生きづらさとはなんだろう。どんな時に生きづらかったのか、周りの環境、これまでの人生を振り返って書いてみたいと思う。
いまから半世紀余り前、私は東京都内に生まれた。2歳になってから郊外の団地に引っ越した。団地に引っ越してから妹が生まれた。だから東京での暮らしは全く記憶がない。都内では貸家暮らしで当時犬を飼っていたようである。記憶があるのは郊外の団地での暮らしからである。
父は東北の人で根っからの職人で口数が少なく厳しい人だった。酒を飲むのが好きで雨で仕事が休みの日は、昼間から飲んでいた。そんな父が怖くて雨の日はとても憂鬱だったのを覚えている。だけど仕事の日は朝起きるともう父は勤めに出ていた。始発に近い電車で出ていく父の弁当を毎日作っていた母も東北の人で専業主婦、厳しい中にも優しさがあった。当時の母子手帳や幼稚園の連絡帳を見るとやれ私が、熱を出しただの、流行り病にかかっただの病歴や健康状態がびっしりと書いてあった。それなりに大事に育ててくれていたのだなと思う。当時は風疹や水疱瘡などの流行り病が出たら、免疫がつくからその家に行ってもらって来いといったむちゃくちゃな時代である。世話好きで、いまでいうママ友も多く、裁縫や和服の着付けなんかも得意で団地の中であっちこっち呼ばれて行っていた。
自分といえば、子供のころはとてもシャイだった。幼稚園、学校の先生、親以外の大人にとにかく話しかけるのが苦手で、話そうとすると心臓がばくばくして手に汗をかいてしどろもどろになっていた。授業中、手を挙げて答えるのがとても苦手だった。みんなの前で話をするのがとても苦手だったのである。それば半世紀以上だった今でもだ。だけどそれなりになかのいい友達もいて楽しかった。でも周りと違うなという違和感はいつも付きまとっていた。それが生きづらさなのか何かわからなかった。
中学は校内暴力全盛期、学校はとても荒れていた。生徒が先生を突き飛ばしてそのまま緊急の職員会議が開かれて、授業打ち切りといった日もあれば、牛乳パックを校舎から投げつける者、バイクで校庭に乗り付ける者までいてとても勉強どころではなかった。私はどちらかというとおとなしいほうで、毎日毎日戦々恐々としながら学校に通った。それでも部活動に打ち込み、友達にも恵まれていたと思う。生きづらさというより、学校が怖かった。
最初の生きづらさを感じたのは高校時代からだったと思う。高校は、自分の住んでいる地域とは少し離れた県立高校に入学した。小学校、中学校とは違った友達関係を築きたいという思いもあった。部活動、学業、友人関係、みんなそれなりに充実していたのだが、なぜかとても憂鬱な気分になった。校舎の屋上を見上げてはここから飛び降りたらと思うことがしばしばあった。当時、部活動の副部長をしていたのだが、顧問と部員の関係がうまくいかず、間に入ってかなり苦労した。ちょっと疲れていたのだと思う。そんな時ある人気アイドル歌手が所属事務所のビルから飛び降り自殺をした。後追い自殺する者も多く出て社会問題となった。ある写真週刊誌は、そのアイドルが飛び降り自殺をした直後の現場の写真を掲載した。交差点の真ん中で、脳が飛び散り、うつ伏せに横たわる若い女性の遺体の写真はとてもショックだった。そんな写真週刊誌が、普通に書店で買えたのである。その後の人生においても人の死には何度か直面するのだが、人の死って意外とあっけないものだなと思った。
高校卒業後は、大学には行かず、神奈川県内のIT関連会社に就職した。研修期間中は、自宅から通ったのだが、三日でやめようと思った。研修内容についていけなかったのである。それもそのはず、学生時代アルバイトもしたことがない世間知らずの若者だ。ITの会社に入ったのにキーボードの入力すらままならなかった。情報技術系の高校か、専門学校に行けばよかったとつくづく思った。なぜ、ITの会社に入ったのかというと、そもそも第一志望の会社の就職試験に落ち、進路指導の先生に相談して紹介してもらった会社に拾ってもらったからというのが理由である。その会社にその後30年以上たった今でも勤めているとは当時は夢にも思わなかった。それでもなんとか泣きながら研修期間を終えた。
配属先が決まってからは、自宅から通うには少し遠かったので会社の寮に入った。当時の寮は二人部屋、同期と相部屋になった。同期とはいっても相手は大卒なので4つ上、おまけに酒飲みで、部屋には酒瓶が何本も転がっていた。私が勤務先から帰ると同僚はすでに酔っぱらっていてよくからまれた。当時私は未成年で酒が飲めなかったのでどうにもこうにも辛かった。職場の上司や先輩も厳しい人でよく怒られた。仕事をしているとどうにもこうにも辛くて、昼休みになると近くの神社でよく泣いていた。
外出先でも移動中の電車の中でつり革につかまりながら泣きべそをかいていた。似合わないスーツを着た若者がつり革につかまって泣きべそをかいている、明らかに新人だってわかったのだろう。電車の中で隣に立っていた年配の男性が見るに見かねてつらいのは今だけだ、頑張れと励ましてくれた。それを聞いてますます涙がこぼれた。
あの当時は本当にうつ病か適応障害を患っていたのだろう、残業も多く平均毎月80時間~100時間の残業時間、今であれば過労死ラインだ。しかし当時はそんな病気はまだ認知されておらず、ひたすら耐えるしかなかった。それでも半年、一年もたつと嫌でも仕事は覚えてくる。少しずつ会社にも慣れてきた。一番救われたのは、当時、寮や寮の近くに住んでいる同期がよく遊びに来てくれて、週末ごとに連れ出してくれて気分転換をさせてくれたことである。そのころには二十歳も過ぎて、酒の味も覚えた。想いを寄せる女性できて恋バナにも花が咲いた。意を決し、想いを寄せる女性に告白、しかし相手のほうが一枚上手で、翌日職場中に告白したことが知られていたという失態も経験した。それから何人か想いを寄せる女性に出会ったが、全戦全敗だった。うまく好きという表現が伝えられなくてつきまとい行為(今でいうストーカー行為)をして嫌われたこともあった。さすがにその女性の自宅に行ったり、電話をかけたりといったことはしなかったが、よく捕まらなかったと思う。
