がトイレに行きたいという気持ちは良く分かりました」と傾聴するのが最善とは限りません。それよりもトイレの場所を教える方が適切でしょう。ここで大事なのは傾聴は心を受け止めるという意味では必要なステップだとしてもそれだけでは不充分な事もあるという事です。
「否定しない」と謳っておきながら死にたい気持ちを受け入れず秒で否定されるのは良くある事です。自殺、安楽死を肯定出来る立場ではないとは言え話を最後まで聞かずに否定から入るのは相談員として以前に一人の人間として失礼な行動です。またそういったカウンセラーの多くがアドラー心理学を信仰していて事ある毎に目的論を強調してきます。しかし目的論を通すなら彼らが自殺に反対する理由がおかしいと思います。彼らの言い分は「我々は誰もコントロール出来ないし影響を与える事は無い。何故なら感情というのは個人がそれぞれ勝手に決める物だから。例えば何か失敗して相手が怒ったり、悲しんだとしてもそれはその人の問題であって貴方は関係無い、本当に怒ったりしてるならそれは怒りたくて理由を探しているだけ」というのが彼らの主張です。しかし自殺になると相手を傷つけるから、自殺を誘発するから、生きていて良い人間とそうでない人間を分ける事になるからダメ…
おかしくないでしょうか?彼らは個人の行動、発言で誰かが傷つく事は無いと言ったのに自殺になると途端に主張を変えています。目的論を通すのなら誰かが死んだとしても悲しむ事はありえないし他人の行動が、死がどう自殺を誘発するのでしょうか。仮に悲しむ人が居たとしてもそれは悲しみたくて理由を探しているだけという事になります。仮に自殺を誘発した様に見えるなら元からその人が自殺願望があっただけで関連性は無いと考えるのが筋でしょう。勿論、現実的にはとてもそうは言えずカウンセラーの発言は机上の空論だと言うのは想像出来ると思います。
では自殺は本当に悪いのか?彼らの発言は上述した様に結果ありきで物を語っています。つまり「条件付き」な訳です。例えば飲みに誘われたけど、仕事があるからと断った場合、仕事が終われば飲みに行けるかも、と取れます。つまり飲みに行くこと自体が悪い訳でも嫌でも無い訳です。同じ様に、自殺をしても相手を傷つけないのなら自殺をしてもそこまで問題にならない場合もあるという事になります。彼らの発言は基本、自殺も安楽死も例外なくダメという徹底抗戦です。もし本当に自殺が常に悪ならそういった条件付きな理由で自殺に反対するのは論理的ではない。何故ならその時点で内在的ではなく外在的理由になるからです。外在的という事は個々のケースに対して功利計算を行っているだけなので自殺がダメな事もあるがしてもさほど問題ではない場合もあるという事しか言えないはずです。なのに自殺はどんな時でもダメというのは言葉が過ぎます。個々のケースで言うなら会った事のある人間から死ねと毎回言われる私が死んだ場合、誰が悲しむのでしょうか。カウンセラーの発言は余りに的外れです。現実を見ているという点なら人格否定や、無能は死ね等と私に言ってきた人の方がよっぽど出来ています。そもそも6年以上前に出た文献で自殺反対論を哲学的に擁護するのは難しいと結論が出ています(詳しくは「自殺 悪さ 哲学的」と調べると出てくると思います)。第一どんな時でも自殺はダメという発言がまかり通るならそれは生の権利ではなく生の強要です。よくカウンセラーは「無能は死んでしまえ」等と言う人に対して何様なのかと言っていますが他人の生に対して口を出すカウンセラーこそ何様なのでしょうか?もし本当にそれが正しいと思うのなら彼らに義務と責任を設けるべきでしょう。それに自殺、安楽死容認派はどんな時でも安楽死を認めろと言っていません。状況が改善する見込みもなく辛くて堪らない時には選択肢があっても良いじゃないかという所謂条件付きの話です。それを曲解してどんな時でも自殺はダメと話すのが今まで見てきたカウンセラーで、分かりやすい論点のすり替え、詭弁なんですよ。そういった目に見えない「生きろ」という重圧があるからこそ余計に死にたくなるのにカウンセラーがそれを(故意ではないにしろ)助長している様に見えます。彼らの発言、トーン、態度から生きても良いという加点式ではなく生きなきゃダメという減点式にしか見えません。何で専門家が追い詰めるような論法を取るのか理解に苦しみます。ロジカルシンキングや課題の分離を声高に叫ぶのにこういった矛盾に気づきもしない人達がまともにカウンセリング出来るとは疑わしい物があります。少し考えれば、調べれば出てくる内容すら知らない、言っても聞かないのが本当に専門家、或いは話を聞くプロなのでしょうか。
