私は、今まで、自分の人生の中で、
その場で出会う人に対して、
決して失礼のないように接する事を、
私なりに心がけてきました。
それが、私自身も幼い頃に、自分の心を大人たちに踏み躙られて生きてきた経験があるからです。
だから、どんな状況の人に対しても、
自分は生きるルールを守って、
絶対に相手を見下したりしないこと、
けれど、
今の私の周りにいる人々は
平気で底辺を這って歩く私の手を土足で踏んで行く、、、
何も言わずに、
私が、いったい何をしたというのですか?
私はしあわせになってはいけないのですか
もう疲れました。
消えてなくなりたいです。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。短くまとめられた文章の中から、静かな怒りと深い無力感を私は感じ取りました。幼い頃に経験したことが、心に深く刻まれている(それもきっと嫌な形で)のだろうと想像しながら、自分に関わってきた大人たちを反面教師として自分の中でルールを築き上げてきたのだと思います。それだけ過去の経験があなたを傷つけ、そして自分はそうはならないように、関わる相手が自分と同じ思いをしないようにという気持ちが強固なもの(あなたの中の信念として)になっていたのではないかと私は感じます。ただ、そのルールがある種自分(と相手)を守るためのものだったはずが、今はかえって自分が苦しくなってしまう要因の一つになっているのかもしれないなと思いました。なんとなく、ルールが自分だけではなく相手も「こうあるべき」(「こうあってほしい」という願いが込められていたり…)であるはずといったような思いがあなたの中にあって、周りにそこを踏みにじってきたり、軽んじている人が多いことでひどく絶望的な気持ちになってしまうこともあるのではないでしょうか。(全然見当違いなことを言ってしまっていたらすみません)過去の傷つけられ方と同じようなことを繰り返されるのはたまったものじゃないと私は思いますが、人は必ずしも自分と同じ感覚を共有できたり理解し合えるとは限らず、そこで生じている相手(双方)の背景までは残念ながら想像し合えないことも多いなと感じていて、擦り合わせの難しさというのか、噛み合わない中で抱く自分の感情の取り扱いに苦悩してしまうものだなとあなたの経験談を読んで、改めて痛感していました。
あなたにとって“しあわせ”とはどのような状態を指すのだろうと考えを巡らせながら、もしかすると心の平穏…これ以上誰にも邪魔(表現が適切ではないかもですが…)されることなく過ごしたいという思いも込められたりしているのかな…なんてことも考えていました。そう容易なことではないかもしれませんが、「生きるルール」はその時々に合わせて自分が辛く、苦しくならないように更新していっていいのではないかなと私は思います。可能なのであれば自分の心が乱されてしまうような人とは少しでも距離を置くというのもありかもしれません。もしまた、死にトリが必要に感じられたらいつでも繋がってほしいと思っています。