入社して15年余り、部下もできて仕事もますます多忙を極めた。そして私に好意を持ってくれる女性が現れ付き合うようになった。付き合った当初は、私が変に相手と比較して勝手に劣等感を感じて卑屈になった。喧嘩もよくした、相手の女性を傷つけた。私は高卒、相手は大卒、自分で勝手にレッテルを貼って卑屈になっていた。何度か別れる寸前までいった。それでもその女性は私と一緒にいることを選んでくれた。2年の交際期間を経て私はその女性と結婚をした。お互い30代半ばを過ぎてからの結婚、それぞれ別々の道を歩んできた立派な大人である。結婚当初は、立場の違いからぶつかることも多かった。それでもお互い言いたいことを言いながら一緒に暮らしてきた。結婚して3年後に長女、その4年後に次女が生まれ、二人の子宝にも恵まれた。妻がようやく私と家族になることを決めたのである。家族も増えて、仕事や家庭をこれから充実させていくつもりだった。しかし第二の生きづらさとの闘いはこれから始まる。
次女が生まれた年、勤めていた会社が吸収合併という形で他の会社に吸収された。会社の文化が急激に変わり、評価制度も変わり収入も減った。会社の変化についていけない人は次々に辞めていった。私も会社の変化に戸惑いながら、何とか適応しようと必死にもがいた。本当に生き辛かった。
しかし2011年3月東日本大震災の3か月後、私は初めて心療内科の門をたたいた。夜眠れない、意欲の低下、希死概念にさいなまれ、ついにうつ状態と診断され、会社を休職することになった。最初は負けたと思った。でも限界だった。
休職中は妻が仕事に出ている間、食事の支度、子供の保育園の送り迎え、掃除、洗濯といった家事中心の生活になった。規則正しい生活、適度な運動、きちんとした服薬をしながら休養、休むことも仕事のうちと心に言い聞かせた。妻も協力をしてくれた。休職のおかげで家族と過ごす時間も増えた。その後、半年後に復職するが、そのまた6年後に再度3か月間の休職。現在は復職しているが、定期的に心療内科に通院しながら服薬は続けている。最初に心療内科の門をたたいてからもうすぐ10年になる。生きづらさを抱えつつも生きている。
さて、ここまで人生を振り返ってきたが生きづらさとは何なのか。答えは出せなかったが、いい時もあれば悪い時もあるということだろうか。こうして書いていると生きづらさの中にも楽しいこともそれなりにあったような気がする。折に触れて、周りにずいぶん助けられているような気がする。最近私の尊敬するミュージシャンが久しぶりに新曲を出した。そのミュージシャンもバンドメンバーの死、更年期障害、大病を患い生きづらさを乗り越えてきた人の一人だ。その人の出した新曲のタイトルは、「人生は一度きり、でもひとつじゃない」。私も一度きりの人生、でもひとつじゃないいろいろな人生を歩んでいきたい。
終わり
感想1
東北出身のご両親が東京で子育てをはじめたことや、校内暴力の全盛期を生きてきたと聞いて、日本人の暮らしや人との関係性が急速に変化していった時代を走り続けてきた方を想像しながら拝見しました。
就職したばかりのころ、電車で泣いていたら見知らぬ年配の男性が声をかけてくれた辺りでは心がじんわりしました、昭和時代っぽくて。スマホが普及した今は、電車の中で誰かが泣いていても誰も気づかないだろうな。気づいても声をかけないだろうな・・・だって、乗客達は、この車両にいないダレカとのコンタクトに視界も思考も奪われているから(話が脱線してしまったので、この話はいったん終了)。
これまでの人生を振り返りながら書いて下さったということですが、人は人生を振り返るときに、親との関わりが欠かせない要素なのだなとあらためて感じました。親は産まれて初めて出会う人間なので、親がどんな人で自分にどんな風に自分に関わったのかが、その後の人間関係に影響を与えると思うからです。この経験談を読んでいてそう思います(親が存在しない人生のスタートもあることでしょう、親の機能を果たす別の誰かが初めて出会う人間のこともあるでしょう)。
そういう意味では、ご両親は貴方に人を信じる土台を作った方なのだと私は思いました。貴方の人生にはピンチの場面が多々あったようですが、貴方は集団に属し続け、その都度、関わろうとしてくれる人が登場し、貴方はその人を信じてコミュニケーションをとりながら、局面を乗り越えてきたのだと思いました。
冒頭に「生きづらさとはなんだろう」と書いて下さったので、私も考えてみたのですが、「生きづらさとは、人を信じることができないこと」なのではないかと今思いました。もっと深めるのであれば、人を信じて心地よかった経験が奪われていた、奪われている状態ということだろうと思います。
もしかしたら、貴方は自分の人生を話題提供しながら、このサイトに立ち寄った方を勇気づけたくて投稿したのかもしれません。貴方の文章は押しつけがましくないので、もしかしたら無自覚にそうだったのかもしれません(決めつけてしまってごめんなさい、私にはそのように感じたのです)。
最後になりますが、タイトルがとても心地よい響きでした。小さな人生という表現が地に足がついている気がして。投稿ありがとうございました。