経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分が、他人が、人間が、人生が分からない

何から書き出せばいいかわからないけれど、ここに吐き出せば楽になれるのでしょうか。
基本性善説の考えを持ちながらも生きているうちに自分自身にもそれ以外の人に対しても心の醜さを感じるようになってきました。

幼少期の頃は実父は離別。
片親で母親と姉と三人暮らし、母は後に再婚し義父も含め4人暮らし、数年後に義弟を授かりました。
義父と再婚するまでは姉が面倒を見、母親は放置状態だったため幼少期は好き勝手やっていたことだと思います。

母親は癇癪持ちで自分の意にそぐわないことをすると大声で怒鳴り、私の私物をことごとく壊し、
義父は常に母親の味方だったため少しでも抵抗しようとすると殴られたこともあります。
大学の進路を検討した際、親元を離れ好きなことを勉強したいとお願いをするも反対され地元の大学へしぶしぶ進学。

大学在学中は勉学に対して完全な興味を失ってしまったためサボりが増え、遊びに没頭。
留年を繰り返し、無駄にした学費や奨学金の返済のためバイトを掛け持ちして大学に長だらだらと在籍。
当然学業は上手くいくはずもなく妥協を重ねた結果在学中に運よく市役所の試験に合格し職員になりました。
それをきっかけに大学は中退。

それまでの間順風満帆に大学卒業や就職をしてきた同級生からも、
「常識が無い」「親の気持ちを考えろ」などと言われながら聞き流していた時期が数年続きました。
私の事情なんて知るはずもないのに勝手に上から目線。何のつもりなんだと怒りを覚えた日もたくさんありました。
その後就職を機に同級生は私に対して何も小言を言わなくなりました。
今では連絡も取っていません。

またこのような経緯も相まって母と義父は自分や姉よりも義父と血のつながりのあり従順な義弟を溺愛しており、
私と姉は実質的な勘当扱い。
出来損ないの烙印を押されたようなそんな気分でした。

しかし私は今でも「苦労せず進学させてもらっただけ幸せ」「遊んでいるのに仕事に就けているから運がいい」と他の人に比べてイージーモードの人生を送ってきたんじゃないかなと今でも思っています。

その後就職の際に共感できるパートナーを見つけ交際。
お互い親から束縛を受けた中だったのか意気が合い就職をきっかけに親元を離れパートナーと自立。
同棲を始めました。

しかし、役所仕事での縦社会や強固な仲間意識が肌に合わず我慢を重ねて仕事を続けるも就職1年後にうつ病を発症。
パートナーからの勧めもあり苦渋の決断で退職。
手に職が無ければ生活していけない中で、興味のある仕事に就職するため勉強を始め念願だった機械をいじる仕事に就くも知識の乏しさ、職場での人間関係のつらさについていけず2年ほどでうつ病を再発しました。
その後は転職を繰り返して病休の連続でした。

病休により収入も激減し貯金が底をつき生活できるお金を安定して得ることが出来なくなり生活のための借金がどんどん増える中、
パートナーは金銭的に支えることはほとんど無く、自立出来る能力も一人で何とか出来る能力も無くなり頼れる唯一の親族である地元を離れた姉に相談。
姉が困窮している中資金面で援助をした時期もあったことから生活力がなく精神障害者となってしまった今の自分を快く受け入れてくれ、
現在は姉の勧めでパートナーとの同棲を解消し姉家族から一時的な金銭援助として手持ちのローンの倍ほどの借り入れを受け施設に入居するまで新天地で姉家族と同居している状況です。

しかし同居を始めて一カ月もたたないうちに家族暮らしに耐性が無いことから生活スタイルが合わずストレスで散財。
一人きりになりたい気持ちから無いお金で無断外泊などを繰り返してしまい、姉家族らからは「頭がいいという自身の驕りから人を見下しているような態度」「このままだと追い出して一人でどうにかしながら今まで援助してきた借金も返してもらわなければならない」と追い詰められている状況です。
言われた言葉が図星のような気がしてしまい胸に刺さって離れない。

