経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

赤い蜜と黒い蜜

自分勝手でわがままな文で読みにくいかもしれませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。(長文)
私の思い聞いてください。
私は、体は女性ですが心は男性です。なお、完璧主義者です。違和感を感じ始めたのは、中学生に入ってからです。
【私の感じた違和感】
私の行く中学校では、席が男子、女子で一列ずつ分かれています。それがすごく嫌でした。しかも、全校集会で集まるときも分かれていて嫌だった。体育も分かれてやるとは、思っていなかったので驚いてた記憶があります。制服の採寸も、嫌だった。女子、男子分かれてさ。自分から女子のところに行くのが辛かった。
本当はリボンも嫌だった。けど、着けるしかなかった。苦しかったと思う。今は、ネクタイOKだからネクタイつけてます。ブレザーも皆に気づかれないように男子のを着ています。(バレたら怖いです)
今は、成長する時期なので体の変化が大きいです。胸があるのが、苦しいです。制服を着るとそれが、目立つから学校も行きたくないです。お風呂で鏡を見ないようにしてます。
一年生は、先生とか親とかにも相談してなかったので相当苦しかった。なんでこれまで、こんな違和感を覚えなかったのだろうと思い返してみると、昔からこの違和感には気づいていたのではないかと思います。
【昔のことを改めて考えみた】
小学生の時の私は、無邪気でいつも笑っていました。友達も多くすごく楽しかったです。でも、友達は男子が多かったです。別に男子は男子の友達を作らなければならない、女子は女子の友達を作らなければならないとか関係なく、心理的に同性の方が友達になりやすいとかはあるらしいです。男子とばかり遊んでて、今思えば男子の方が接しやすかったんだと思います。話題とか色々。けど、どんどん男子は男子で。女子は女子で。固まっていって、そこで自分が男子に話しかけたらおかしいよアイツ。とか言われるんじゃないのかなと思う。それが怖いです。でも、友達に男子が多いからって今の時代別におかしなことではないはずだと、自分は信じてます。
もう一個、自分でも言いずらい恥ずかしいことがあるのですがここで、話します。
小学六年生ごろです。自分が買ったズボンにひも?みたいなものがついていてそれをよく、シャツの襟に括り付けて、ネクタイみたいにしていました。それで、よく学校に行っていました。ネクタイに憧れてたんでしょうね。
自分勝手な妄想ですが、ネクタイって男性がつけるイメージがあるので、その時の私は、少しでも男性に近づけようという意識なく無意識でやっていたのかもしれません。
【今、苦しい事】
今は、二年生になり先生とも解決方法とかを話し合っています。少しは楽になれたのかなと思ったら、全然そんなことはなかったです。もっと辛くなっていました。敏感になったって言ったらいいのかな?些細なことでも嫌になりました。自分の体が前よりも嫌になってきました。学校に行きたいです。でも行きたくない。でも無理矢理行ってやる!と思いながら一学期を終わらせました。二学期が始まる時に「死にたい、死んだら楽じゃないのか?、もうあんな思いをしなくてもいいのでは?」という気持ちが芽生えました。
今は、学校を休んでいます。死にたくて死にたくて仕方がないからです。学校に行っても、女子扱いされ、結局は苦しむ。そして、自分は女性なんだということに、何回も何回も気づかされ苦しむ。容姿でも笑われます。
髪の毛だって、近くにいる男子のようにしたら自分もなった気分になるんです、私は。(おかしな話ですね)
だったら、服装だってレディスとかじゃなくて、サイズが合わなくてもいいからメンズの服を着たいです。
もっと、シャツとか着たいし。容姿のおかげで一人の先生には私は、男性だと思われているようです。
だから、呼ぶときも○○君と呼んでくれます。私に、とったら嬉しい限りです!でも、皆の前でそれがあると凄く笑われます。それが、嫌です。君と呼んでくれるのは嬉しいのですが、皆に笑われるのが嫌です。
だから発表はあまりできません。(馬鹿にされた気分)
一人称今は、「私」にしてますが、本当は「僕」とか「俺」とか言いたいです。女性は、「私」だけ使うイメージがあるのがいやです。僕はね~とか、俺はさ~。とかも言いたいです。私の友達に一人いるんです。(女の子です)すごく尊敬します!男性は「僕」「俺」に捉われずに僕ね~。って言うんです。かっこいいです。でも、その友達はすごく気味悪がられています。酷いですね。少しいじめられています。それでも、私はそんなの気にせずに接します!私のいる学年は、性別に価値観とられてる人が多いです。だから、生活しづらい。
最初にいったように、私は、完璧主義者なんです。そんな自分が嫌です。サイトとか見て「完璧主義者やめるには?」と調べて実践しても何も変わらない。テストは常に完璧を目指す、なんでも完璧を目指す。
主張作文の発表で自分なりに「完璧」について考えたものを、読んだらみんなに笑われました。
悲しいです、認められなかった気がして。
お母さんも嫌です。私のこと理解してくれているのか。私は、性別に捉われるのは嫌とは言っているのに。
男子って子供よね~とか 女子は頑固な子多いよとか性別で差別してきます。
分かった気どりするのはやめてほしいです。
【これからのことについて】
本当に私は、恵まれているなって思います。死ニトリを見ててもそうですが、私よりもっとつらい人が居るのに
恵まれている私がこんなこと思っていいのかと。(ご飯も毎日食べられる、好きなものを買ってくれる)
今は、夢や目標はないです。別に高校行けなくてもいいやって思ってます。私は、絵が好きなので不登校中に絵を沢山描いて、漫画家になりたいです。できるかは、分かりませんが。
もう、嫌です。さっき書いたのは少し残った未来の希望です。できるなら、今死にたい。でも、怖い自分がどこかにいる。戦っているんです。どこにいても死ぬこと考えてます。ベランダを見たとき「ここから飛び降りたら楽になるのかなって。」とか洗い物を手伝っているとき「この包丁で大動脈を切り裂いたらいいのかな」とか。
思います。夜は特に気が沈んで重くなります頭が。
私は、今何も変えられないから苦しんでいるんだと思います。
なにか、少しでも変えれたらいいのにな。今も苦しい。
ずば抜けている趣味もないし、勉強もそこそこだし。こんな自分に未来はあるのかなって思います。なくても、いいから自分に今、できることをしたいって考えてます。
べつに学校行かなくてもいい、べつに死にたいと思っていもいい、べつに明日に絶望してもいい、べつに今を楽しんでもいい、べつに誰かに相談してもいい。とりあえず今、したいってことを大切にしていきたいです。
最後に「僕」って言わしてください。
「僕」は「僕」でありたい。誰にもとらわれないいつもの「僕」でありたい。

