経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

それでも生きていくこと

ここのサイトをよく読ませて頂いています。自分のことや、他の方が読んで参考になればと思うことがあったので書かせて頂きます。
わたしは愛情に恵まれた家庭環境で育ち、病気や障害もありませんでしたが、ずっと生きづらさがあり、今でもたまに消えたくなります。
大学4年生くらいまでつらかったことがたくさんあり、人ともうまく関われず、普通のことができず、アルバイトでもうまくいかず、人や社会から否定されて、死にたくなり、精神科に通い始めました。わたしのことを否定したり批判をする人が、極端な論理を展開していたり、言っていることがおかしいと客観的に周囲の人に言われるような人だったとしても、自分のことを言われると確かにわたしはダメで生きている価値がないと思っていました(他の人が批判されていると反論したくなるのですが)。コミュニケーションが苦手なため、就職活動もうまくいかず、留年して同級生より1年あとに働き始めました。それから紆余曲折あり、今はその時期よりはかなりましになりました。
大人になってからできた友達に、哲学や社会学のことを教えてもらって初めて、それまで閉塞的だった考え方が変わりました。それを聞くまでは、テレビで流れることやネットで気軽に見れるもの、本屋さんで平積みにして売り出されているようなものにしか触れておらず、狭い世界観で生きていたことに気付きました。一例ですが、たとえば落ちこぼれている人は努力不足であり自己責任でそうなったという論調は、普通に生きているとよく耳に入っていて、わたしも自分を責めていましたが、それは勝者のみが生き残るという資本主義的な一つの考え方であって、環境のことや経済格差の再生産などもあるし、努力や勝利が世の中のすべてではないとわかりました。その資本主義や成長こそがすべてだという考え方も限界を迎えつつあるし、有用性がある人だけが生きる価値があるわけではないとか、調べていると色んな考え方があるとわかりました。それから何年かかけて色々な本を読み始めましたが、長い文脈があってそういう思想があるとわかるような本質的な文に触れると、今まで支配されていた特定の人に都合の良い考え方から開放されて、社会の構造がわかるようになりました。それから嫌なニュース(コメントなどが性格の悪そうなもの?)や記事や動画を見たりせず、苦しんでいる人にどんな支援が行われているか、どんな活動をしている人たちがいるかということを積極的に調べるようにしました。そういう人びとや活動を見ると、生きていくことへの希望が多少抱けるようになりました。今も世間でパワハラなどはたくさんあったり、「そんなことでは他のところ(社会)でやっていけない」とか、「休む人は甘えている」とか、厳しいことを言う人もいるとは思いますか、わたしは厳しい環境にいたい人はいればいいし、それが合わない人(そもそも合う人がすごいてすが)は別にやさしい環境に気軽にいけるようにすればいいと思えるようになりました。実際やさしい環境、良い人が多い場所もあることも身をもってよくわかりました。わたしは昔から常識とか普通のこととかがよくわかっていませんでした。でも良い人に規則などを教えてもらったりする中で、自分が不快になりたくないのと同様、こういった良い人たちが不快にならないように規則を守ることなどが大切なのだと理解できました。厳しい人がむりやり厳しいことを強制して、それができない人がつらくなってしまうことをなくし、お互い歩み寄ることで良い社会ができていくのだとわかりました。
わたしは人生のパケッケージがインストールされていない状態で生きていて、何もわからず、みんなが普通につかめることもつかめずに混沌としているのがつらかったのですが、同じような人がいたら、本を読んでみたら良いかもしれないです。差別をどうすれば無くせるのかとか、犯罪はなぜ起こるのかとか、悲しくなるようなことやつらいことに対する解決策なども書いてあるものがあります。大学の頃は生きているのがつらくて、そういうときは人に相談するとか気分転換をするのが良いとかネットに書いていましたが、友達もおらず、よく知らない人に相談してもつけこまれるだけでした。なので、相談すべき人がいないときに人に相談しろという無責任なアドバイスは無視してもいいと思いました。もちろん、適切な窓口やしっかりとした組織なら大丈夫だと思いますが、精神科医でも冷たい人もいると聞くので注意すべきです。大人になってからたまたま知り合えた良い人たち以外で、救われたことといえば、映画や芸術や、「弱者こそが美しい」「異常者だけどこういうふうに生きている」というような内容の歌を歌っている曲を聞くことでした。なのでそういったこともおすすめです。
普段生きていて道端にこんなに幸せそうな人もたくさんいる一方で、わたしも未だに惨めになることもあるし、つらそうな人もたくさんいるし、理不尽でおかしいだろうと思います。わたしも色々考えてはいますが、まだなんで生きるのかもわかりません。つらい人たちがそれでも生きていく理由として、理解し合えるとかつらい気持ちがわかるから支援できるとかもあるとは思いますが、自分と同じような境遇の友達が、「今こういうふうになれたことで知識があると褒められたり感謝されたりすることもあるけど、できることなら何も考えず幸せそうに生きている人みたいになりたかった」と言っていました。わたしもよくそう思います。でもそういった気持ちを味わったことのある人にしかできないことがある以上、これからもやれることをやろうと思います。

