経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「承認」欲求と自己嫌悪のはざまで

 私には、2つの矛盾した心の動きが常に同居しているように思います。1つは、「つらかったことを認めて欲しかった」という一種の「承認」欲求、もう1つはそうした欲求を嫌悪し、軽蔑する気持ちです。
 1つ目は、おそらく小中高時代の経験が関係しているのではないかと思います。「つらかったことを認めてもらえない」という経験です。
 私は地方の過疎地域の生まれで、小中高と地元の学校に通いました。少子化でクラス替えもできないので、十数年同じメンツと過ごしました。それゆえ、学校での閉鎖的で過密で、陰湿な人間関係と歴代の担任によるパワハラに悩みました。中学まで、同級生から「ブス、チビ、デブ」と言われる、文房具への落書きや破損は日常でした。小学校時代の担任は毎日のように朝から下校まで叱責し、怒鳴り、教室から追い出された生徒も少なくありませんでした。しかし、助けを求めることは出来ませんでした。担任に怒られるという恐怖に頭が支配され、「大人に相談したら報復される」と考えていたからです(実際、担任はそのようなことをほのめかしていました)。
 このように、人間関係の入れ替わりがないことの一番の弊害は、全員の感覚が麻痺することだと思います。クラスや先輩・後輩間でのいじめが常態化し、それらを見て見ぬふりしパワハラをする教師に対して「まあこんなものだ」と考えてしまうのです。一種の自己防衛なのでしょうか。そうすると、弱音を吐いたり不登校になったりする人に「繊細」「あなたが過敏なだけ」と評価を下すようになります。私に対しての評価がそうだったのです。ストレスで体調を崩したり、部活を休みがちになったりした私は「特別過敏なだけ」なのだそうです(部活内でもいじめがあり、試合中のハイタッチ無視などは当たり前でした)。
 大学に進学し、一気に人間関係が変わりました。周囲の小中時代のエピソードを聞くと、自分の置かれていた環境がいかに異常であったかを痛感しました。それと同時に「それ、やばいね」「大変だったね」と言われるたびに、どこか救われた気持ちになるのです。地元では「あなたが繊細で過敏なだけ」としか言われなかったのに、「大変だね」と言ってくれる人がいる、そこに安堵を感じるとともに、一種の中毒性を感じました。「つらかったことをわかってもらえた」「つらいと感じていいのだ」と思える快楽です。そして私はこの快楽の中毒になっている気がします。冒頭で書いたもう1つの心の動きである、自己嫌悪とはこの快楽に依存する自分に対するものです。
 学校では常に大人の顔色をうかがっていたせいか、物事の判断基準が常に他人基準です。他者から「あなたは苦しんでいい、つらいと思っていい」と「承認」してもらわないと自分は苦しんではいけないと思ってしまいます。前述のとおり、学校での人間関係には悩みましたが、壮絶ないじめ(「いじめ」という言葉は嫌いですが、便宜上使用します。いじめなどではなく犯罪だという認知が普及することを願います)を受けたわけではありません。クラス内にはシカトや菌扱い、上履き隠し、特定の男子を女子トイレに閉じ込めて「変態」扱いする、などのもっと露骨ないじめがあったからです。
 それに、私は恵まれた家庭環境のもとで育ったと思っています。何もなかったわけではありませんが、相対的に見て非常に恵まれた家庭だと思います。ただ、しんどい気持ちになっているのも事実です。自己中心的な祖母と精神疾患のある父親の激しい口論には心がすり減りました。家庭で唯一の稼ぎ手である母親は仕事に出ていたため、私はそうした大喧嘩や、クレームの電話を入れて怒鳴る父親の姿を1人で見ることになりました。父には貯金箱からお金を盗まれたこともあり、小学2年生ながらショックを受けました(つい先日も、私の口座から無断でお金を盗みました。父には浪費癖とアルコール依存があり、障害年金も使い果たすので携帯料金の支払いができず、私の貯金に手を出したそうです)。あの悲しみで指先が冷える感覚は何度経験しても慣れません。
 とはいえ、虐待はなかったし毒親だとも思いません。高校時代の海外研修や大学進学は全力で応援してくれました。母は中学の人間関係についてずっと話を聞いてくれました。これ以上の特権があるのでしょうか、そう思うのです。
 お気づきかと思いますが、このように私には、過去のつらかった経験を詳細に記述する(「わかってほしい」という欲求なのだと思います)一方で、相対的に自分は恵まれた環境で育ち、特権を享受してきた立場であるのだから自分がつらいと思うなんておこがましい、傲慢だという自己嫌悪が共存しています。
 日々、見るニュースや体験談を見聞きするたびに、自分の特権性を痛感します。その一方で「承認」を求める気持ちが抑えられず、SNSで怒涛の勢いで書き込みをしてしまったり、友人にネガティブな話をしてしまったりします。そして後悔し、嫌悪するのです。コミュニケーションを放棄し、「承認」を押し付けるような傲慢な自分が許せません。SNSのフォロワーや友人は、私を「承認」するためだけに存在しているのではないのに、どこか「〇〇さんならわかってもらえるのではないか」という傲りがあるのだと思います。承認欲求が暴走した後、「またやってしまった、嫌われたかもしれない」と、後悔や罪悪感、不安、孤独感に苛まれます。
 このような、「承認」欲求と自己嫌悪のはざまで、日々自分を嫌いになりつづけています。最近では親友と思っていた友人からのLINEがなく、もう見限られたのではないかと思っています。実際、友人とは社会人と大学生という立場の違いから、あらゆる感覚が共有できなくなってきたように感じていました(社会人になってから友人も精神的に余裕がなく、LINEの返信頻度は落ちていましたが今回は3か月以上音沙汰なしなので不安なのです)。最後に会った時の友人からの恋愛相談に、恋愛・性愛への抵抗感が強く、コンプレックスを抱える私はうまく答えられなかったのかもしれません。ネット恋愛にはまり、そこで出来た彼氏からデートDVを受け、疲労していた彼女が心配で、彼女にとっては否定的な言葉をかけてしまったかもしれません。いつまでも過去に囚われ、ネガティブな友人より、ネットで出会ったより価値観の近い仲間を優先するのは当然でしょう。思い込み、考えすぎかもしれませんが、自分のコミュニケーションに自信がないため、どんどん悪い方向へ考えてしまいます。
 それゆえに特に最近は孤独感が強く、誰からも必要とされていないように感じます。でもそれは自分の振る舞いが原因なのだ、とも思います。母に相談したところ、考えすぎだといわれましたが、不安で、孤独で、仕方ありません。すべては自分が悪いのだ、傲慢な自分が、関係性維持の努力を怠った自分が悪いのだ、ともう1人の自分が責めてきます。「消えてしまいたい」毎日そう考えています。どうしたらよいのか、わかりません。謝罪のLINEをして、しつこいと余計に嫌われてしまうのではという気もします。

