経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

苦しみの連鎖

積極的に死にたいとは思っていません。死ぬ勇気もないのです。
でも、早く死んでしまえばいいのにな、という気持ちがあります。

両親と兄がアルコール依存症でした。兄は寿命とは思えない理由で若くして亡くなり、両親は高齢で存命ですが、楽しみもなく、ただ生きているという状況です。
私はアダルトチルドレンを自覚していて、自助グループに通っています。
そこで知ったことですが、依存症とは死または狂気に至る病だそうです。
私は今、特に何かに依存はしていません(と思います)が、特別楽しいこともなく、両親や兄とどこが違うのだろう?と考えてしまいます。
生きていて、何か楽しいですか?人が普通にできることがなんで私にはできないんだろう?
なぜ私には多くの困難が降り掛かってくるのだろう?生きていれば困難はあると思いますが、私のところにはそういう事が多すぎるように思います。
長く生きて、人に面倒をかけて、生きている意味がありますか?
私もまた死または狂気に向かって歩いているのでしょうか。

こういった事を夫に話すとひどく怒られます。死にたいなどと言われるととても傷付いて、そんな事を言わない、他の女性と過ごして行きたいと言われました。
なので言わないようにしていますが、時々とても苦しくなります。
聞いていただいてありがとうございました。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。投稿者さんがアダルトチルドレンを自覚していると書かれているのを読み、これまで家族の中でケアされず自分の基盤が出来上がらない中でも周りの人や状況を優先にしながら生活してきたことや、周囲が背負うことができないことで投稿者さんが背負わなければならなかった負債が積もり積もって今の「死んでしまえばいいのにな」という言葉に繋がってるのかなと想像しています。
誰もが確実に死に向かいながら歩いている中で、投稿者さんが険しい道を歩かなければならなくなっていることは確かだと思うので、投稿者さんが苦しくならず自分の気持ちを大事にしながら辛い気持ちは辛い。と話して受け止めてもらえる場所を作って欲しいなと感じています。
私も自分の祖父がアルコール依存で家族全体がそれによって形が変わってきた経過があります。数年前に「人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション/小林桜児著」を読みながら依存について勉強をしたときに依存症は人を信じることができない病であると学びました。私としてはこの本がすごく自分自身や自分の家族について理解を深めるのに役立ちました。もしよければ投稿者さんにも読んでみてもらいたいです。

感想2

積極的に死にたいとは思っていなくても、生きるということに執着しているわけでもなければ前向きに捉えているわけでもない状態なのかなと想像しながら読んでいました。きっと投稿者さんがご両親やお兄さんと過ごされてきた環境は今の投稿者さんの価値観に大きく影響しているものなのだろうと感じますし、“生きること”自体に疑問を抱いてしまうのも自然な気持ちなのではないかなと私は感じています。アダルトチルドレンであることを自覚され、自助グループにも通っているということですが、依存についても含めて知って理解すればするほど余計に自分の背負わされてきたもの(生きてきた環境の違和感など)を突き付けられてしまうような感覚になることも多いのではないかなと考えていました。そしてその感覚を、身近な人(夫さん)に共有できない今の状態は苦しくなってしまうのも無理はないと思いますし、投稿者さんにとって死にトリが少しでも素直な気持ちを表現できる場としてあれるといいなと勝手ながら思ってしまいました。
自分の感情も含め、自分と向き合うということは痛みが伴いますし正直逃げたい気持ちにもかられてしまうなと私も機能不全家庭で育ったのでそんなことを思いながら日々生きていますが、困難さを抱えながらも生きていく意味をそんな簡単に答えは出ないかもしれませんが一緒に考えてみたいなと私は思いました。また良ければいつでも死にトリに投稿者さんの声を届けてほしいです。経験談の投稿ありがとうございました。

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