そこから調べてみるとカウンセラーの発言はかなり偏った物が多く、物によっては間違っている情報もありました。そこを指摘してみれば「矛盾の何が悪い」と居直ったり「じゃあ貴方はどれだけ知ってるんですか?」と逆ギレして知識マウントを取ってくるというのも多くもっと酷いとヒスる事もあるので現在のカウンセラーには不信感が募っています。彼らの言う通りにやっても良くならないから異を唱えているのに彼らは聞く気がないです。既にご存知の事も多いと思いますが現状を整理する意味でも書かせて頂きたい(詳細を書くと文字数が足りなくなるので気になった方は調べて下さい)。
私のような経験をしている人は珍しくないらしくカウンセラーの言動、行動に疑問に感じる人も多く、傲慢な態度に見えたりする事は多々あるみたいです。某氏のアドラーの本が数年前にベストセラーになりブームになりましたがこれに関しては専門家から苦言を呈されています。その本に書かれている事と実際のアドラー心理学に乖離が見られ大学教授が生徒の誤解を解くのに一苦労されたりしているようです。そもそもアドラー心理学は心理学の世界では現在の主流ではなく心理学史で触れられる程度でメインのカリキュラムで扱うのは珍しいです。理由は哲学との違いが曖昧で再現性のなさ(科学的根拠が無い)という批判が内外問わずついて回った歴史があるからです。ポパーによるとアドラー心理学のようにどんな事例も都合よく解釈でき、反証可能性の無い理論はニセ科学であるという批判もあります。都合良く解釈出来る故に傲慢さを助長する危険性も孕むにも関わらずそういった事は殆ど触れません。昔の文献から学べる事はあると思いますが現代の主流を取り扱わずアドラーブームに乗っかっただけのカウンセラーが居るという批判も少なくありません。
現在のカウンセラーは何の知識も経験も無くとも看板だけなら出せる環境にあります。臨床心理士や公認心理士は合格しないと名乗れませんがただカウンセラーと名乗るだけなら本当に誰でもなれる環境にあります。なので現状ではさしたる教育や訓練をうけていないにもかかわらず心理カウンセラーを名乗る人々が乱立していると警鐘を鳴らす大学教授も居ます。勿論、資格を取れば良いカウンセリングが出来るとは限りませんし資格を持っていなくても優秀な人は居るかもしれません。しかし例えば10人に一人の割合で良いカウンセラーが居たとしても今まで書いた事には矛盾はしません、それは同じ物を別の角度から見ているからです。つまり酷いカウンセラーが多い事と中には良いカウンセラーが居るというのは同じ現状を見ているのです。
その前提で書きますが、残念ですがそういった資格持ちでも良いカウンセラーは多くないと、元臨床心理士が発言しています。詳細は割愛しますがカウンセラー特有の歪みや一方的な決めつけをカウンセラーがクライアントにしてしまう現状について事細かに書かれています(自分にうそがつけない人たち、と検索すれば出てくると思います)。自分の頭で物を考えず、歪んだ教育を鵜呑みしてしまう人も少なくなくこういった発言者はこの人だけでなく最近になっても似たような経験談が出てきたりする事を鑑みるとこの問題はもっと根深く、闇が深い問題だと想像します。私の経験談と元臨床心理士が話すカウンセラー特有の歪みや決めつけというのは経緯は違えど根っこは大きく変わらないと思います。これらから本当に日本のカウンセリングや精神医療は充分に機能しているのか甚だ疑問です。
間違った認知行動療法を提供するエセカウンセラーが存在する現状に対して警鐘を鳴らした精神科医も居ます。その人が言うには例えば職場での人間関係が上手くいかない状況では本当に嫌われている可能性もあるのに考え方だけを楽観的に変えようとするのがエセカウンセラーのする事ですが行き過ぎればただの現実逃避です。これでは決めつけであり歪みの矯正ではない。何でも楽観的に受け入れる事が認知行動療法ではないのにです。だから私には彼らのやっている事は歪みの矯正ではなく、明後日の方向に歪みを増幅させているだけの様に見えます。
勿論実際に良くなった人も居るという声もあるでしょう。しかし望んだ結果を得たからといってその手法まで正当化されると思うと本質を見失います。結果に関わらず反省するのは必要だと思うのですが彼らカウンセラーは「気持ちが楽になればそれで良い」(問題が解決しなくて良い)というある種短絡的な考えが目立ちます。私が知るカウンセラーの殆どはカウンセリングというのは「誰でも生きていて良い」と言う仕事だと話していましたがその考えと現実問題を直視しないのは別問題で、ただ自分の考えを半ば押し付ける人も多いのです。希望を持たせる為にやってるのかもしれませんがその為に裏付けも取らず、自分の間違いを認めず間違った情報を提供するのは道理が通りません。嘘をつかないと希望が得られないとするのならその環境自体が歪んでるはずなのにそこには全く触れません。もし本当に全て間違っていると自覚した上でやっているのなら(必要悪のような感じで)逆ギレするような傲慢な対応はしてこないと思います。