 とりとめのない文章ですが、吐きださせていただきました。承認欲求の滲んだ文章で嫌気がさします。でもこれが今の私なのだと認めるために、このまま投稿いたします。

感想1

投稿ありがとうございます。

割と都心に近い環境で生まれ育ち、大人になってからいわゆる「地方の過疎地域」に移り住んで、その生活環境(の違い)を様々な人からうかがってきた私としては、あなたの経験を大変興味深く読ませていただきました。
読みながら、高校進学とともに地元を離れる人が「やっと…」と解放される喜びを私の前で見せたことや、あなたのように「クラス替えもできない」「人間関係の入れ替わりがない」「閉鎖的で過密」な環境で苦しんだ人同士で「わかる…」と分かち合っていたことなどが思い出され、それこそ「大変だったね」と私も声をかけてきたなと振り返りました。その大変な実態をここまで具体的に、かつ本質的な問題として書いた上で、あなたの苦しさが確かに表現されているところにあなたの力を私としては感じています。風(第三者)が通らない集団にいることの苦しさや、「一番の弊害」とあなたが指摘する(まさに!と思いました)同質性の高い集団に長くいることで「全員の感覚がマヒする」(そのことにすら気づかないこともある)恐ろしさは「地方の過疎地域」の学校(のすべてがそうとは思いませんが)の話にとどまらず、あらゆる組織・集団・地域など、いたるところに当てはまる話だと私は思っている(感じてきた)ので、その意味ではあなたの経験談は大変勉強になるな…と感じながら、繰り返し目を通しました。

