皆さんはどうして生きているんですか
結局はみんなひとりぼっちなわけで、その淋しさを紛らわすために友達や恋人を作っては、その名前のついた関係に安心して、絶対に裏切らないよと約束した訳でもないのに自己満足で傲慢な意見に溺れて自分が見えなくなっていく。
周りの意見に合わせて
自分を塞ぎ込んでいくうちに
本当の自分が分からなくなって
他人に求められる自分が
本当の自分なんじゃないかと錯覚をして
ネガティブな意見がとめどなく溢れて
涙を流して
血を流して
迫り来る朝を拒んでも
明日は来てしまう
家族から自分の存在を真っ向から否定されるのって、想像以上に苦しいんです。
もう何に対して苛立ちを覚えているのかも、
何が悲しくて零れた涙なのかも、
わからなくて、
愛想笑いももう引きつって、
ただ他人に迷惑はかけないように、
こんな私でも、
私なりに、
生きてきたんです。
どこで道を間違えたのか、
あの時あの瞬間どう歩めば良かったのか、
そんな後悔ばかりが胸を汚染して自分の首を絞めて
結局は私の事なんて
誰も見ていないし
私も
完全に信頼しきった目で他人を見ることなんて
できないし
いままでは
こんなことなんてなかったのに
私は
おかしくなってしまったのかも
しれない
ごめんなさい
14歳 夏
感想1
「結局は私の事なんて 誰も見ていないし」という文から孤独を感じ、続く「私も 完全に信頼しきった目で他人を見ることなんて できないし」に、もっと強い孤独を感じました。
一行目の問いかけを考えるように、自分の話をさせてもらいます。
私は早くに家族バラバラに住むことになり、進学就職で海を越えました。そのうえ私は他人との境界線がくっきりはっきりしているので、希薄な繋がりを頼りに生きています。今は、飼い猫の幸せな猫生を守るために生きていると感じています。
私はある時までひとりぼっちに怯えていましたが、なぜだかすっかりそれを恐れなくなりました。
人との境界線があいまいだけど 人を信用できないこと
人との境界線がはっきりしているけれど 人を信用できること
よくわからない日々のなかで、自覚もなく変わっていた私ですが、「境界線と信用」、この2つが関係していると思うし、この違いはとても重要だと感じたのです。また、人を信じるということは、とても勇気がいることだと思っていましたが、ひとりを恐れなくなったとき、同時に人を信じることができるようになったのです。それはたぶん、自分のことを信用できるようになったからだと思います。人を信じること、その振る舞いは、自分を信じることと表裏一体であるように感じています。
身近な存在に自分の存在を否定されるなかで、自分を信用することも、後悔を止めることも、簡単ではないと思いますが、今日のように言葉にすることで、気持ちに向き合ったり、手放したり、他人の気持ちに線を引いたり…そんな作用があったのではないかなと思いました。