経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

普通になりたい

普通になりたい。普通になれれば私は自分の生きづらさが解決するのに。でもなれないことは私が一番分かってる。
私は去年、躁鬱と診断された。原因は職場環境だった。元々仲が良かった上司と意見や考え方が食い違った故に言葉を交わさなくなったり、些細なことで自部署の部長に怒鳴られたり、顔も見たことがない自分と同じ会社の営業マンに電話で怒鳴られ、その原因が自分であると言われたり。大体そこらへんが発症の原因であろう。結果私は三か月休職をして、現在は元々いた部署には戻ったが違うチームで働いている。月一回程度の通院で済んでいるし、躁鬱の中でも私は軽症なんだろう。それに正社員として働かせて貰えるのは本当にありがたい。でもここで問題になるのは私は普通の人ではない。普通の人ではないというのは健常者ではない、ということだ。躁鬱は完治はしない。気分の上がり下がりが非常に激しく、薬を飲んでいてもコントロールしきれない部分が多い。仕事を任され忙しくなってくると躁気味になり、躁がくれば今度は鬱になる。鬱になると仕事ができなくなって迷惑をかける。迷惑をかけてしまうと、正社員の給料をもらっているのが申し訳なくなって、それも鬱になる。最終的には死ぬことしか考えられなくなって、ベッドから動かなくなる。さそれを繰り返している。私を怒鳴った営業マンからは違う営業から少し強く言われただけでトラウマが蘇り職場で泣いたり、会社の標語を見ただけでそれをできない自分が責められているような気持ちになって、いつか私はゴミだって言われるんじゃないかって不安に駆られる。普通というものは人によって様々だし、もしかしたら普通の人、なんていうのはいないのかもしれない。それでも、私は間違いなく普通ではない。この先も普通の社会人にはなれない。普通の人は死にたくなって動けなくなったりしない。私は度々死にたくなる。生きていくのに不安が多すぎるから。今はまだ家族がいるし、職場も私の性質に理解をしてくれている方だが、それらも永遠ではない。いつか私1人になった時、私は耐えられる気がしない。それなら、みんながいる今のうちに死にたいなんて思ってしまう。でもカッターを腕に当てた時、死にたくないと思ってしまう情けなさ。誰か、私を殺してくれないかな。
躁鬱になんてなりたくなかった。普通の人でいたかった。健常者が羨ましい。普通に働ける人が羨ましい。私を追い詰めた人間全てが憎い。なったことがない人は私のことなんて理解できないと思って、人を疑ってしまう。私は自分の感情で振り回されている間、周りは出世をしたり、結婚したりと変わっていく。普通の人は会社の標語なんてなんとも思っていないだろう。でも私はずっと捨てられるんじゃないか、いつかゴミだから出て行けって言われるんじゃないかと不安でいる。周りに相談していた時期もあったけど、最近は諦めてしまった。私の性質を理解してもらうのは随分難しいことだし、それを理解しろというのは傲慢だ。私は自分の感情が生きづらさに繋がっているんだろう。自分の感情に振り回されたくない。周りの人たちは過去のことなんて忘れた方がいいという。でも私はそれでさえ無責任だと思ってしまう。その仕打ちを受けたのは私で、忘れられないのもわたしなんだから。もう辛いことも憎しみも全部忘れてしまいたいし、できるならとっくにそうしてる。私はこれから先もずっと惨めで生きづらい。姉に「生きづらくない?」と言われたのが始まりだった。私って生きづらいんだって。少し言語化されて安心した。人に恥を晒すんだろう。でも生きていかなきゃいけない。まだ発症して1年。まだまだ時間はかかるだろう。

感想1

投稿者さんは職場環境で怒鳴られることなどが続いて、そのつらさを今も思い出し、苦しい思いをしているのだろうと思いました。
投稿者さんが「なりたい」と思っている「普通」というのは、「ゴミだから出て行け」と言われたり、捨てられたりしない人のことなのかなと思いました。そしてそのためには「健常者」でなくてはいけないと感じているのかなと思いました。
私はどんな人であっても誰かをゴミ扱いする世の中はおかしいなぁと思うし、人間を条件付きで判断するのもあまり自然ではないと感じます。
でも、世の中にそういう価値観があるのも確かだと感じてもいます。(だからこそ、それをどうやったらすこしでも変えられるのかなぁと思っていたりもします)

