経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

思いやりと相手の内側を見る努力をしよう

無職です。

経歴は警備を契約社員で4年、工場勤務を正社員で20日です。

経歴の話の前に書き込み時の私というのは、その道を行く人のように好きではないですが、占いやスピリチュアル、哲学を読み、表では良いも悪いも受け入れる愛に溢れる世界になれば良いのにと平和を願っていますが、それは理性が発達したに過ぎず、過去の心の傷を癒せてはおらず、自分の心の奥というのは一度だって人間を許していない、理性的な考えでここはこうするべきだという人としての正しさに生き、外ではそれが自分であるかのように振る舞っていますが、本心の私とは本気で世界の破滅を願っています。

いくら言葉や姿勢でこれがあるべき理想だと言って見せても、わからない人にはわからない、恵まれた環境で育ち毎日高級フレンチが当たり前の人に、スーパーの安物が食べれるだけで涙が出る、幸せを感じられる人のことなんてわからないんです。

だからそういう人には身を持って痛い目に遭ってもらう、全部を失うとかそれまで当たり前と思っていたことが崩壊すれば、自分が人に何をして傷付けたか、あの時のあの人は何に悩み苦しんでいたのか、ということがよくわかるだろうという意味での破滅です。

いくら頭が賢い人が聞いたところでそれは表面的な浅い理解であり、自身も地獄を見ないと他人の地獄なんてわからないというのが私の考えです。

前置きが長くなりましたが、今までの私というのは現在も含めて4回心が死にかけています。

2回目は中学3年の時ですが、本件と全く関係ないので書きません。

1回目は中学の頃で上級生に脅されたり、同級生に笑いの為に嘘をつかれたり、盗まれたりして、人間不信、人間嫌悪になっていました。

その後は不登校の人たちが通う施設へ行き、そういう人たちが通う学校へ転校しました。

また人を信じようかと思っていた頃、そういう人たちにも嘘をつかれました。

その人たちが卒業して新学期に新しく人が15人くらい増えましたが、既にコミュニティができており、みんな優しかったり趣味が合っても入りにくい、私の方が新参者みたいでどこかよそよそしくなるというのが辛く、別室登校をして卒業しました。

高校の頃は不登校の人向けの学校で、自信があるなら全日制と同じ、無理なら週4日以下でも良いという学校に通いました。

その頃は普通の学生に憧れており、弱みを見せたくないという思いで、理想と異なる人、間違っている人を注意するのですが、言い方が不安を煽るものであったり、内心そういう人を見て安心していたりと、今思うと自覚なく大勢の人を傷付けていただろうなと思います。

自分でやっておいて言うのも変ですが、今時の社会というのは少し間違えただけで烈火の如く批判していますが、ものすごく窮屈です。

善意で言ったことであれ、人として正しいことであれ、それが相手を崖から突き落とす凶器になり得ることも自覚しないで、正しいのだから正しいことを言って何が悪い?とロボットみたいな思考の人ばかりで悲しいです。

生まれた時は皆純粋な赤ちゃんなように、最初から悪い人というのはおらず、また間違えたくて間違える人もいないんです。

今時の人は間違えた人が何を思ってそれをやるに至ったかという内側を見ようともしないで、ただその行いは許されないって外側だけで軽蔑する人ばかりで正直うんざりです。

脱線しましたが、大学はプログラマーになりたいと思い、そういうことをメインで学べる学校に行きました。

3年連続特待生になったりと表では良かったですが、実は才能がなく努力で結果を出したタイプ故に、毎日課題に追われ過労でまともに休めない、ゲームとか息抜きもできないことからどうしても好きにはなれず、どこか課題や仕事と割り切った見方をしていました。

本来大学4年というのは自ら応用的なことを学び、それを卒論や就活でアピールするのですが、私は特待生で天狗になっていたこと、それ以上学ぶことを苦に感じてやる気になれず、卒論は卒業間近でかろうじて認められましたが、就活は全て落ちました。