そんな風に感じながらも(あなたは私に勉強させてくれるために書いているわけではないのであって、と内省しつつ)あなたの経験は相当苦しかっただろうな…と思うため、「自己防衛」抜きにはやり過ごせなかっただろうと想像しています。だからこそ、防衛しなくても大丈夫だと思える場に身を置くことができたことで、そこでかけられる言葉に「安堵」を感じるのだろうと思いますし、それがもはや「中毒」の領域に位置づけられることになったのではないかなと思います。それはとても自然な感覚なように私としては思いますが、あなたがそのことに「自己嫌悪」を抱くのは、自身に厳しいまなざしを向けているためなのかなと想像しています。それはひょっとすると、先ほど書いたあなたの「力」ゆえのまなざしのような気もしつつ、「厳しいまなざし」が培われたのは、大学環境を除いたこれまでの「環境」によってなのかなと私としては感じるのですが、どうでしょうか。というのも、これまでの学校や家庭環境は、あなたにとって「「苦しんでいい、つらいと思っていい」と「承認」してもらえない」環境であったのかなと思ったためです。特に、あなたが学校について「壮絶ないじめを受けたわけではありません」としており、家庭環境についても「恵まれた」としているところからは、「承認してもらえない」中であなたが生き抜こうとしてきた痕跡のようなものが見られる気が私はしていました。私からすれば(突きつけてしまうような言い方に怖さを覚えながらですが…)あなたは壮絶ないじめを受けてきたように見えますし、家庭においても安心して生きる権利を侵害されてきたのではないかなと思っています。「承認」されない環境にい続けてきたことで、苦しかったはずのそれらの事実が「承認」されず、その蓄積が今もあなたがあなたに「承認」することを許さない厳しいまなざしへとつながっていったのかなと考えました。

そうした厳しいまなざしを強固にしているひとつに「特権」という概念がありそうですが、確かに「大学進学」や「海外研修」に行けることなどは、行けない人からすると「特権」があると位置づけられるのだろうと思います。ただ、私は「特権」という概念は広く多様なものなのかなと感じていて、ひとり一人に「特権」がある部分とそうでない部分とが混ざりあっているのかと考えています。また、「特権」というのは「気づかない・考えないでいられること」や「アクセスがしやすいこと」と私は考えてきた(学んできた)ので、そう考えると、あなたはたとえば「パワハラ」や「いじめではなく犯罪」など、様々なことに気づかないと生きていけなかったのではないかと私には思えましたし、うまく進む人も多くいる人間関係が(人間関係に安心してアクセスできる人もいる中で)考えても考えてもなぜかうまく進まないという経験をしているー母親に「考えすぎ」だと言われるほどにーように見えました。そうだとすると、あなたが「特権」だらけで生きているわけではないように思えますし、「特権性」を振りかざして誰かを傷つけたりしているわけでもないように思います。そもそもあなたの言う「特権」があなたをしばりつけるのは、社会にそれだけ格差や不公正が溢れているということでもあると私は思ったので、「すべて自分が悪い」と責める「もう1人の自分」に、そんなことないと思うという声を届けたいと思ってしまいました。

最近私は「こどもの頃に得られなかったものを大人になって今得ようとする反動が起こっている」と話す人と出会いました。冗談めいて話していましたが、その話を聞いて、人には多かれ少なかれそういう部分があってもおかしくないのではないかなと感じていたところでした。それで言うと、あなたが今「孤独感」を抱き、誰かに必要とされたいと感じているのは、抑圧的な環境で得られなかった感覚を今になって求めているということでもあるのかなとも考えました。得られなかったものをすべて得られるというわけでは残念ながらありませんが、せめてそれを求めている自分がいることは(厳しいまなざしを一度横に置いて)認めてもいいのかもしれないと私は思います。そうすることを「甘え」かのように捉える社会の雰囲気も確かにある気がしますが(それは上記の格差や不公正が溢れる社会だからだと私は思います)そんな社会はおかしいと思うということを最後に書いておきたいと思いました。もしよければまた書きに来てください。