私が知る限りでもこれだけ問題があり会話にならない方が多かったのでこれ以上は無駄だと思いカウンセリングはもう辞めました。どこかで全ての膿を出さなければ未来があるとは思えませんが問題点、矛盾点を指摘しても「それは貴方の問題です」「表現の問題です」と保身に走り論理的な会話にならない、反省しようともしない様子を見てると自浄能力があるとは思えません。死にたい人の為の受け皿として考えると問題が多すぎる気がします。本来は誰でも簡単に出来る仕事ではないはずですからカウンセラー達も努力はしているのかもしれませんがそれなら自身の問題をまず直視して欲しい。願わくばこういった問題のある現状がもっと知られる事を望みます
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
カウンセラーは本当にカウンセラーなのか
感想2
最初は7万字あったと書いていたので、「文章を書く」という行為はあなたにとってどのような行為なのかとまず、考えています。多くの人にとって、文章を書くことはわりとやっかいなことで、ましてや7万字を書くのは依頼されてもとてもできないと思ってしまう人が多いと思います。けれど、7万字分のおしゃべりはしているかもしれないから話すことと同じぐらいの行為なのか、それとも心の中で何となく考えていることを文字として出力することはあなたにとって日常的に必要な行為なのだろうかとも想像していました。普段から文章を書いているのか、動機が整った時に一気に書くのか、あなたにとって「文章を書く」はどんな意味があるのか気になってしまいました。私は読んでみて、文章の内容よりも、「文章を書いたあなた」についてどんな人なのかな?と想像をしています。
内容を読んで、私に伝わってきたのはあなたが「カウンセラー」にとても腹が立っていて、矛盾を感じていて、異議を申し立てたいということでした。ただ、そのカウンセラーと書いている相手が具体的には何を指しているのかが少し曖昧だなと感じています。
おそらく、これまであなたが受けたカウンセリングを担当してきたカウンセラーの方たちのことを指しているのかなと思うのですが、それをもってカウンセラーという属性の人たちをすべて批判するものでもないだろうし、あなたが言いたいことは、あなたは文中で「カンセラー」と表現していますが、本当はそうではないのではないかというのが私の意見です。
あなたが出会ったカウンセラーの方たちの反応や意見に含まれているある種の要素を抽出して、それがカウンセラーだけではなく、社会の中で何となく主流であったり、正論であったり、常識的だと思われるような思考や思想として偉そうにしていることが納得がいかないという主張のように感じ取りました。
私はあなたはカウンセリングを受けたいというより、納得いくまで議論したいのではないかと感じました。ところが、カウンセリングという場では議論はしてもらえず、論理がすり替えられたり、曖昧にされた様子が想像されました。もし、そうだとしたら、タイトルの「カウンセラーは本当にカウンセラーなのか」という問いについては、ある意味、従来のカウンセラーに徹した結果として、あなたの疑問に結びついたのかもしれないと思いました。改めて調べてみたところ、カウンセラーは人の心理的な作用にアプローチをして、悩みや不安の解決を助ける人だとありました。私は議論や哲学的な対話をすることも悩みや不安の解消のためにとても必要なことだと思っているので、そういった視点はカウンセリングの場にはあまりないのかもしれませんし、そういったアプローチは専門外としてそもそも扱わないのかもしれません。
そうして考えていくと、あなたはカウンセラーに期待をしているのかもしれないと感じました。カウンセラーというより、悩みや不安の解決を手伝う機会というものに期待をしているのかもしれません。私はカウンセリングの現場をよく知らないですし、受けたこともないので、詳しくはわかりませんが、今の社会の状況(心理的な悩みを抱える人がとても多い)を考えると悩みや不安を解消する手伝いをする専門職の体制に問題なのではないかと思いました。不安や悩みを解決するための方法はもっといろいろなバリエーションがあってもいいと思います。また、カウンセラーとクライアントという支援する側とされる側という一方通行のスタイルにも限界があると感じます。あなたが求めているのも一緒に本音をぶつけ合って議論したり、高め合うような場のように感じました。