これが心が死にそうになった3回目で自殺未遂もしています。

正社員やプログラマーとか理想でなくても、とにかくやれそうなことをやろうということで、人とあまり関わらない、満員電車に乗らないという理由で警備員として働きました。

仕事自体はできるのですが、一番のベテランの人が嫌で、自分やおじさん、女の子のミスは笑って済ませる、同じミスでも私のような若い男にはものすごく怒るという扱いの差が目立ちました。

入社3ヶ月ほど経ち、一番のベテランの人とシフトが多く被る月で、私はズル休みをしてでも行きたくないと思いましたが足が勝手に現場に向かう日々でした。

もう辞めたいと思いましたが、ダメ元でシフトを作っている人にベテランの人と被らないようにして欲しいと頼んだら了承してくれて、ビクビクしながらもその後も働いていました。

入社3年目頃は若い人の比率が高くなり、教わる側から教える側になっていきました。

私は一番のベテランの人みたいに、ミスやわからない質問に対して、怒鳴ったり、そんなこともわからないのか!?とトラウマを植え付ける突き放すようなことはしないと決めましたが、これがいけなかったのか、私の方が歳も歴も上で私から挨拶しても返してくれない(他の人には大きな声で返している)、ミスを指摘しても直らない、忘れたのかと思って再度指摘しても直さない(他の人の言うことは従う)、という皆が私には何しても許されると舐めた姿勢で接しているようで居心地が悪くなりました。

正社員というだけで必要最低限の業務しかせずに稼いでいる、結果安月給の私にばかり負担が行く、ベテランだから女の子だからというだけでわがままが何でも通る、私ら若い男は月の休みが4日だったり8連勤の中、ベテランや女の子は9日以上休みがあったり、私が8連勤中はみんながどこかしら休みがあったりという、いくら頑張っても利己的が過ぎる人が得をしている現場、それを許している会社にうんざりしました。

大晦日やお正月は一度も休みになったことはなく、せめて毎年休んでいる人がいつもありがとうね、と言ってくれればまだ良かったですが、みんな休めるのは当たり前という考えで感謝とは無縁の世界なんです。

女の子に旅行行って来ました、そういえば男の人って旅行行ったって話聞かないですけど興味ないんでしょうか?と言われて、内心シフト見ればわかるだろ!鈍感でも腹立つぞ!と初めて女性に手を出したくなったこともありました。

恵まれた環境の人にはそれが当たり前と思っているので、悪意がなくてもそれを言ったら相手が傷付くということがわからないんです。

そういうやること成すこと全部裏目に出た感じで、同僚を見るだけで、名前を聞くだけで、現場にいるだけでものすごく怒りが込み上げ、吐き気や頭痛で気持ち悪くなり、今年の3月いっぱいで辞めました。

ちょうど4年の勤務でした。

4月からは工場の正社員で働きました。

やりたいからではないですが、これを選んだ理由は2つあり、1つは元は変化を嫌うタイプですぐ別の警備を考えてしまうので、自分の成長の為、あえて自分が行かなそうなところにしようと未経験のところを選んだというのと、

もう1つは警備の仕事では真面目にやる人がバカみたいに思う経験が多かったので、そうではないだろうという理由であえて厳しそうな工場に行きました。

ただ想像以上に厳しいというか、心が脆いのを忘れていたというか、教育担当の人にできないことを怒鳴られるだけならまだしも、できないことを聞いても教えてもらえないことがあって、自分だって何もできない初心者の頃があっただろうに、何でそんなことやろうって発想になれるんだと本気で嫌になりました。

すみません、これについてこれで合っていますか?
→ホワイトボード見たならわかるでしょ
→見たんですけど、自信が無くて確認して欲しいのですが
→だから見た?見ればわかるって

このようなやり取りを何度か繰り返し、肯定しないということは間違えているのかなと思い、もう一度ホワイトボードを見て、メモ帳を見て、頭をフル回転させて考えたんですけど、やっぱり同じ答えになるもので、
→すみません、もう一度見たんですけど、これがこういうことでやっぱりこういうことですよね?
→だ〜か〜ら〜見た?
という無限ループになり、怒りはしても最後まで教えてもらえず、結局教育担当ではない人に教えてもらって、これから毎回これをしないといけないのか…と心が折れました。