だけど一緒に生活して間もない社会人になった自分の苦しみの何を知っているんだ?
借りを返して逆に貸しを作っていることで悦に浸っているのか?
という怒りもあり複雑な心境。
毎日胸の中から得も言われぬ悪心を催しています。

いっそのこと何もかもを投げ出して逃げたい。死にたい気持ちはあるけど死ぬ瞬間が怖いから死ねない。
自分自身も含めて人間という生き物はどこまでも利己的で他人のことなど知ったことではないんだなと人間不信に陥っています。

それでも「自分はまだ恵まれてるんだ」「楽な人生なんだ」「運がいいんだ」と自分の中で無理矢理我慢して、納得して、言い聞かせているつもり。
だけど我慢できずに自由奔放にしている自分自身って生きる意味はあるのかな、必要とされているのかなと自問自答を繰り返している毎日です。

誰からも束縛されたくないという気持ち、我が儘なのかな。

逃げていいのかな。

自分自身は間違っているのかな。

自分は普通じゃないのかな。

自分の人生これでいいのかな。

これから自分はこの後今を諦めて死ぬのか、もしくはしがみついて生き続けるのかな。

結論の出ない答えを考えながら自立の準備をしている中、心の思うままを文章に書き起こしてみました。

感想1

タイトルにもあるように、自分を含めていろいろなことが分からなくなった中で、頭の中を書き出してみた率直な文章だと感じました。私が感じたのは、ようやく手に入れた自由の扱いに戸惑っているのかもしれないということです。
幼少期から子ども時代のあなたは大人の意向や事情に振り回され、自分の意思も気持ちも押さえ込んで、諦めてきたように感じました。ただ、諦めているとはいえ、あなた自身は自分の意思や感覚は強く、周囲に合わせたと言っても、心の深いところでは納得や諦めがつくわけではないため、長年、押さえ込むことで相当のダメージを蓄積していってもおかしくないと思いました。私は生きづらさを抱える人たちと関わってきて、自分らしさが強く、譲れない感性がある人ほど、大人から押さえつけられて子ども時代に苦労する場合があるように感じています。あなたには譲れない自分の存在があることが文章から伝わってきました。
「誰からも束縛されたくないという気持ち」については、とても真っ当であり、思いとして我がままではないと私は思います。子ども時代から、理不尽に束縛を受けてきたあなたにとって、その思いは更に強く渇望してもおかしくはないと思います。
ただ、一方で年齢が経ち、大人になると周囲からは自立や自制心など、大人として、社会人としてのわきまえのようなものを求められます。束縛されずに自分らしく生きたいという気持ちと自分の社会的な役割や他者との折り合いをつけることが必要になります。私はいろいろな人たちと関わってきて、子ども時代に気持ちや意向を尊重されることで、心の余裕(譲歩するためのストックのような心の貯金的なものだと思っています)ができて、いろいろな局面でバランスよく折り合いをつけることができるようになると思っています。しかし、子ども時代に理不尽に押さえつけられると心は借金でいっぱいになってしまい、そのままのパターンでひたすら周囲に合わせて自分を押さえ込み続けて、心身共に動けなくなってしまうか、もしくは巨大の心の負債がいつしか怒りや恨み、反発などに置き換わることもあるように感じています。(最初に書いてくれた、性善説のあなたが心の醜さを感じたり、悪心を抱くこともそれに関係するかもしれないと思っています)いずれにしても、私はその人のせいではなく、育ちの中で当たり前の権利を保障されなかった経験によって、心の収支を一方的に赤字になってしまっているがゆえのことであり、本人が責められることではないと思うのですが、社会的にはそれを理解されずに、一方的に周囲から責められることも多いように思います。
私はあなたの今の戸惑いはとてもまともであると思いますし、その戸惑いや葛藤はようやく自分を取り戻そうとしているからのものではないかと感じました。今は「今を諦めて死ぬのか、もしくはしがみついて生き続ける」の二極の選択のように思えるかもしれませんが、この戸惑いはあなたが今はイメージできないその中間を探そうとする旅の始まりなのではないかと思っています。そうはいっても、その間があるとはなかなか思えないかもしれません。ただ、あなたが書いた経験談を読み、私はあなたという存在の強さや自分として生きたいという気持ちを強く感じ、それを諦めたくないからこそこうして送ってくれたように思っています。この葛藤を1人で抱えることは苦しいと思いますので、もしよかったらまた心のままに記してください。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
性格的に自分の中の「納得できない」といった気持ちに素直な人で、かつ、親との関わりなどから「人なんて信用できない」感覚も積み重ねていった結果、人間社会に所属し折り合いをつけるのが難しくなっている現状なのかなとあなたのことを想像しました。
折り合いのつけられないとき、自分と相手どちらの言い分が正しいのか?間違っているのか?と考えてみても、そこに正解というものが存在するか自体私にはわかりません。でも、あなたにとって理解や納得のできないまま世界は否応なく回って、今があるのではないかと感じています。