私は死にトリの活動を通じてこうして自殺防止の事業を行っていますが、それは必ずしも自殺を止める、減らすということではないと思っています。今の社会でこれだけ「死にたい」「生きたくない」と思う人たちがいるという事実を受け止め、その背景をよく理解して、自分たちができることをみつけて取り組みたいと思っています。そのために、あなたが経験談に書いてくれた安楽死制度や自殺についても、いろいろな角度から議論してみたいと思っています。
お返事1
経験談の感想を送ってくださりありがとうございます。大変遅くなりましたが感想に対する返信を書かせていただきましたので送らせて頂きます。
1の感想文を送ってくださった方へ
感想文ありがとうございます。
理論は自身の感覚や感情に左右されるというのも、人や状況によって大差無いというのも同感です、私もそうです。人間は矛盾に満ちているというのも実感としてあります。ただそれ自体は悪い物ではなく、むしろしっかり追求すれば深みにもなると思っています。そちらの発言通りある種のプロ(のはずの人間)が人並みにすら矛盾を追求、直視していないのは如何なものかとも思います。
適当に生きている 、というのは私には共感出来ません。なんとなくですが、私が今まで見てきた人と貴方が見てきた人というのはかなり違う気がします。私は貴方が言う適当に生きている人というのを見た記憶がカウンセラーを除けばいないので(カウンセラーは適当に生きているというよりは誠実さが足りない、当事者意識が低い等に近いと思うのでちょっと違う気がしますが)そういう感覚のズレから生きづらさを感じていないと思います、普段考える事も基本しないので(正確には考える力が無い)。人並に出来る事が何一つないと世界から評価されていて実際に何も出来ないし、やりたくないから生きづらいのだと思っています。生きるのに向いていないのに問答無用で生きろと言われたから余計に死にたくなったのだと思っています。
自殺や生きづらさを当事者の問題のみで考えている、という指摘には共感出来ます。例えば認知療法が画期的だ、と言われていますがその裏にある批判の一つに「クライアント(の考え方/認知)が悪い」というある種の決めつけ、バイアスがかかると指摘した人がいました。実際そういった圧みたいな物を(社会的な視点が少ない故か)感じる事もあります。もう一つ社会的な視点が少ない例を挙げると、精神疾患の一つで依存症がありますが、例えばゲームに熱中する人をゲーム依存症と呼ぶ一方、結果を出し、プロ等になれれば称えられ、依存症とはそう呼ばれないのが現代の精神医学です。つまりほぼ結果論であり、ある種の成果主義ひいては能力主義に通ずると思います。実務的な問題上こういった考え方で精神的に問題があるか判断するのは仕方がないとは思いますし、そうでもないと判断しようがない実情は恐らくあるのでしょうが、ならカウンセリングの場でももう少し社会的観点を入れても良いのではないかと思います(入れてないからこそ現実問題と反しているような事を話すのでは)。心の専門家というのは心「だけ」の知識でどうにかなる物だとは思いにくいのは、依存症を患っている人間の92%が逆境的小児期体験(ACE)を経験したという研究結果が出ていて、人は「他者」に壊されおかしくなる(=その人個人の問題だけではなく、場合によっては社会全体の問題という可能性もある)という側面があると思わざるを得ないからです。つまり依存症は(恐らく他の精神疾患も)そういった経験や環境、社会が原因であり、依存症はその結果なのではないか?それ故に例えばゲーム依存症の人からゲームを安易に取り上げたり考え方だけを変えようとする、というのはその人の事しか見ておらず、根本的な原因(何故逃避が必要になったのか等)、社会に問題があるのか等の追求をあまりしていないように映ります。