いくら頭では嫌なことを嫌で終わらせず、何がダメだったか、次にどう活かすかが大事とポジティブな考えが浮かんでも、気付いた時には身体に力が入らず、どうしようもないくらい心が傷付いていました。

結局20日で退職しました。

その後生きるヒントがあるかなと思い、冒頭の占いやスピリチュアル、哲学を読んでいましたが、いくらありがたい教えを聞いていわゆる悟りに近づいたとしても、理性ばかりが成長するだけで、傷付いた心には何も響いていないんです。

いくら頭では許せば良い、受け入れれば良いという理想がわかっていても、心は人間を許していないんです。

中学の頃非力な私に好き勝手した人たち。

今までなるべく私情を出さず、調和を乱さず限界まで尽くした、その姿勢を見せることでほんの少しでも周りの人も他人に気を遣えるようになって欲しい、お互いがお互いをフォローし合う温かい職場になって欲しいと思いましたが、じゃあ僕私何にもしなくて良いやと理想と180度違う方向へ行く人たち。

50歳手前なら相手を見るという大人の対応ができると期待したら、教えないという自分しか見えていない5歳児の対応をする人。

このような過去の傷は未だに癒えておらず、今度理不尽に傷付くようなら、相手と同じ土俵に降りてでも目の前の快楽の為に全てを捨てる選択をする自分が容易に想像できます。

占い師もなぜ占いを受けるかって、自分や身内では解決できないから藁にもすがる思いで赤の他人にお金を払ってまでお願いしているのに、全部あなたの自己責任でしょう?と、寄り添うどころか突き放す人もいて、力があるから、正しいから、相手に同意を得たからって何言っても良いのか?と善意で言ったことが相手を崖から突き落とす凶器になり得ることをまるでわかっていない、気付いた時にはこんなはずじゃなかったととんでもない業を背負っていることを自覚していないなと憐れみを感じました。

以上が私の経歴になります。

最後にあるアニメ(舞台)のお話で、元は純粋に人間に尽くしていた人が、色々な人間を見て醜さを思い知らされて闇堕ちするお話がありまして。

主人公はその人に最後まで手を差し伸べるのですが、その人は拒絶し最期は殺されるもので、なぜ拒絶したのか今は気持ちがよくわかります。

多分主人公は良い人だし、自分のことをわかってくれそうと感じてはいても、本気で人を信じられない自分は変えられず、また元の自分の願いというのもわからなくなっていて、本意ではないけどもういっそのこと殺してくれという意味で拒絶したのだと思います。

最近の私も自分がわからず、人に何を求めているのかわからなくなってきています。

感想1

あなたの中の「こうあるべき/こうあってほしい」という理想や願いや期待と、あなた自身の感じることや傷ついてきた経験から起きる心の中の反応にあるギャップがあること、そしてその中でのあなたの心の揺れ動きを感じました。
世の中に暴力や搾取、権力の勾配の中でのあまたの侵害があり、その中に数えきれない苦しみがありますが、その構造に目を向けない人に対して私は暴力的な感情になり、そしてそんな自分に対して苦痛を感じることがあります。あなたが他者を許していないことと同じだと一緒くたにしたいとは思わないのですが、あなたが破滅を願う気持ちを書いていて、それに近い思いを抱くことがあるな、と思いながら読みました。
一方では、私が正しいと思ってしまうことにどれだけの見逃しがあるか、目を向けられていないことがあるか…と考えると、それも普遍性のないことのようにも感じていて、私の願いであることは確かでも、それが人間存在全般に対して正しいことだと言えるわけではないとも感じたりしています。