感想1

投稿ありがとうございます。
あなたにとって、哲学や社会学などで他者が積み上げてきた思考に触れることが「閉塞的」だった視界を広げることにつながったこと、そしてそれからあなた自身が学びながら、いろいろなものを見聞きしながら考えてきたことが、丁寧に書かれている経験談だと感じました。

「わたしは人生のパケッケージがインストールされていない状態で生きていて、何もわからず、みんなが普通につかめることもつかめずに混沌としているのがつらかったのですが、」という表現がとても印象的で、同時にとても頷きながら読みました。
パッケージ化された「人生」みたいなものが、世の中に明確ではないにしろ存在しているような感覚を私も感じることがあります。それは相対的に強い力を持つ属性の人や、相対的に優位である人の中でしっくりくるように長い歴史の中で積み上げられてきたものなのではないかと思います。逆にいうと、想定されているのは一部の人なのだとも思います。それはさまざまな差別の歴史でも言えることかと思います。
そして、あまり強く疑問を持たないでいることが得意な人もいれば、そのまま周りに合わせていくことはむずかしいタイプの人もいると思います。

「そんなことでは他のところ(社会)でやっていけない」「休む人は甘えている」といった言説は、その人の置かれている状況の差異や、その人の抱えているものの負荷の差異に目を向けない暴力的な主張だと私は感じました。あなたは社会に多く存在するそのような言葉について、そしてそういう構造を持つ社会について、自分の視点で考えてきたのだろうと感じました。

「それから何年かかけて色々な本を読み始めましたが、長い文脈があってそういう思想があるとわかるような本質的な文に触れると、今まで支配されていた特定の人に都合の良い考え方から開放されて、社会の構造がわかるようになりました。」という部分にも経緯と理解の双方について賛同する気持ちを抱きました。あなたが書かれていたように本にも「平積みにして売り出されているようなもの」の他にもたくさんのものがあり、それも玉石混交であるのですが、他者が多くのことを考え積み上げてきた歴史に触れる一番着実な方法のひとつが読書であることは確かだと思います。
言葉や本というメディアの問題点や難しさもありつつも、そこに書かれているものがまた別の誰かの意識や理解を変化させ、次の知恵を編み出してきたことは、言葉の大きな可能性であると私は思います。そして死にトリの経験談もまた、そういう可能性のひとつだと私自身は捉えています。

話が戻ってしまうのですが、私は「人生のパッケージ」が窮屈であることがこの社会の大きな問題なのではないかと、あなたの文章を読んでいて感じました。それはもちろん、だからパッケージなんか何もない方がいいということには直結しません。それはバリエーションが増えていくべきということなのかもしれないし、そもそもその中に想定されているのが誰なのかをもっと意識すべきということもあるかもしれないと思います。

最後の段落にあった友達の「できることなら何も考えず幸せそうに生きている人みたいになりたかった」というあなた自身もそう思うと書いている感覚と、「そういった気持ちを味わったことのある人にしかできないことがある」という考えを読んで、その両方があなたの本心なのだろうと感じました。

感想2

とても丁寧な文章を送っていただき、ありがとうございました。また、このサイトを利用してくれていることもとても嬉しく思います。私も経験談を読むことが楽しみですし、感想を書くことは自分の感じることを見つめ直したり、価値観を広げる貴重な機会になっています。あなたの経験談を読んで、それと同じような気持ちなのかなと想像して、勝手に仲間のような気持ちになっています。
私は子どもの育ちについて学ぶ機会があるのですが、子ども自身の経験と、大人による子育ての二つが子どもの育ちに大きな影響を与えると理解しています。そのことは経験談を読んでもその通りだと思うことがたくさんありますし、実際にいろいろな人たちと関わることでそれを痛感しています。あなたの経験談を読んで、それに加えて情報化が進んだ今の時代は「大人の関わり」ということだけではなく、「どんな情報を得たか」という要素も大きく影響しているのかもしれないと思いました。子どもの経験の質が変わったと言ってもいいのかもしれません。高度に情報化が進んだ社会では実際に経験したことよりも、情報として頭に入ってくる方が多いかもしれないので、どんな情報を得るかは子どもの育ちに影響が大きいのだろうと思います。子どもはそれだけ環境によって左右される柔軟な存在なのだろうと思います。
また、同時にそうした影響を受けたとしても、何時からでも学んだり、経験をしたり、人や情報との出会いによって、変わることができることをあなたの経験談は教えてくれています。誰もが新しい情報を素直に受け取ったり、すんなりと学び直すことができるわけではないかもしれませんが、その人なりの力を発揮して、自分を変えることができると私は思っています。私はあなたが自分にとって必要な情報を吟味し取捨選択することができるようになった様子を読み取りましたが、どのようにして獲得していったのかそのプロセスが気になりました。
あなたはコミュニケーションが苦手だと書いていました。コミュニケーションは相手から受け取ることと自分から伝えることの相互作用です。私はあなたが苦手だと思っているのはおそらく伝える側のことだけであって、もう一方の周囲を観察したり、見極めたり、意味を考えたりという受ける側のコミュニケーションは得意なのではないかと感じています。受け取るのはとてもできるのに、伝えることが難しかったら、自覚としてはとても歯がゆく、コミュニケーションが苦手だと思っても無理はないと思いました。でも、あなたの経験談はとてもわかりやすく、まとまっていて、あなたの個性や存在感が詰まっていると感じました。自分なりの感じ方や考え方の力を感じました。だから、伝えるということも、その場ですぐに伝えられないだけで、じっくり考えることができたのならそんなに苦手ではないのではないかと感じました。(ただし、コミュニケーションは得意でも、苦手でもどちらでもいいと私は思っています。どうしても、苦手はダメで得意がいいという価値観があるのも良くないですね。得意不得意は誰にもありますし、それらはお互いに理解し合えることが大切だと思っています)。
誠実な経験談に触発されて、ちょっと分かりにくいことを書いてしまいましたが、率直なあなたの発信を読み、そこからもう少し議論を広げたり、対話で深めたくなり、こうして一人であれこれ考えてしまったことをお伝えします。最後の方に書いてくれた、つらい経験をしたり、深く物事を考えたことがあるからこそできることがあるのは本当にその通りだと思います。死にトリもそうした経験があるからこそできることがあると思い、社会参加の機会をつくっています。これからも、死にトリに限らずあなたの発信を待っています。