長文お読みいただき誠にありがとうございました。共感してくれる人が一人でもいてくれたら嬉しいです。

感想1

経験談、最後まで読ませてもらいました。苦しいさなかで、自分の事を見つめながら、自分の思いを見つけるようにして書いていらっしゃるような印象を持ちました。小見出しを付けて書いてくれていたので、私も小見出し毎に感想を書いてみました。よかったら読んでみてください。

【私の感じた違和感】について
身体の成長と共に男女での立ち振る舞いが求められるようになる中で、違和感がはっきりしてきたのですね。心身も目まぐるしく変化する時期にあって戸惑うことも多いと思います。自分のそういう時代を思い出しながら読みました。苦しかったなと思い出します。
私自身は自分がどういう性別を生きたいか、どのような服を来て、どのような人と付き合い、どのような振る舞いをするかは、自分で決めていいことですし、多数と同じではないことは何らおかしいことではないと思っています。あなたの文章を読んで、あらためて学校という空間は画一的で生きにくい場所だなと思いました。

【昔のことを改めて考えみた】について
私自身はいわゆるシスジェンダーよりだと思いますが、身体は女性で心は男性の友人も何人かいて、長い間仲良くしている親友もそういう女性です。私にとって性別がどうかはあまり関係がありません。誰と付き合おうが誰を好きになろうがそんなことは自由だと私も思います。
私も社会的に求められる立ち振る舞いや求められる服を着るのがとてもとても嫌で、それで苦労をする時があります。学生時代はあまりそれに自覚が無く、社会に出てからそうなりました。違和感に気がつくタイミングはそれぞれですが、いずれにせよ自分がどういう性的指向があるかも含めて、自分の事に気がついていくことやこうして言葉にしていく事は大切なことだと文章を読んで改めて思いました。ネクタイも分かりますよ。ほほえましく読みました。

