経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

心が弱いのか社会が強いのか

私はいじめを2回経験しました。
小学校低学年のとき、初めて「頭から水を被る」という行為をされてからたくさんのいじめを経験しました。当時はそういった行為だけで、低学年で社会を知らないこともあってこれが普通だと思っていました。
違ったと気づいたのは小学校高学年のときに「うざい」と言われた翌日、机の上に花瓶が置いてあったことからです。高学年にもなれば何が悪いことかなんとなく見当がつきます。
いじめなんだと認識してから、行為は低学年で当たり前だと誤認してしまったせいで何も感じなくなりました。
しかし、私は何気ない「言葉」に苦しめられるようになりました。普段のノリで「きもい」だとか「やめろ」だとか、そんなことを言われるたびにお腹の真ん中あたりがキュッとなって息が止まります。
それでも真に受けたなんてバレたらまた私が聞きたくない言葉が降り注ぐことがわかっています。
そのことに気づいた頃には誰にも頼らなくなり、みんなの前では明るくして1人になったら「早く死にたい」と無表情で言う日々ができました。
別に、その人がそんなつもりで言ったわけじゃないんだ、とそうわかっていても、もしかしたら心の根底には私のことを卑下する言葉で溢れているんだろうと決めつけてしまって信じられなくなります。
そうやって生きてきて十数年、私はほんの些細な言葉でもっと傷つくようになり、自己肯定感が低く、自分のやることなすこと全てに対して「死にたい」が独り歩きするようになりました。もはや「死にたい」が励ましの言葉になるくらい追い詰められています。
今や人生の目標が「40まで生きたらオランダで精神疾患で安楽死する」ことになりました。誰にも迷惑がかからない状況を作ってから死ぬので安心してください。
未来に希望が持てない「死にたい」を自分につぶやきながら寝て起きてを繰り返しています。
誰にも相談できなくてそろそろ壊れそうだと思ってここに書きました。
どんなに辛くても明日生きないと死んだ後でも叱責される。それが愛なのか怒りなのかはさておき。生きづらいのは自分の心が弱いせいなのか、それとも社会が「言葉」とい武器を身につけて強くなりすぎたせいなのか。
どっちに押し付ければ心が軽くなるかで考えてとりあえず生きていきたいです。

感想1

経験談の投稿をありがとうございます。
『社会が「言葉」という武器を身につけて強くなりすぎたせいなのか』、この文章を読んでハッとしました。ハッとした気持ちのまま、この感想を書かせていただいております。
非言語コミュニケーションと呼ばれるものもありますが、人間が他者と深くかかわるためには、社会生活を送るためには、言語コミュニケーションは必要不可欠のものと思います。
私の話になってしまいますが、他者との関りや社会生活に加えて、このように言葉を使った関りを濃く持つ機会が多く過ごしているため、自分自身が発する言葉、表現する言葉には、自分なりに責任を持とうと思って、生きてきました。「言葉」は私が私であるために、私を表現するために、必要な〝武器〟であったと感じています。
でも、〝武器〟は〝武器〟である以上、簡単に人を攻撃することもできてしまう。私の意図に反して、〝武器〟が力を持ちすぎてしまい、無意識のうちに扱いきれなくなっていることもあるかもしれない。社会の中で力を持ち過ぎた「言葉」は〝武器〟として、そのような危険性や危うさも持ち合わせているのだと、投稿者さんのお話を読ませていただいて、気付くことができました。改めて、自分の発する〝言葉〟を振り返り、責任を持つことを考えるきっかけをいただきました。
私の話が長くなってしまいましたが、これは社会全体にも言えることだと感じています。どれだけの人が、「言葉」を〝武器〟と捉えることができているのだろう…。自分の発する「言葉」に意識を向けようとしているのだろう…。〝武器〟を〝武器〟として捉えず、不用意に、無意識的に、〝武器〟を振りかざして人を傷つけてしまう人もいるのだろうな…と感じています。勝手ながら、投稿者さんのお話をたくさんの方が見て、もっと自分の「言葉」を〝武器〟として捉えられる人が増えたら…「言葉」が強さを持ち過ぎた社会で、「言葉」が持つ優しさに触れることもできるのかもしれないな…と感じました。。
もしまた、投稿者さんの中から溢れる「言葉」がありましたら、是非聞かせていただきたいと思いますので、こちらに投稿していただきたいと思います。

感想2

読ませていただきました。読みながら、あなたが幼い頃、周囲から受けた扱いに対して、どんなふうに傷ついた心を守るべく、その場を堪えるべく、必死に頭を働かせてきたのか、ということに思いを馳せました。そして、「それでも真に受けたなんてバレたら」という言葉から、いじめや、人が人に投げかける言葉の鋭利さを、社会があまりにも軽んじているという歪みを痛感して、勝手ながら胸が詰まり、辛くなりました。
また、私はタイトルに惹かれてこの感想を書かせていただいたのですが、個人的にすごく、「(自らの)心」と「社会」の比較構図はしっくりくるところがありました。私の話で恐縮ですが、(私自身も社会の一員なはずなのに)自分以外の「社会」のほうが常に正しいような、そこにハマれない自分が誤りであり、それは弱さの証明なのか、と感じられてしまうことがあります。ですが、あなたの経験談を読んで、「社会」あえて言い換えるなら「自分以外の人の集合体」は、それ自体が強いわけじゃないのかもと思いました。強固で厄介なのは、他人と辛さ比べをして、足を引っ張り合い、弱いものを下に落としていく今の社会の「構造」なのではないかな…と、そんなイメージを持ちました。そう考えると、そこに「乗らない」選択をしている自分をちょっとだけ認められるような気もしました(あくまで現時点の私の話ですし、乗らない選択をすることにはそれなりに勇気と胆力が要るのかもしれませんが)。
あなたが、幼い頃、そして今、どんなふうに感じ、考えてきたのかを聞けたことで、また一つ、新たな視点を得られたような気がします。投稿ありがとうございました。

一覧へ戻る