生きづらいと感じたのは13,14の頃だった。その頃にはもう不登校になって半ひきこもりの生活をしていた。
不登校になったのは小学4年生で、理由はいじめが原因だった。殴られたり、蹴られたり、暴言や馬鹿にされるのは日常的で、学校に行かないと決めた日の前日は今でもたまに思い出したり、夢に見たりするほど悲惨な日だったと思う。
いわゆる小学校高学年の頃は半引き籠もりで外には出ていた。ただ当てもなく街を歩いていたわけではなく、ちゃんとした目的をもって出ていた。それは死に場所を探していた事だ。公園の木陰の木を見つけては、いつもバッグに入れていたロープを括り付けて自殺を試みた事がある。その途中で声を掛けられて、ロープは止めて飛び降りを考えた。けれど、それも無断で侵入して見つかったために、外で死ぬ事はやめた。
次に試してみたのが刃物による自殺だった。家の中では家族の生活サイクルとは真逆の夜行性で、家族が寝静まった夜中に自分の胸に包丁をあてがった事もある。でも、死ぬ事は出来なかった。自分の胸を今から包丁が貫く事を想像すれば分かる通り、その時になって初めて怖くなり、学校に行かないと決めた日以来の涙が出たのだ。
それ以来自殺を試みた事はないが、代わりに手首や腕を切る自傷が止まらなくなった。小学校高学年から中学生になる頃までは毎日のように切っていて、高校生ぐらいからたまに切るくらいに落ち着いた。それでも、夏には半袖が着られないくらいに酷い跡が残っている。でも、そこに後悔はしていない。
生きづらいと感じるようになったのは、自殺をやめて、自傷を始めて暫くした頃だ。生きているのに生きていないような感覚。鼓動はしているのに呼吸はしていないような感覚に襲われた。まるで深海の底にいるような、酸素を求めて溺れ苦しむような感覚に襲われていた。
その原因が何なのか、なぜこんなに苦しいのか。ずっと考えていて、ある日その原因を見つけた。分かったのではなく、見つけたのだ。
自分が見つけた原因は、1人の女の子だった。それは学校にいた子でも、街中で出会った子でもない。自分の中に居たもう1人の自分。姿形は違うし、性別も性格も違う女の子。自分とは異なる存在が自身の中に居たのだ。
初めて会ったその子は泣いていた。なぜ泣いているのか尋ねると、その子は言った。
「私はこの世界に居てはいけない存在だから。私の居場所はどこにもないから」
その言葉に初めて心を動かされるという思いを知った気がした。共感も同調も出来ない自分が、初めて共感した言葉。その子の様子を見て、その子の言葉の裏を返せば、その子はこの世界に居たいのだ。この世界のどこかに居場所が欲しいのだと思った。それは、自分がずっと欲しかった物のようにも思えてしまった。
そして、その子の存在を認識して初めて分かった。なぜ自分がいじめられていたのか。
自分がいじめられていた理由。それはいじめられた子を助けて標的が変わったから。なぜ助けたのかは未だに分からないが、それをいじめっ子達は快くは思わなかったのだと思う。さらに、いじめっ子はいじめられていた子に言った。
「お前もこいつを殴ったら許してやる」
そうして自分に対してのいじめが始まったのだ。
その頃自分は女の子のような格好や可愛い物が好きで、女の子と話している事も多かったらしい。それもいじめっ子達の中では良くは思われなかったのだろう。自分は段々とクラスから浮いて、友達や話していた子達もいなくなった。
その原因でもある子が自分の中に居た。その事に嫌悪と憎悪がわき上がってきたが、それよりも、目の前で泣いているその子の事を考えてしまった。その子はずっと自分の中に居て、時たま顔を出していたはずの子だったのだ。それを自分は知っていながら、いない者のように忘れてしまっていた子。世界から取り残されて、忘れ去られた子。
今でもそうだが、自分は同情が好きではない。傷の舐め合いも好きではない。だけど、その子には同情してしまった。純粋に、素直に、その子の泣かない姿を見たいと思ってしまったから。
だから、自分は今もその子と生きている。1人の体に2人分の精神を抱えて生きている。どうしようもない、何の役にも立たない、何の希望もないまま生きている自分に、その子はいつも言う。
「君が生きていてくれればそれでいい」
それは自分の中の核のような物に触れて、ほんの少しだけ生きづらさを緩和してくれる。そのため自分はいつもこう言い聞かせている。1人じゃない。その子が一緒に居てくれる。だから1人じゃないんだと。
その子と一緒に生きてみようと思った日、彼女が言った事を思い出す。
「私はこの世界に、君と一緒に居てもいいの?」
その言葉を思い返しながら、自分は今もどうにか生き延びようとしている。あの頃の死の狂気に見せられていた自分はいない。でも、他の誰かが居てくれる事は今もない。
これは誰にでも当てはまる事ではないし、奇異な目で見られる事もあるかもしれない。この経験談を読んでいる人からもおかしな人と思われるかもしれない。嘘と思われるかもしれない。もしかしたら、自分は人間ではないのかもしれない。最後のは冗談としても、しかし、これは現実ではある。今も昔も自分の中で起きているたった1つの事実だ。
いつだって、人間は変わっている者を見つければ偏見や奇異な目で見る。信じたい物を信じ、信じたくない物は虚構というレッテルを貼る。それが自分の人生観であり価値観だ。
でも、そのうちの誰かが寄り添おうとしてくれるのも人間だと思う。
だから、その日が来るまで苦しむかもしれない。生きづらいのも変わらないかもしれない。人間不信な所も変わらない。
でも、少しだけ期待している。上から目線で悪いとは思うけれど、少しだけ人間という生物に期待している。
いつかこの生きづらさがなくなる日が来るのを。いつか自分のような存在が居ても当たり前になる日を。
いつか、救われる日が来るのを。
感想1
経験談を投稿いただき、ありがとうございます。
小学生のころから死にたい気持ちがあり、それを実行に移すために行動していたのですね。今いる場所から消えてしまいたいという気持ちが強かったのではないかと想像していました。
その後、自殺から自傷行為をするように変化していったということでした。投稿者さんのできる範囲での自殺の代償行為になっているのだろうと思い、それが手段なら、投稿者さんにとって必要なことなのだろうと考えています。
いじめられた原因が、いじめられていた子を助けたことや、女の子のようなものが好き、女の子とよく話していたからという分析でした。こういった内容でいじめられてしまうのはとても理不尽なことだと感じ、強い憤りを覚えました。
自分の好きなものは好きでよくて、話したい人と話すことは自由だと思うのですが、それが許されない社会(学校の中の話であっても、それは社会の縮図なのでは?という気がして書いています)なのかと思うと悲しくなります。投稿者さんのおっしゃるように、人は信じたくなかったり、自分と違うものを排除の対象にすることがあると思います。
それでも、今の社会、人間にあきらめを感じつつ、やっぱり少し期待しているということでした。その期待が今生きられている理由にもつながっているのではないかとちょっと考えてしまいました。
そして、投稿者さんご自身の中にいるもう一人の自分が、ほんとうのところを話してくれたのだなと思いました。「その子」の存在を通して、投稿者さんご自身のことを分かることができているのかなと感じます。ご自身の中にいるもう一人の自分は、投稿者さんの中に確かに存在していて、必要な存在なのかなと思っています。
その子がいればいつか救われる日が来るかもしれないと待つことにつながるなら、大切にしてほしいなと切に願っています。