【今、苦しい事】について
今は学校をエスケープしているのですね。それもまた大事なことだと私は思います。
学校という空間があまりにも画一的に人間性を求めてくるし在り方を規定してくる場所なのでそれに抵抗することは全然悪いことではないと私は思います。自分のありたい姿であることは人にどうこう言われる筋合いはないですし、堂々としていていいことです。むしろ学校側が変わる必要があるのだと思っています。自分を責める必要はありませんよ。
私は社会人ですが、一人称の話は分かるなーと思いました。社会に出てからでもこの人の自分の呼び方いいなーとか、こういう佇まいいいなと思う事はよくありますし、いろんな在り方があっていいと思います。自分が自分の感覚でいいと思う事を信じて、自分は密かに実践して(「自分は気にせず接しています」など)いることがいいなと思いました。
完璧主義についても、自分で自分の傾向を分かろうとし書いたこと、何も恥じることはありません。それはとても大切な事だと思います。

【これからのことについて】について
死にたいという気持ちが湧いてきたり、一方で好きな絵を目標にしてみたり、いろんな思いが毎日やってくるのだろうなと思いました。あなたがいうようにそれでいいのだと私も思います。人間の細胞は毎日入れ替わっています。そして全ての細胞が半年くらいで入れ替わります。半年後にはまったく違う自分ですし、毎日毎日違う自分なんです。どんな自分であれ命は生きようと動いています。そのあなたであることは素晴らしいことだと思いました。
変わりゆく自分のまま、違和感も含めて、自分を育てたり、邪魔したりするいろんな手触りを感じながらも伸び行こうとする心と身体を感じながら生きていきたいと私自身も感じました。書いてくれてありがとうございました。同じ時代、一緒に生きて生きましょうね。

感想2

投稿ありがとうございます。
私は、女性ジェンダーには抵抗のあるシス女性で、仲のいいFtMの友達がいます。だからあなたの違和感や苦しみに、とてもうんうんと頷きながら経験談を読みました。
あなたの苦しみを完全にわかるとは勿論言い切れないですが、世の中の性別が「女」「男」の2種類であると扱われがちなことや、女性ジェンダーを押しつけられることには、自分事としてもやもやしているので、仲間だと言いたい気持ちでいます。

これはFtMの友達も言っていたことで、私自身も時折苦しむことなのですが、【今、苦しい事】に書かれていた「自分は女性なんだということに、何回も何回も気づかされ苦しむ」が苦しみのキーワードである気がしています。
自分がきちんと(自分の思う)自分として見られたいことは、人間に共通する自然な願いだと私は思っています。例えば、性格の話でいえば自由でマイペースなのに真面目だと扱われたりとか、状況の話でいえば大変な状況にあるのに気楽に生きてると扱われたりとか、表現の話でいえば派手な服が好きなのに地味な服を強制されたりとか、そういうのは自分が日々削られるような感覚になることだと私は思います。
私の場合は幸運なことに、性別規範を押しつけてくる人が身近にはおらず、さらに幸運なことに身体も顔も中性的で、女性であることを「気づかされる」ことがほとんどないため、それほど苦痛なく生きられています。ただ、私は装いに関して利便性と感覚過敏の問題から、ロングヘア・(レディースの)ゆるいシルエットの服を着ています。だから付き合いの浅い人&相手に性別規範のある場合、女性扱いされることがありますし、一度ナンパされたときには死にたくなりました。(あなたに比べると、贅沢で気軽な悩みだと思いますし、こんな話を出すのも筋違いだったら申し訳ないです…)

だから女性として「扱われる」「気づかされる」機会が少ないほど、あなたは少しこの世界で呼吸がしやすくなるのではないか?とは思います。
そう考えると、学校という場はまだまだ女子・男子で分けるシステムが強いですし、同年代の子たちも(悪意はないでしょうが)性別らしさに意識が向きやすく、まだ身体を変える手術をする選択肢もなく、理解のない親と離れる手段も少ない今は、あなたにとって一番苦しい時期といえるかもしれません。

あなたは「とりあえず今、したいってことを大切にしていきたいです」と書いていましたが、私もそれに賛成です。私は高校に行かず、学校よりも自分らしくいられるところを渡り歩いて、結果それでなんとか生きてこれたので、進路も自由に選んでいいと心から思います。
誰にも、何にもとらわれない生き方を私はしたいですし、一人称「私」をつかっても、ロングヘアでも、女でも男でもなく自分として扱われる世界で生きたいです。だからあなたの声を届けてもらえたのは、私にとっては勝手に勇気や希望をもらった気持ちでした。そして、少しでもそういった世の中になるように、(余裕や力を多少なりとも持っている大人の私は)自分のやれることをしていかなくてはと改めて思いました。
もしまた機会があれば、死にトリに声を届けてくれるのをお待ちしていますね。

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