私も以前双極性障害と診断されていて、気分の上下がある中で、なんとか頑張らなきゃと思って頑張っては、頑張り続けられなくなって死にたくなることが続く日々だったので、共感をしながら読みました。
「過去のことなんて忘れた方がいい」ともし私が言われたら、「そうできるならそうしてるよ」「忘れようと思って忘れられるようなものでもないよ」と思ってしまうかもしれないと思いました。

「生きづらい」という言語化によって、「安心した」と書かれているのが印象的でした。「生きづらくない自分」でいなければいけない、という思いもあったのかな?とも想像しました。私も「生きづらいなぁ」「しんどいなぁ」と感じることは多いですが、個人的には「生きづらい」のは自分の問題というより、社会がまだ未熟であることによる問題だと思っています。
2023年は私たちの知る中では最先端ですが、100年後、500年後の人たちから見たら、すごく不十分で、いろいろなことを気遣えていない社会なのではないかと思います。未来から見たら、私たちの生きる社会で「普通」とされていることも、あまり「普通」ではないのかもしれないと思いました。
でもそういう「普通」じゃない「普通」を常識とするような社会の中で生きていると、「こうでなければ一人前ではない」「これはまともではない」という否定の考え方が私たち自身にも身についてしまって、それで余計に自分を苦しめてしまうことも多そうです。
投稿者さんの「生きづらい」や、他の生きている全ての人の「生きづらい」が少なくなるように、この社会や、この社会に生きている私たちが少しずつアップデートを続けられるといいな、そのために何かすこしずつでも考えたり、話し合ったりしていきたいなと思いました。
経験談の投稿ありがとうございました!

感想2

読ませていただきました。私があなたの文章からイメージした「普通」は、社会の中で平均点の働き・役割を安定的に全うできる事、そしてそれをこなすことで、周囲の目に怯えることなく、自分自身をそれなりに認めていられる事、という印象でした。
そこに基づいて考えると、あなたが書いてくださっていた「普通な人なんていないのかもしれないけれど、それでも、私は間違いなく普通ではない」この言葉に、あなたが日々生きる中で晒され続けているであろう、社会で生きている人たちとの隔たりのようなものや、そこから感じる恐怖、思うように動かせない自分の心身への虚しさだったり…そんな、「生きづらさ」が詰まっているように感じました。
そして同時に思ったことは、あなたを生きづらくしたのはあなた自身ではなくて、会社や、社会であなたに「普通」を要求してきた人たちのほうだということです。私も、あなたが言うように、普通は人それぞれ様々で、万人に共通する指標はないような気がしていますが、一方で、ある一定の集団・社会の中で求められる傾向のようなものは、どうしても生まれてしまっていると感じます。あなたの場合は、会社から(ひいては社会から)「普通はこうだよ」「これができないのは異常だよ」と刷り込まれてしまって、あなたの感性や自己評価をまるっと捻じ曲げられてしまった感じなのかな…と想像しました。でも、日々気分の上がり下がりの乱高下に揺さぶられ、今いる環境に晒されながら生きているあなたが体感している疲弊や苦しさは、私が経験談から想像するより何倍も大きなものだろうと思うからこそ、「あなたのせいじゃない」なんて言われても、「じゃあ代わってくれよ」と言われてしまうかもしれない…なんてことも想像しました(あくまで勝手な想像です)。
最後に、あなたからは社会や周りの人がどう見えているのか、そしてそこに対峙するあなたが普段、どんなふうに人への本心と振舞いの葛藤(があるように私はイメージしました)の折り合いをつけようとしているのか、もう少し教えてもらいたくなりました。よければまた、死にトリであなたの気持ちを聞かせてください。投稿ありがとうございました。

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