経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

青春って何?

私は今高校2年生で、親はどの大学目指しても良いと言ってくれています。
ですが、どの大学を目指せば良いのか分からないし、英検とか受けなきゃいけないし、期末テストの点数とか友達と比べてしまったり、自分は勉強が出来ないから良い大学に行けないだろうなー、こんな私、生きてる意味ないんじゃない?社会に貢献できない。とか思ったりして、いつも死にたいと思ってしまいます。
オープンキャンパスに行くことさえ辛いです。
親は、あんたはすごい恵まれてるんだから死にたいとか言うな、とか、大学行きたくても行けない人もいるんだよ?とか言ってきます。
だけど、私は辛いです。
甘えてると思うけど、やっぱり辛いし、死にたいです。
世の中の人のほとんどは、高校生は良い〜とか、青春!!とか言って高校生を美化しているけど、現実は全然良くないです。
大人はみんなこの壁を乗り越えて、今があるんだろうけど、私は乗り越えられそうもないです…。

感想1

投稿者さんの文章を読んでいて、一番想像したこと(感覚)は、「枠組み」や「イメージ」にあてはめられてしまう(自分もそこに当てはまらないといけないように感じさせられる)ことの苦しさを感じているのかな…ということでした。
たとえば、「青春っていいものだよね」というイメージが先行して、その中にあるしんどさが見えにくくなってしまう構図、たしかにあるなあと思います(私自身、第三者が他人(の行動やようす)を「青春」と形容するのを聞くたびに、一方的な響きを感じてちょっと気が引けてしまうタイプです…)。「青春」以外にも、「目標を決めて大学を選ぶ」や「学力や能力を持って社会に貢献する」とか、いろんな「こうあるべき」が世の中にあふれていると感じますし、実際にそのイメージやレールから外れた人を淘汰するような風潮が強い場所も、残念ながら、少なからずあると思います。

一方で、最後の文章にあった「みんな壁を乗り越えているんだろうけど」という部分を読んで、自分は全然そんなことは無いと思っているけれど、それでもなんとか大人をやっているよ、とお節介ながらも伝えてみたくなりました。
抽象的な表現になってしまいますが、前述のような「~べき」論は、どれもこれも上下軸でしか語られないようなイメージがあります(偏差値や能力、貢献度など…)。仮に上下しかないとするならば、たしかに壁は一直線に乗り越えるしかないのかもしれません。ですが、本当は壁を壊したり、隙間を通り抜けたりしている人もいるし、未だに自分なりの穴を開けようともがいている大人も、実はたくさんいます。
投稿者さんの周りにいる大人(先生や親など)はそういったやり方を積極的に勧めてこないかもしれないし、なんなら止められてしまうのかもしれないとも思うのですが…投稿者さんが今まさに苦しんでいる場所に、「こんなやり方もあったりするよ!」と声をかけたい気持ちです。私は、恵まれていたって辛いものはつらいし、やり方は一つな訳ない、と思っています。なので、一緒にあれこれ悩むような気持ちで、感想を書いてみました。
「こうあるべき」に押しつぶされそうなとき、辛いとき、どんなときでもいいので、良かったらまた書きに来ていただけたら…と思います。投稿ありがとうございました。

感想2

「青春って何?」というタイトルを見た時に、確かになんだろう?とすぐに考え始める私がいました。大学受験という節目のイベントに際して、投稿者さんがとても強いプレッシャーを感じていること、本当は良い大学(と呼ばれる、偏差値の高い学校)に行きたいけど、今の点数では手が届かなさそうだと不安な気持ちになったり、嫌気がさしたりしている状況を想像しました。
そもそも、大人の私が昔を振り返ると、小学校では集団行動の基礎(空気を読む)を、中学校では年齢による上下関係と男女の間のはっきりした線引きを学び、高校では生徒会というシステムを通して「選挙は人気がある人が選ばれて、何か変えたいことがあってもどうせ何も変わらない」という不条理さを学ぶ場所でした。
 ちなみにですが、現在の大学進学率って聞いたことありますか?高校を卒業する人のだいたい半数が大学に行くようです。そう考えると、大学に行くだけが人生じゃないし、大学を出ていないからといって「社会に貢献できない」とは限らないのかな?と私は思います。
そもそも、「社会に貢献」とは具体的に何をすることなのでしょうか、そんな立派な大人って本当にいるんでしょうか?

感想3

経験談の投稿をありがとうございます。
自分の将来の方向性を考えるときに、勉強ができるかどうか、大学に行くかどうか、社会に貢献できるかどうかが、尺度や判断材料になってしまうこの世の中に「なんだかなぁ…」と思いつつ、パソコンに向かっています。
学生のときは、勉強ができるかどうか、検定や資格試験を受けているかどうか、部活やバイトをしているかどうか、なんてことも、いろんな尺度や判断材料になるような気がします。そして大人になってからは、仕事をしているかどうか、資格を持っているかどうか、収入があるかどうか、みたいなことが、いろんな尺度や判断材料になるように思います。
私は一般的には「大人」と言われる年齢で、仕事をして、収入を得て、「大人っぽい」社会生活を送っているのだと思いますが、なにかのタイミングでこういった尺度、判断基準で人を、私を、測られることに、どうしても違和感を持ってしまいます。この違和感を「壁」とするなら、私は「壁」と一緒に歩き続けているのだと思います。どおりで疲れるわけだと気が付きましたが、私の「壁」は、最早私の一部であるようにも思いました。
つらかったり、わからなかったり、自分に価値が無いように思ったりする感覚を、「べつによくない?」ってできたら、私の「壁」は少し薄く、低くなるような気がしますが…。投稿者さんの「壁」のカタチはどんな風なのか、聞いてみたいと思いますし、「壁を乗り越えない方法」を考えてみたいと思いました。

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