本文にも書いたようなアドラー心理学を盲信し、事態を俯瞰して見ようとせず、個人の問題としてしか見ないのは中途半端に目的論的な考えが広まったからという要因もある気がしてなりません。「否定せず受け止める」等と都合の良い事を言っていますが実態が伴っておらず、それどころかネガティブな感情を認めず、意地でも物事を良く見ようとする、有害なポジティブ思考というのがどうしても見え隠れします。有害なポジティブ思考は酷くなれば他人の感情や経験を軽くあしらい、共感力が低くなる危険性が指摘されていますが、よりによって心の専門家がそれに近い事をしているのは何とも皮肉な気がします。そういった考えが根底にあるからこそ余計に弱者を追い詰めている様にすら見えます。勿論この考えを否定しすぎると「自分ではなく社会、環境が悪い」という他責思考にもなりかねない側面はあると思います。そういう意味では個人の意識を変えるのも必要な場合もあると思いますが現実(社会)を見るのを怠ればどこぞの精神論や根性論と大差無く、こういった側面をカウンセラーが本当に理解しているのか疑問です。本当に理解しているのなら本文に書いた歪んだ思考、対応等が発生しているのは本来おかしいです(それが同業者、同じ道の学者でも苦言を呈するレベルなら猶更です)。そういった意味では個人単位の治療は医学モデルの限界を示唆しているのかもしれないですね。
自殺は社会からの暴力による物、という指摘もされていました。予め言っておきますが、今からどちらかと言うと反対意見を書きますが私自身はその考えが間違っていると言いたい訳ではありません。むしろそういうアプローチは必要だと考えていますが、現実的な問題、特に短期的な問題を軽視していないか、という指摘だと思ってください。
社会からの暴力という側面があるというのは想像出来ますがそれを主な自殺反対意見として通るかと言われるとそうとも限らないと思います。2つ理由があり、まず一つ目に社会からの暴力に晒されているとは限らないという事を示唆する状況があるからです。例えば貧困でもなく差別も受けず、家庭環境も円満なのに反出生主義の考え方を持つ人がいるように、上述した外在的な条件付きの「こんな苦しいなら生まれてこなければよかった」ではなく本質的に「生きる価値」について疑いの目を向ける人がいるという記事があり、実際にそういう人を見てきました。勿論表面的な暴力だけでなく、他人が社会からの暴力に晒される事により間接的に影響を受けている可能性もあるでしょうが、「将来の不安等から死にたい」、ではなく根本的に生きる事自体に疑いを向けているというのは無視し難い事実だと思います。生に対して哲学的問題に対峙している可能性があるのでは社会からの暴力に晒されている、とは言い切れないと思います。2つ目に、仮に自殺というのが全て社会からの暴力に因る物だとしても、上述した自殺反対論の文献通り、功利計算によりそれがさほど悪い事でもない状況はあり得るでしょう(例えば私が自殺しても誰も悲しまないし、むしろ喜ぶ人の方が多いでしょう)。
また自殺や安楽死を認めない状況のままにするといわゆる「無敵の人」が出てくる可能性が高まると言われています。無敵の人というのは雑に言えば失う物がなく、自分が死刑になる為に社会に復讐する人の事です。社会からの暴力で無敵の人が生まれる一因もあるとは思いますが、だからと言って自殺、安楽死を否定してしまうと通り魔殺人事件の様なのが出てくる原因の一つにもなりかねません。そうなると他の人に危害が及びますし私が無敵の人になる可能性だってあります。前回(https://shinitori.net/story/3363)でも述べましたが安易に自殺、安楽死を否定するのはこの無敵の人が生まれるリスクを軽視していると思います。また、社会が自殺という物をどう見ているかで話は大きく変わります。例えば戦時中の日本では特攻隊があったように、生きる事が第一ではなく「国の為に戦え」がほぼ第一目標であり、(誤解を恐れずに言えば)国の為に死ぬのは名誉だ、という考えが浸透していました。その考えの是非についてはともかく、この様に社会が自殺をどう見るかで自殺の意味合いは変わります(それ故に暴力にも繋がる面もあるとは思いますが)。つまり、社会の考えが変われば自殺が大きな問題にならない可能性もある訳です(=内在的な理由ではなく外在的な理由)。それ故に自殺という手段その物を否定するのは現在の価値観のみに基づいた短絡的な考えに思えます(死というのは不可逆だから慎重になるべきだ、までなら理解出来ますが)。