「自身も地獄を見ないと他人の地獄なんてわからない」ということについても、よく考えます。そうなのかもしれないとも思ってしまいつつ、一方では、それらは言葉や作品などの力で広げることもできる(部分がある)とも思っています。
全く同じ経験をしたわけではなくても、他の人の言葉や、時には架空の物語によって苦痛を知ったことがあります。私自身が無知であることによって無自覚に行ってきた(今もしている)構造的な加害行為がたくさんあることを自覚した一つのきっかけも、そういう他者の語りや物語やドキュメンタリーなどの表象でした。
ただそれが実際に身に起こった「地獄」とはやはり異なるということも事実だとも思います。また、そういう表象の受け取り方も人により大きく異なりますし、向き不向きもありそうなので、普遍的なことではないとも思います。ただ、ないのとは大きく違う、やり方の一つでもあると思っています。

文章から、あなたが自分自身のあり方を探り、他者と関わりながらそれを自分なりに考え続け、アップデートし続けて生きてきたことを感じました。その中であなたは「人間とは」「女性とは」「この年代の人なら」という類型化をしながら、そのパターンを理解しようと努めてきたのかなぁと想像しています。ただ実際には例外も多くて、その中でこれまでの類推からイメージしてきたことと食い違う対応をされることも結構あったのかなと思いました。
私は非言語的なやり取りで他者の気持ちや考えを想像するのが苦手なほうで、そのため、言語によって他者とすり合わせをして、違う部分をなるべく表明しあい、理解しあいながら関わりたいという気持ちがあります。でも社会に生活する比較的多くの人は、そういうことをやらずに他者と関わることに慣れているように見えます。それは私が発達障害の診断をされていて、行動様式が多数派と異なるから、よりすり合わせを必要とするということもあるのかもしれません。また、自分の思っていることや感じていることを言葉にするのが得意な人も不得意な人もいるのもたしかなので、これもまた、一つのやり方だけでは難しいのも事実ではありそうです。
ただ、あなたの文章を読んでいると「なんでそんなことに?」「どうしてそうするんだ」という疑問がたくさんあることを感じました。それなのに、環境の中では、それを気軽にかわせるようなコミュニケーションがあまりなく、結果的にわからないままあなた自身の中で想像で片付けるしかない機会がとても多かったのだろうと想像しています。もし、それが他者と対話の中で、言葉で確かめられていたら、あなたの苦しさも少しは違ったのかなと思いました。(私の経験から想像で書いてみましたが、違っていたらすみません。)

最後の一文については、私自身もいつも感じていることにとても近いと思いました。私は私のことがわからないし、他者のこともあまりよくわからないと思います。その中で、私自身は自分にも他人にもすごく興味があって、「なんでこう考えるんだろう?」「どういう思考回路があるんだろう?」「まずなにを感じたのだろう…?」みたいな疑問を自分にも他者にも向けています。それは人に聞いてわかることもあれば、聞いてもその人自身もわからないこともあるし、私もだれかも適切な言葉を知らないこともあるし、そもそも聞くことのできないこともたくさんあります。一度分かったと思っても、また別の視点や問いが出てくることの連続で、きっと、どれだけ聞いても完全に解決することのないものだとも思います。

あなたの文章を読んで、自分の感覚に似ていると感じる部分もあれば、自分自身があまり考えたことがないと思うこともありました。このように、あなた自身の認識や感覚を言葉にして教えてもらえることは、私が他者を知り、他者とともに生きるこの社会をどうにか少しでもマシにしていくことを考え続けるために、とてもありがたいです。だからって私の力はとても小さく、なにかを劇的に変えるようなものではないと思いますが、また考えていくための力をもらっているように思いました。(勝手にすみません。)
あなたにとって死にトリに活用できる面がありそうだったら、またよければアクセスしてほしいです。投稿してくれてありがとうございました。

