私は小学校五年生からずっと死にたい気持ちを抱えて二十代になりました。
何度も自殺の計画をしています。
でも、不安で心配でいろんなことを想定してしまう私には実行できず、今でも「誰にもバレない・誰にも迷惑をかけない・誰でも納得する」自殺を探しています。
死にたい理由・生きづらい理由を少し書き連ねます。少し過度な自虐がありますので、嫌いなら次の明確に開いた段落まで読み飛ばしてください。
両親に死にたいと打ち明けると「何でそんなことを言うのか」「何が足りないのか」と声をかけられるのですが、生きづらいからという理由以外答えられません。
自分で考えて行動しろと両親に言われ、正しいと分かっていますが間違っていたらどうしようと思って動けないのです。
また、そんなこともできないのか、分からないのか、と言われるのが嫌なんです。
拗らせた完璧主義なので、否定されると自分が愚かだと思ってしまいます。実際に愚かなのはわかっていますがそれでも生きている心地がしない。
そして生真面目、馬鹿真面目な性格なのですべてを正直に受けてしまうんです。
真面目の何が悪いの?と言われたことがありますが今の御時世真面目という言葉は生真面目で融通がきかない堅物という意味に過ぎないことを私は理解してしまいました。
私は生真面目で完璧主義で自己肯定感が薄くて自分から行動できない愚図です。
先のことを見ても過去のことを見ても死にたいのですから、現在を見ることしかできないのに周りは未来を見ろと押してくるのですから早く死んでこの重圧から解き放たれたい。
死ねば、両親にお金を使わせることもない。しかも、断りきれなくて優しくしすぎてしまう私に依存していた人は嫌でも私の依存を断ち切れる。いいことづくめです。
長々と書き連ねましたが、結論。何かきっかけが明確なわけではなく(一応あるのですが)、一番私が生きづらいと思ってしまう理由は自分の無価値感です。誰にもわからない、私だけが私をこの世で一番嫌っているんです。だから、消えてほしい。嫌いなものが視界に入っているこの状況が嫌なだけなんです。
こんな気持ちを抱えたままなぜずるずる生きているのか、それは周りにいる人の存在です。自殺計画を立てるときに「周りがどう思うか」を真剣に考えると、意外と生きてしまいます。
例えば、飛び降り自殺を図って成功したあとの人々の姿を想像します。飛び降りがあった建物は確実に価値が下がり、人が寄らなくなるでしょう。人が寄らなくなったせいで、その建物の所有者は激怒してしまう可能性があります。その激怒した人が自分の家族に押しかけることもあるでしょう。そうしたら迷惑をかけてしまう。そんな感じで少しだけ「考えすぎてみる」のが辛いですが生きていくことにつながるのです。
考えすぎて辛くなったら、頭の中で自分を殺します。仮に死ぬことで、その時の死にたい気持ちをやり過ごしています。頭の中で自分を死ぬことは、目に見えない自傷なんだと思います。痛みが自分の中に見えるようになると、なんとなく安心するのです。自傷の傷を誰かに見られるのが怖くて、私は一人頭の中で自分を殺します。本当に辛かったら、そうしてみてください。もしもあなたの死に方が明確に見えなかったら、きっとその時じゃないんです。少し踏みとどまるチャンスにしてみてください。
そして、一番私が乗り越えているのは明日が来るから眠りたくないという気持ちです。寝るのは好きなんです、唯一まっさらになれる時間だから。でも、寝たら明日が来るんですよ。寝て明日が来ないことを祈っても日は登ります。そんなときに、私は特定の時間を決めてギリギリまで眠らない。特定の時間が来たらすべての機器を断ち切って無理やり寝ていました。どうせ明日が来るのなら、私は少しでも引きずるおもりを減らす必要があるんだと考えました。
それでも情報が必要になってしまうほど不安だったら、少し妄想に逃げました。理想的な妄想ほど、自分を救うものはなかったのです。他社から嫌われる自分こそ一番自分を支えてくれることを学びました。
このような経由で、今私は希死念慮を抱きかかえたまま生きています。結論、希死念慮を抱きかかえたまま生きるには自分の心の中で自分を痛めつけたり、適度に妄想に逃げて幸せになることが大切だと言えると思います。これはずっと生きづらい私の経験ですが、10年以上これで耐えてきました。自傷は体に出なければ悪いことじゃありません。心の中の自傷という名前の精神をあえて落ち着かせるという行為を適度に活用して少しでも心の延命が続いてくれることを祈っています。
感想1
長い年月、自分の抱く希死念慮から目を背けることなく向き合ってきたのだろうと想像しながら読ませてもらいました。消えることは無い死にたさと、生き永らえる現実…その間で揺られ、葛藤しながらも、どことなくあなたなりの生き方(信念)があなたの中に存在しているような印象を私は抱いています。
完璧主義で生真面目というのは環境要因(どちらかというと後天的)でそうなったというよりかは生まれ持った性質が大きいでしょうか。「今の御時世真面目という言葉は生真面目で融通がきかない堅物という意味に過ぎないことを私は理解してしまいました。」という一文でも表現されているように、恐らく様々な場面で(特に人との関わり合いの中で)生きづらさを感じてきたでしょうし、それは他者からは見えづらいことも多く理解のされない感覚も、あなたの無価値観や自分を心底嫌う感情を強めているように感じました。自分でもどうすることもできない領域の生きづらさというのか…人よりもあらゆることに些細なことでも気づきやすく、うまく表現はできないのですが、そこに存在しているだけで傷ついてしまう、そんなイメージを抱きました。もし何をしていても傷ついてしまうことがデフォルトだとするのなら、誰かにいくら肯定されようと無価値観は覆らないかと思いますし、“他者から嫌われる自分こそ一番自分を支えてくれる”という感覚になるのも、あくまで想像でしかないのですが、非言語でのコミュニケーションはあなたにとって恐怖や不安の対象(分かりづらい上に相手の雰囲気等を感じ取りやすいため)だからこそ、自分の中に明確に存在している自己否定感に引き寄せることで自分の心を落ち着かせているところもあるのかもしれないと考えていました。(全然違っていたらすみません)
私も長いこと希死念慮を抱えていて、積極的に生きたいとは思えないですし、今は特に明確に死に向かって行動に移す動機がないのでただ毎日息をしているという状態ですが、生きるのも死ぬのも簡単じゃないな…と自分でも感じることですし、あなた含めて同じように念慮を抱える人たちの経験談を読んだりお話を聞くと、そう思います。自分の中に生じている相反するものの取り扱いをあなたはどことなく心得ているように思い、向かっている先が最終的に生きる方向に傾いていないにしても、あなたの中にある地力の強さを私は感じました。最後に書かれていた「心の中の自傷という名前の精神をあえて落ち着かせるという行為を適度に活用して少しでも心の延命が続いてくれることを祈っています。」という一文は、この文章を読んでいる人に向けられた言葉かもしれませんが私はあなたが自分自身に願っている言葉でもあるのではないかと思いました。
何だか自分でも何を伝えたいのか分からなくなってしまったのですが、あなたがこうして死にトリに経験談を送ろうと思ったきっかけや理由が気になっています。心の深い部分まで言葉にして表現するということは容易ではないですし、表現しきれない思いや考えもあるとは思いますが、私はまたあなたのお話を聞いて念慮を抱えながらの心の延命についてや自分を救うことについてなど考えを深めてみたいと思いました。
またいつでも死にトリが必要に感じられたら、参加してほしいです。お待ちしています。