感想2

タイトルにあった「承認欲求」と「自己嫌悪」という言葉を手がかりに、これまで・そして現在、投稿者さんの心の内に渦巻いている感情、ご自身に対して向けられているまなざしを、どうにかイメージしたい…と思いながら、投稿してくださった文章・言葉の1つ1つを何度も読み返しました。
そんな中で、「自分」という存在や、「自分」がどう感じたか、ということに対して、ありのままで素直に受け入れることが出来ない(内省せざるを得なかったり、時に厳しく批判的なまなざしを向ける)というところが、どこか自分と重なるような気がして、感想を書いてみたいと思いました。

この経験談を書いてくださった時は、閉塞的な地元から抜け出し、一歩引いたところから自分のこれまでを眺めたことで、少しずつ経験や感情を言葉にして、整理しようとしている段階だったのかな…と想像しました。渦中では気づいていなかったり、あるいは意図的に蓋をしていたであろう感情を、1つずつ取り出して、前後関係と共に洗い出すようなイメージです。それはある意味で、自分自身が味わってきたつらさを、自分で認め直すような作業でもあるのかもしれない、と感じました。

一方で、そういった自分のつらさを「認める」という事に対して、とても高いハードルがあるのかなとも感じました。それが、書いてくださっていた「他者から承認されないと苦しんではいけないと思う」という部分に繋がるのかな…とイメージしています。そこにはいじめ(私もこの表現は適切でないと思っているのですが、便宜上使います)が深く影響していそうだと感じました。自分自身に対する価値観を歪ませたり、へし折ったりするところは、いじめのもっとも許しがたい側面の1つであると、個人的には思っています。

特に印象的だったのは、辛さを認められたときに生じた感情に対して「中毒性」「快楽」という言葉を選んでいたところです。(個人的には、その表現自体も、またそう感じること自体も悪いことだとは思わないのですが)投稿者さんの中に根深く自罰的な感情があるように感じると同時に、その感情こそが、タイトルにもあったような「はざま」にいる投稿者さんの苦しみの核なのかな…とも感じました。
幼少期の狭い世界から出て、承認を得る機会もあり、また自身の出自を「恵まれていた」と感じながらも、どうしても自分が感じる安心感をそのまま享受することが難しい…というような状態は、客観的に聞いていると、環境に依るところが多分にあると思うのですが、私がイメージした投稿者さんの姿は、それ以上に自分で自分を批判・嫌悪しているように見えたのです。

加えて「承認」欲求というと、一般的にはあまり良いニュアンスで使われていないイメージがあります。しかし客観的に考えてみると、「誰かに存在を認めてほしい」「ありのままの感情を受け入れてほしい」と感じるのはとても自然なことだと思いました。誰しもが持っていておかしくない感情でありながら、それを「求めている」となると批判的に扱われてしまう(自分がその欲求を持つことに対しても、良くないことだと感じてしまう)のかな…と推測するとともに、自分や他人、感情や痛みを「認める(承認する)」って、なんなのだろう…とも考えました。
私なりに、投稿者さんの経験も織り交ぜながら考えてみたところ、「評価せず、否定せず、変形させずそのまま存在させておくこと」という仮説が立ちました。積極的に肯定(褒めたり、明確な共感を示したりする等)するのとも違い、ただそのままであることに介入しない、というようなイメージです(考えながら書いているので、表現や内容にはもっと検討の余地があると思いますし、身の危険があるとか、そういったイレギュラーな場合も山ほどあるのだろうと想像しつつ…)。
この仮説をふまえて考えてみると、ますます「認められたい」という欲求は自然なものな気がします。というより、本来は大前提として、誰しもがそう扱われるべきなのでは…とすら感じます。
しかし正解がない、ともすれば良くないものとされがちな欲求であることは確かだと思うので、だからこそ投稿者さんの思う「承認」はどんなものなのか、求めている「承認」はどんな形なのか、一緒に話してみたくなりました。

読ませていただいて、いろいろと感じること、思うことがもっとたくさんあるのですが、上手く言葉にならずもどかしい思いでいます…。
自分自身の感情を、そのままで打ち明ける機会が、投稿者さんの心を少しでも解きほぐせる部分がもしあれば、また投稿しに来てくださったら、と思っています。投稿ありがとうございました。

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