私自身は受けてないと思いますが社会からの暴力を受けている人は実際にいると思うのでそういった面でのアプローチはあった方が良いのは疑う余地はほぼ無いと思います。長期的な問題としてなら社会を変える、或いは人の心、考えを変えるために例えば教育等を変えるよう働きかけるのは悪いとは思いません。しかし教育などの効果が出るのは最低でも何年も先の事です(よく聞くのは影響が表面化するまで一世代分育つ年数が必要なので短くとも10,20年かかる)。仮に今日明日に教育が変わったとしてもその間どうするのでしょうか?今日死にたい人に対して「上手くいくか分からないしまともな精神医療が出来る保証も無いけどとりあえず10年待っといて」と話して納得する人を探す方が難しいと思います。その間無敵の人が生まれたとしてどうするのか等短期的な問題に対しても能動的に考えていないと思います。そういう意味でも自殺、安楽死を闇雲に否定するのではなく、少なくとも選択肢の一つとしては必要だと思わざるを得ません。繰り返しになりますが社会を変えるアプローチが間違っているという指摘ではありませんが(むしろ考え自体は私は賛同します)、それには現実的な問題をはっきり認識するのが不可欠、しかしそういった問題に対して明確な方向性を国も、本来死にたい気持ちを扱う心の専門家であるカウンセラー達も出せている人を私は見た事がない。これでは上手くいく物も上手くいかなくてもしょうがないと思います。そんな状況で「社会を変えていこう」と主張しても綺麗事(というよりは絵空事)にしか響かないかも、と思うのは仕方がないとも思います。
また誤解を招く表現をしてしまったみたいですが私は理論を突き詰める力を持っていません。そう見えたとしたらそれは既存の理論と事実をただ羅列した行為を私自身の考える力の様に見えたのだと思います(実態を考えれば纏めたと表現するのも正直憚られますが)。理不尽と言うのはカウンセラーから受けた様な事を指していると取りますが、私は世界が捨てたものだとも憎いと思っている訳ではなく逆です。世界にとって私は必要のない存在だと切り捨てられただけなので「捨てたものじゃない側面」を体感しても何も変わらないと思います。カウンセラー以外ともそれなりにはありましたが正直特筆するような事は無い気がします、ただ人並に「死ね」「生きる資格無い」とか暴力を受けたくらいです(昨今ではそのくらいは普通だと思います)。カウンセラーと大きく違うのは彼らはちゃんと根拠を出し、理路整然と私がゴミ屑で生きる資格のない生物だと説明していた事です。生きづLABOの方も読ませていただきます。
感想文ありがとうございました。
2の感想文を送ってくださった方へ
お読みいただきありがとうございます。
文章を書くとはどういう意味を持つのか気になられたみたいですが特別な意味は無いです。はっきり言うなら何かを書くというのは面倒くさい方が勝ちますしもっと言うなら書きたくないです。だから日常では字を書く、という事は全くしていません。喋るのも苦手だし、もっと言うならそんな相手も居ないので喋る事もまずないです。ついでに言うなら読書も全くしません。最後まで読み切らなくても書き慣れていない文章なのは明らかだと思います、一般的に言う頭の良い人が書くような「分かりやすい」「面白い」文章とは違いますから。
7万字という最終的な数字だけ見ると多く見えますが、別に一日で仕上げた訳ではなく大体4年くらいかけて書いたものです。4年もかければ文字数を増やすだけなら誰でも出来る事です。イメージしやすいように具体例を挙げると一般的な中学生の読書感想文は大体2000字くらいなのでそれを毎月一回、3年も続ければ簡単に7万字を超えます。やる気と時間があれば小学生だって7万字分書こうと思えば書けると思います。それに加え私の文章はしっかり構成を練った物ではなく、メモというか雑記みたいなもので、カウンセラーと話していて理解が出来ない点等を記しただけなので文字通りただ「書いただけ」の物です。構成を考えながら書くのではなくもっと乱雑に書いた物なので字数を増やすという意味ではよりハードルは下がりますから7万字相当の中身は無い物だと思って下さい。普段なら字を書く事が無いのに元の文章と今回の経験談を書いたのはそれを上回るくらいにはカウンセラーに対しての違和感と不信感があったと思ってください。
理解しにくい文章を送ってしまい申し訳ないのですがカウンセラーに対して怒っている訳ではありません、ただ呆れてるだけです。話を聴くプロだとか言う割には話しやすい環境を整えず、人並に理解しようとすらせず自分の経験談しか話さず、人を見下す時すらある、その態度に辟易しています。私の経験上カウンセラー以上に(敢えて表現するなら)自分の発言と行動に対して無責任で現実を直視せず、人のせいにする人を見た事が無いからです。しかし耳障りの良い事は言うから中途半端に受け入れられてる現状は歪みに歪みが重なってると思います。カウンセラーと書いてあっても具体的に何を指しているが曖昧だと指摘されていましたが、貴方の仰る通り今まで接したカウンセラー全員です(実際に会ったのとネット上両方含みます)。だからと言ってカウンセラー全員が全員こんなに酷いとは言いません、精々何十人程度しか見てないのでそれだけの根拠は無いですし、自分が調べた限りの話ですから(かと言ってごく一部のカウンセラーだけ、とも思い難いですが)。