「誰からも束縛されたくないという気持ち、我が儘なのかな」「逃げていいのかな」という言葉が経験談にあったのですが、私はその答えはNOでありYESでもあると思っています。(あくまで持論です)
束縛されたくないという気持ちは、私も思いますし、自由にやりたいという欲求は(強さの程度こそ違えど)人間共通のものな気がします。だから、もしみんなが思っているとするなら、それは特別に我儘というわけではないと思います。でも、誰かの自由は誰かにとっての不利益や不自由になることもあると考えると、自由にやりたい欲求をみんなが100%叶えることはできないので、100%を目的に行動するならそれは我儘となるような気もします。
逃げることについては、自分を理不尽に攻撃してくるものから逃げるのは、必要なことで大切なことだと私は思っています。理不尽かは置いておいても、もし何かイヤなことがあれば、逃げて大丈夫だと基本的には思います。でも私が生きてきて思うのは、どこまで環境を変えてもどこまで逃げても、自分自身から逃げることはできないということです。私はわりと自由に、イヤなことから逃げて生きてきたタイプだと思いますが(例えば学校がイヤで高校にすら行きませんでしたし、転職も随分しています)、最初に我慢して適応して後に爆発するという自分からは逃げることができていません。今はそんな自分でも、自分が苦しみすぎず、周りに迷惑をかけすぎないような生き方を試行錯誤中です。

つまり、人生はある程度束縛されるもので、逃げることができないものもあるが、「何に束縛されるのがまだマシなのか」「何からどういうタイミング・方法で逃げるか」を選ぶことはできるし、選んだ方が人生は多少豊かなものになるのかなと私は思っている感じです。
あなたは自由奔放に生きてきたと書いてありましたが、私はあなたの気持ちを表現する機会・自由はあまり尊重されてこなかったように感じました。だから時に極端に自由奔放な行動をしてしまうのかも?と思いましたし、それは「あなた自身の意思ではコントロールしきれないもの」だと感じているので、あなたがあなた自身に束縛されて生きているといえるのかなとも思いました。

そう考えたときに、死にトリで思うままに文章を書いてくれたことは、あなたが自分の自由奔放さを乗りこなす(自分も周りも困らないようにそれを発揮する)ための大きな第一歩なのかもしれないと私は感じています。
またよかったら書きに来てください。

お返事1

感想を二つ拝読いたしました。このような拙い文章を丁寧に読み取っていただいて本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

感想1について:
>私は生きづらさを抱える人たちと関わってきて、自分らしさが強く、譲れない感性がある人ほど、大人から押さえつけられて子ども時代に苦労する場合があるように感じています。あなたには譲れない自分の存在があることが文章から伝わってきました。