感想2

タイトルの「思いやりと相手の内側を見る努力をしよう」が自分自身への宣言なのか、それとも世の中の人たちに向かって「そうしよう」と呼びかけたものなのか、どちらなのだろう、両方なのかもしれないと感じました。経験談を読んだ限りの想像ではありますが、あなたの脳が感じたり、考えたり、とても忙しく機能している様子が伝わってきて、これだけいろいろなことに気づき、感じることや考えることがいつもあるとしたら、とても疲れてしまいそうだろうし、適度に受け流したり、やり過ごすこともとても難しいことだろうと思いました。この社会では決められたことを決められた範囲で継続してできることが求められることが多く、また周囲の人と協調することもとても重要視される傾向にあると思います。いろいろなことが気になったり、物事を感じたり考えたりすると、いわゆる一般的な社会の枠のようなものへの違和感が溜まり、学校や働く場にいることが難しい現実があるのだろうと思いました。あなたが書いてくれた学校時代や就職先でのエピソードを読んで、今の社会に余力や柔軟性や創造性が少なくなり、いろいろな人が安心して過ごすことが難しい現実をみた気がしました。
あなたの経験談の全体の趣旨についてはうまく読み取れた自信はないのですが、ところどころ、「なるほど、それはわかる」と感じた文章がありました。
まず、前置きにあった頭がよく賢い人でも経験しないことは本当の意味では理解できないというところです。まったく分からないとは言い切れないのですが、人は経験に基づいて理解するので、経験していないことへの理解はとても難しいし、しばしば浅くなるようには思います。そもそも、自分以外のことを理解することはある意味、できないのではないかと思うのですが、私としては完全に理解することは難しいけれど、できる限り理解しようとすることはできると思ってます。もっとも怖いのは「わかると思い込む」「理解できると過信する」ことなのかなと思います。経験していないことは分からないけれど、私の経験上、経験した人の声に耳を傾ける(本気で聴く)ことは想像と理解には有効です。おそらく、経験することの幅が今はとても狭くなっていると思いますし、社会の格差は広がっているので、経験しないし、聞いたこともない、そもそも知らないことも全体的に増えているように思います。
次に、「最初から悪い人というのはおらず、また間違えたくて間違える人もいないんです。」というところから、「間違えた人が何を思ってそれをやるに至ったかという内側を見ようともしないで、ただその行いは許されないって外側だけで軽蔑する人ばかり」というところです。私も性善説をかなり強く信じていて、周囲から批判されたり、ダメ出しをされるようなことは、何かしらの背景や理由があるので、表面的なところだけで判断してはいけないと思っています。あなたは「内側」と表現していますが、私はどちらかというと「背景」と表現したいです。なぜなら、人はその人だけの単独の存在ではなく、人とつながり、相互作用で存在するからです。例えば、仕事ができない人がいたとしても、その人の能力や理解の問題だけではなく、どんな人と一緒にどのような環境で働いているかによってパフォーマンスは異なるわけで、その人自身の内面だけの要因ではなく、周囲の理解や協力、相互作用がとても重要だと思うのです。いずれにしても、結果だけで物事を安易に評価したり、判断するのはおかしいことだろうと思います。それと同じロジックで、私はあなたが言うところの「外側だけで軽蔑する人」の背景を知りたいと思いますし、理解したいと思います。そんなふうにしか人を見られない状況になっているのはどうしてなのか?それを理解することが大切なのではないかと思っています。
他にもあなたにとって理解できない人たちがたくさん登場しますが、そうした人たちがそうなってしまう理由を考えています。こうして書いていて自分には理解できないような人を理解しようと思うことはわりとできるなぁと思いながら、実際に目の前に現れて、酷いことを言われたり、されたりすると理解しようとする気持ちは吹っ飛んでしまうこともたくさんあります。いろいろな人たちが、お互いを理解しあったり、できるだけ不公平や不平等が無いような社会で生きたいと私は改めて思いました。そして、それはとても難しいことなのだろうとも思います。でも、こうして「何が大切なのか」「どうしたらいいのか」と対話することには意味があるように思いました。

お返事1

私の経験を読んでいただいてありがとうございます。

タイトルは私自身への戒めの言葉でもあります。

いくら直感が冴えてるからって外側だけでそれがその人全てと見なしたり、一方的に被害者面して、理解したり歩み寄ることを怠ってしまった私も反省しなきゃなと思いました。

また、単に正論を言えば良いという話とも限らず、どうすれば良いか?と助けを求めているようで、本人も自覚なく、ただ現状の自分を認めて欲しい、話を聞いて欲しいというのもあるのだなと思い、悩み相談で一般人だとこういう方法があります!と真正面からのアドバイスをしたり、カウンセラーだと今は休まれては?って言ったりして、