他の人にも当てはまるのでは?と気にされていましたがそれは微妙に違いますね。確かに何も思う物が無いと言えば嘘になりますが1の感想文を送って下さった人が言うように世の中にはあまり考えない人も居るからです(あくまで相対的な話ですが)。考える人でも人によって考える分野も違います。だから例えばそこら辺の一般の人が上述した様な発言をされていたとしてもそれはある種しょうがないと思っています(勿論自分の発言と行動にある程度一貫性がある前提の話です)。
しかし、カウンセラー等、人の「死にたい」感情を取り扱うプロなら話は別だと思います。例えばどんなプロと呼ばれている人でもどういう経緯であれ、誰でも知ってる事しか知らないのにその分野の専門家と呼びますか?間違った知識が広まっているなら、彼らプロが正さないなら一体誰が訂正するのでしょうか。実態は本文にも書いた通り歪んだ思考故に良くて偏った内容、悪ければ嘘の内容を広めていてしかも自分の落ち度は認めず学習もしない、それでおきながら金は取る、これでは詐欺と大して変わらないですよ。認知の歪みを矯正どころか増幅させるような真似をしておいてどのあたりが「本当の貴方を探す手伝い」になるのか、頭の悪い私では理解できそうもないです。私の持っている知識なんてたかが知れています、だからこそもし誤解がある、見解の相違があるのなら彼ら専門家は本来なら毅然とした態度で誤解を解こうとするはずです。しかしながらまともな反論どころか、論理的思考力があるかどうかも疑わしかったり、会話にもならなかったりする始末で酷ければ歪んだ思考故か、自分の「悩み」以外の「悩み」は矮小と捉えたり無自覚な傲慢さが滲み出たりしています。もしくは有害なポジティブ思考と表現した方が良いかもしれません。理を持って話せないのなら最初からしない方が賢明だと思いますが私情挟みまくりで感情的にしか話せない人間を専門家やプロとは言い難いのでそういう意味でも彼らは「カウンセラー」なのか問いたいです。仮に知識があったとしても、前回(https://shinitori.net/story/3363)にも例で出した弁護士のように、自分が当事者になった途端に主張を変えるようではあまり良い行動とは言えないだろうし、それが自分の専門分野なら思慮不足と思われても致し方ないでしょう。「どんな時でも生きろ」と安易に発言するカウンセラーにはまずそれが無敵の人を生み出すリスクがある事を認識した上で、その無敵の人に自分、あるいは自分の大切な人に危害を加えられても一切文句は言わない、くらいの覚悟がある人が言うべきだと思います(そうでないなら然るべき行動を実行する等)。自分の都合に合わせて出たり引っ込んだりする理屈に誠実さも正当性もありません。無責任に主張を変えるくらいなら最初からその事について話さなければ良いだけの事です。仮に意見が変わったのならそれまでの行動に筋を通してからだと思います。
納得いくまで議論がしたいのかな、と指摘されてましたが私は違うと思います。元からそんな考える人間ではないですし、高めあう程意識高い人間でもないですから。ただカウンセリングの場で哲学的な対話は必要な状況はあり得るとは思います。今では根本的に「生きる価値」その物に疑問を抱く人が増えてきていると聞いたので哲学的な対話が出来なければそういった人達には意味を成しませんから。
カウンセラーに期待をしている、と言えばしてる側面はあるのかもしれないですが、それはあくまで一個人と話すレベルと大して変えてないつもりです。例えば哲学的な話が出来ないのならそういった事を自分から話すのは避ける、不必要な事は言わない、もしくは逆に質問をするくらいに留める方が賢明だと思います。哲学的な知識が無いだけでなく自分の発言の説明が出来ないにもかかわらず「誰でも生きていて良い」とか耳障りの良い事だけ言うのが主な業務ならやっている事はそれは専門家としての活動ではなく、宗教の類ではないでしょうか。事象の解明に力を注ぐのは学者や専門家のやる事ですが、宗教の場合は最初から「誰でも救いがある」というある種の答えが先にある、だから救い、もしくは神等を信じない人は環境ではなく、その人が悪い(=救われない)という思考になりがちですが、彼らカウンセラーの考えってこれに近い気がします。根拠も無く思考停止状態で「誰でも生きていて良い」「自殺はダメ」と言っているように見えてしょうがない、認知療法の例でも述べましたがただ考えをポジティブにするのが認知療法ではないのにです。反証可能性無き言い分が通るのはそれは科学ではなく、宗教寄りの考えな気がします。何でも根拠を出せとは言いませんが、科学的根拠に基づかず治療、療法をしているのなら、実際には効果が認められていない温熱療法が行われていたと言われている某宗教が経営していた付属病院とやってる事がどう違うのでしょうか。理性的な意思決定が行われているとは思い難いです。