お返事1

感想ありがとうございます。とても嬉しかったです。今までの経験や人生そのものが少し報われたような気持ちになれました。また、さらに考えを深めるきっかけにもなって、ありがたかったです。どの感想や意見もたしかにそうだなあと思いながら見れました。子どもの育ちに関する話も興味深かったです。

感想1の方のところに、「「できることなら何も考えず幸せそうに生きている人みたいになりたかった」というあなた自身もそう思うと書いている感覚と…」とありましたが、これはある映画の感想に『つらかったことも、あの経験があったからこそ今の自分があると無理やり肯定することで失われるものがあると思う。つらかったことはつらかったし、最悪だった、なかったほうがよかった、と思ってともに分かち合うことの中に美しさがある』と書いてあるのをみて、前者の気持ちも大事にしなければと思ったのもありました。実際分かち合えたときの嬉しさというのは心地よいものだと感じます。そうはいってもあまりにもつらすぎて理由や納得する答えを求めても出てこなくてどうしようもないときに、後者が救いになることもあって、たしかにどちらも本心だと感じます。

「あなたはコミュニケーションが苦手だと書いていました。…」以降のところ、感動しました。まさにそうかもしれないです。伝えるのが苦手で、面接や仕事でもうまく説明できなかったりしました。けど、よく知ってくれている人たちは「仲良くなったらうまく話せるのに」とか「話してて話通じないとかストレスない」と言ってくれたりします。()書きのところも、素敵だと思いました。わたしは他人に「良くなった」と言わないほうがいいと思っていて、たとえば痩せて良かったとか不安障害が治って良かった、とか言うとそれまではその性質があるのがダメだったって断定してしまうみたいで、本人がそれ(特定の症状がなくなったりして)で楽になるならそれで良かったとは思っていいけど、ただただ「良くなった」っていうのは逆に否定しているみたいなのでやらないでおこうと心がけています。()書きのところはそれみたいで、なんか良いなと思いました。たしかにコミュニケーションが苦手で色々うまくいかなかったので、最低限必要だとしてもそれがすべての軸ではなくて、色々な性質を支え合いながら生きていけたらいいことだなと感じます。

「どのようにして獲得していったのか…」それについて父親に話をしてみると、父親は若い頃に本で見たり話で聞いて知識としてあったことが、生きて経験を積んでいくうちにあの言葉はこういうことだったのかとわかったから、経験することで実感として得られて、自分の中に落とし込めるのかもしれないと言っていました。それも一つの答えですし、わたしも疑問に思うのでこのことについてはまた今後も考えていこうと思います。

「死にトリに限らず…」とありましたが、実際今後何か発信したいけど文章とかに自信がないなと思っていたので、そう言って頂けて励みになりました。

感想1の方が最後に書いてくれたこともそうですし、感想2の方が最初に書いてくれていたことにも関連するのですが、つらい体験をしたからこそ何かできることがあるという思いもあったり、普通に生きられない分何か代替としてしなければならないとか色々な思いがあり、そういうアクションを起こす際に、ここに書かれた経験談を読むことで、世の中にはどのような問題があり、実際苦しんでいる人はどういう状況なのかを知ることもできたりします。また、まれに元気になったとかこういうことに気付いたみたいなことを書いてくれている人もいるので、そういうのをみると自分に対しても他の人に対しても希望を見い出せますし、言われていたように、価値観を広げる貴重な機会だと感じます。

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