一般人の答えは一見求めている要求に応えているようで実はそうでもないとか、カウンセラーの答えは質問に答えられないことをオブラートに包んでいるのもありますが、実は相談者の求めている要求はわかっているとか、一概にこれをすれば良いと言えるものはないですが、それぞれ思うところがあってその発言をしているのであって、多角的な視野で考えると一見冷たい対応もその人なりの愛だなって理解できるようになってきました。

それでも嫌なことや嫌なんですけどね(笑)。

いつもプライドを優先して傷付くことを恐れて、相手を深く理解しようと話さなかったので、今度はどう思われようと言いたいことを言おう!、言って相手が歩み寄る気がないなら、それはそれでどう付き合えば良いか道が見えてくるので。

ただし言うべきことを言うのであって、悪口とか言わなくても良いことまでは言わないように気を付けないといけないですね。

相手が間違っていることを指摘する際も、間違えた相手の背景を知る努力も忘れず、ただ指摘するだけでなく一言慰めの言葉もあると良いかもしれないですね。

言葉足らずだと注意するのを怒るとかパワハラと思われかねないですからね。

私もそれを気にして後輩に強くものを言えず舐められたのですが、必要なことならズバッと言って最後に一言添えるというのも一つの方法だなと思いました。

最近生き物の数だけ正義があるということを思い知らされ、私自身も考えることがありました。

例えるなら弱肉強食の世界のお魚や猛獣に、感謝を忘れない人間として生きろ!と言ったところで、こいつは何を言っているんだ?ってなるのは当然のことなんですよね。

単に決まりを守らない人を注意したり、それを許したら秩序が著しく乱れると思ったこと以外は基本的に争わない姿勢で、気を遣えるようになって欲しいという私の価値観を力や圧で押し付けないようにしていたつもりが、無意識では自分色ではない人たちに勝手に失望していたんですよね。

今思うと優しいようでエゴの極みですよね。

本当の愛とは闇を光に変えることではなく、闇も受け入れることだなと思いました。

闇も個性だし、闇から見た光はおそらく光から見た闇同然だろうし、どうしても合わなければ近寄らなければ良いのであって、存在することは認めるという考えになりました。

最後の文で自分がわからないと書きましたが、わからなくて良いのかなと思いました。

今まで身体や環境、経験や知恵という外的要因で成り立ったものを自分と言っているのであって、元の自分は何者でもないんです。

急にスピリチュアルの話で申し訳ないですが、これをある人に話したら、

あなた(私)の達した境地は正しい、でも今あなたは人間として生きている。

もし自ら望んでこの時代に人間として生まれて、今世限りで自分という存在が消えるとしたらどうしたい?

また、還るべき場所があるとして、自分が生まれるのを見送った存在に何を報告したい?

と聞かれて吹っ切れました。

今まではどうせ死んだら何もなくなるから無意味って考えで何もやる気が出なかったのですが、

もうこれで終わりなら思いっきり人間を楽しもう!、無意味上等!、おバカで何が悪い!って考えで今まで全く関心がないことにも前向きになれました。

表では後世への引き継ぎということで、困っている人やこれからの人たちに、私の経験、価値観をそれとなく伝えて、あとは自由意志に任せる、

裏ではそう考えるのが楽だからとか向いているからって、自己犠牲を美学と思わない、

私が私らしく生きて幸せになることかなと思いました。

少し前までは何も感じない真っ白な私が前面に出ていましたが、今はエゴだと理解した上でやりたいことをやろう!と人間であることを受け入れた、人間として生きる私になれました。

あとは毎日過ごせることやご縁に感謝しています。

昔は嫌いだった人たちにもありがとうとさようならを伝えて心のモヤモヤがなくなりました。

途中からぶっ飛んだことを書いてしまいましたが、元々これからの社会に活かして欲しくて私は経験談を送ったので、お役に立てるなら大いに利用してください!

ついでに何かの勧誘のつもりではないですが、皆さんも人間を受け入れられると心が軽くなりますよ。

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