一般論として辛い時、特に死にたい程辛い時には誰かに話を聴いてもらおう、という意味合いも含めてカウンセリングを受けるのを推奨されていますが、このような現状を目の当たりにした後では軽々しくカウンセリングを受ければ良い、等とは少なくとも私は言えませんし言いたくもない。悪気は無いにしても軽い気持ちでカウンセリングを勧める現状に対しては異を唱えたく今回の経験談を送った次第です。アドラー心理学だけでなく現在のカウンセラー、精神医療が抱える問題、歪んだ思考を深刻に捉え、現実を見ずに共感力が損なわれる有害なポジティブ思考がこれ以上広まらない事を祈ります。その為にも色々な角度から安楽死や自殺について建設的な議論が出来る事を望みます。
感想文ありがとうございました。
感想1
投稿、読みました。
私は経験的に、人々の話す理論(らしきもの)は、論理矛盾などがないようにを合理的に考え抜いたものではなく、自分の感覚や感情にマッチするものを適当に選んでいるのがほとんどだと感じています。
これは残念ながら、どの職業の人でも、その人がまっとうな親切さを持っていても持っていなくても、あまり変わらないというのが私の感覚です。人間は矛盾に満ちていますし、加えて忘れっぽくもあり(勿論人によって程度の差はあります)、だからこそなんとか生きているという側面もあります。とはいえある種のプロであるはずのカウンセラーに、あなたが指摘するような矛盾があるのは、「人間そういうものだから仕方ないね」と流すことのできない問題だとは思います。
私もかなり理論を丁寧に突き詰める方なので、多くの人が適当に生きている(あまり考えることをしない)と知ったときはびっくりしましたし、その周囲との感覚の合わなさが生きづらさになっています。だからあなたも、その部分でかなり生きづらさがあるのではないかと感じました。
自殺が本当に悪いのか?という問いについては、ちょっと話が違いますが「自殺は個人の自由ではないか?」という問いへの回答で、私が納得したものがあるので紹介させてもらいます。
答えを雑にまとめると「自殺は社会からの暴力によって追い込まれて出てくる選択肢であって、『自由』意思で選択したものとはそもそも言えない。自殺を肯定することは、今の社会が暴力的であることを認めて、諦めることになる」といったものでした。回答した方は個人的にも少し関わりのある教育学者で、社会の抱えている暴力性と向き合い、社会を変えようと実践を続けている、信頼できる方です。私もどちらかというとカウンセリングに否定的な方ですが、それは自殺や生きづらさを「その人が抱えている問題で、その人をケアしよう」と考え、「社会がその人を追い詰めている。だから自分の行いも含めて、社会の方を変えなくては」という発想がない(足りない)からです。
あなたの論や問題提起は、このあたりの「医学モデルの限界」を指摘している側面もあると私は感じました。
ただ、「問題は社会の方にある。社会を変えていこう」という社会モデルの考え方だけをいくら叫んだところで、そんなことは綺麗事にしか響かないかもしれない、というのもいつも思うところです(また、時には個人を治療するというアプローチも必要です)。私が社会モデルの考えに深く納得しているのは、実際にそのような理念のもと、実践を続けている人たちが周りにいるからだともわかっています。
理論を突き詰める力をもっているあなたが、ここで書いてくれたような理不尽な扱いだけでなく、世界の捨てたものじゃない側面を体感したときに、どのような考えが出てくるのだろう?というのが私は気になります。また、ここまで考え抜くほどに、どれほどの違和感や痛みがあったのだろう、というのも知りたい気持ちになっています(私はどちらかというと「何を言っているか」よりも「どんな人が言っているか」に関心をもつタイプです)。カウンセラーとの関わり以外にも、いろいろなことがあったのだと思います。
今の社会や「死にたい」について、社会モデルの切り口で考える「生きづLABO」https://ikidulabo.lifelink.or.jp/ というサイト(死にトリの連携サイト)があるので、もしよければ読んでみてもらえたらと思います。
経験談の投稿、ありがとうございました。