この一文を読んで自分の中での個性や感覚を重視する反面、周りの人を信用しすぎることが多くありその結果自分の個性や感覚を否定される結果になっているのが現状なのかなと納得しました。
幼少期から今まである程度奔放にしているんだと自分の中ではどこか無理矢理納得させている気持ちがありますがそれでも自分の気持ちを打ち明けられる状況ではないと腑に落ちずここに気持ちを書き出してみました。

>社会的にはそれを理解されずに、一方的に周囲から責められることも多いように思います。

やはり人は自他ともに表面的な部分しか見えずこのように気持ちを吐き出す場が無ければ一方的に責められるだけ、自分自身が「一般的な人間社会」に合わせようとしてもそれは上手くいかないこともあり結果だけを求めてしまうものなのかなと感じています。

>「今を諦めて死ぬのか、もしくはしがみついて生き続ける」の二極の選択のように思えるかもしれませんが、この戸惑いはあなたが今はイメージできないその中間を探そうとする旅の始まりなのではないかと思っています。

この一文も現在の自分の心の中を見てくださっているように感じました。
今の心の中はおっしゃる通り複雑な状態で「死にたい、だけど生きなきゃ、それでもどうしたら…」という複雑な気持ちの中、自分の中で一番折り合いがつけられる方法を模索しているようにも思えます。少しでも自分が納得しやすい方法が見つかるようになり一旦この旅に一区切りをつけることが出来ればと思っています。

感想2について:
>折り合いのつけられないとき、自分と相手どちらの言い分が正しいのか?間違っているのか?と考えてみても、そこに正解というものが存在するか自体私にはわかりません。でも、あなたにとって理解や納得のできないまま世界は否応なく回って、今があるのではないかと感じています。

>束縛されたくないという気持ちは、私も思いますし、自由にやりたいという欲求は(強さの程度こそ違えど)人間共通のものな気がします。だから、もしみんなが思っているとするなら、それは特別に我儘というわけではないと思います。でも、誰かの自由は誰かにとっての不利益や不自由になることもあると考えると、自由にやりたい欲求をみんなが100%叶えることはできないので、100%を目的に行動するならそれは我儘となるような気もします。

この二文を拝読してこれは自身への戒めと共に、私自身が相対している相手にも言えることなのかなと感じました。
人間誰しも完璧ではないですし何が正しいか誤りかは個々人の判断に委ねられたもの、その判断の多数決で社会は成り立っているのかな、でも自分自身で我慢しても妥協してもどこか納得できない所が多くそれが自身の中での理不尽感や心のもやもやを生んでいるようにも感じました。
しかしその中で自分の状況に納得してくれる人も少なからずいるのではと感じるのでそれを希望にして今の状況を考えてみたいと思いました。

>あなたは自由奔放に生きてきたと書いてありましたが、私はあなたの気持ちを表現する機会・自由はあまり尊重されてこなかったように感じました。だから時に極端に自由奔放な行動をしてしまうのかも?と思いましたし、それは「あなた自身の意思ではコントロールしきれないもの」だと感じているので、あなたがあなた自身に束縛されて生きているといえるのかなとも思いました。

自分で言うのも変な話かと思いますが、私自身が優先的に人の意見を尊重しすぎる事が多く、事が荒立った時に初めて主張をしても、もっともらしい正論を言い返された結果何も言い返すことが出来ず結局自分自身の本当の気持ちを心の奥底に引っ込めてしまう事が今現在まで起こっている状況だと感じています。
それが我慢しきれず極端なことをしてしまう節は実感しているので自分が自分に束縛されて生きているという言葉がとても腑に落ちたような気持ちになりました。
少しでも自分の気持ちを表現できる場所が見つかれば自分に対する束縛を少しずつ外せるのかなと感じています。

丁寧なご感想をいただき、改めて感謝申し上げます。

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