経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自己肯定感がゼロすぎる

これマジでもう自慢でもなんでもなくてむしろこのせいで辛いみたいなとこあるなと思っているんですけど、私は世の中の正解をわりと知っているような気がするんです。
例えば人は自己肯定感を上げるプロセスとして「他者との関わり」をよく選択します。その輪の中で自分のできることをして、人々に言葉でしっかり認めてもらうことで自分の存在価値を確定的なものにしているんだろうな、とか。
他人に恋するためにはまず自分に対して「人を好きになってもいい」「人を好きになっても、相手は迷惑に思わない」というレベルの認識を持つ必要があります。その程度の低いハードルはみんなとっくの昔に飛び越えてるから、人はしっかり恋をします。
わかってるんです。じゃあ自己肯定感を上げて自分を好きになるために、人の輪に入っていって自分にできることを精一杯やって認めて貰えば私の問題はきっと解決します。というか現にバイト先の先輩に「仕事が早い」って褒めてもらって、個別塾講師のバイトなので塾長から「厄介な生徒相手でも堪え性がある」だの「よく辞めなかったね(お前が言うんか)」だの言われたのめっっっちゃ嬉しかった!!あれは忘れられない喜び!!!なんですけど、かなり取り返しのつかないところまで来ているので、たぶんお世辞だな…とか人足りないから辞めて欲しくないんだろうな…という思いがのちのちじわじわ来て、認められた!という喜びがあんまり長続きしなくて。そうやって自分で自分のこと追い詰めてないで、もらった言葉は素直に受け取っておけばいいのにって思うんですけど、まあセルフツッコミ入れてる時点で叶わないんですよね。
ここで気づきたくないことに気づいてしまいます。褒め言葉を素直に受け入れられないなら、どうやって自己肯定感を上げて自分を愛して他人を愛することができるんだろう?って。人はこうやって自己肯定感上げてんだろうな、という方程式に自分を当てはめることができなかったので、私はもうどうしようもないという気持ちになっています。

ここまで俯瞰しておいてお前に何がわかるんだ、じゃあその流れでどうすればいいのかアドバイスくれよ、って自分に対して思うんですけど、所詮自分なので有効なアドバイスなんてくれないんですよ。
こんなことばっかだから生きづらいんです。顔を合わせる誰に対しても、うっすら嫌いというフェーズから入っていきます。そのあとも嫌悪か尊敬か無関心かのどれかしか感情を抱けないんです。尊敬って楽なんです。だって自分が下だからできることなので。恋慕も親愛も私に抱かれたって相手も迷惑でしかないだろうけど、尊敬なら人を悪い気にはさせないでしょうから。安心して抱ける唯一の感情と言ってもいいです。嫌悪だってよっぽど話を聞いてくれなくてバカにしてくるバ先の生徒か、よっぽど性格が合わない(であろう言動をとっている人)くらいしか抱かない感情だし、嫌悪するような資格だってぶっちゃけないと思ってはいるのですが、人間には特に理由もなく嫌悪してしまうようなことすらあるのでご容赦くださいという気持ちでやっていて、あとは大抵無関心。
これは経験ではなくて、現在進行形だと思います。経過は色々です。中学校、クラス、部活におけるいじめ、家庭での居場所のなさ、届きそうもない受験、裏切りなど。理由はわかんないです。理由がわかれば幾分スッキリしそうです。
前提として人を傷つけていない限りは、世の中に生きてちゃいけない人間なんていません。たぶん、少なくとも、生まれてきて自分自身について考えていられる以上は、よりよく生きるためにはどうしていけばいいか考えていられる以上は、生きていても構わない存在なんだと思います。一番病んでた時期は自身のことを絶対生きてちゃいけないタイプの人間だと思っていたので、まあ進歩です。
でも生きていない方がいい人間は存在すると思います。人生が向いていない人間は、存在してしまうと思います。そして今は、それが私だとも思います。

でも、正しく楽な生き方を知って実践するためにはある程度生き続けなければならないと思うので、死んだりするのはちょっと早いのかもな?とは思っています。楽しみたいこと、続きが見たいなと思えるもの、会いたい人、わりとあるので。
明日も地べたを這い回る自己肯定感を引きずって宥めすかして、元気に生きていくつもりです。

時々、我儘だってわかっていても言語化して誰かに読んで頂きたいという衝動を感じます。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

感想1

経験談の投稿ありがとうございました。
言語化して読んでもらいたいという衝動からこの経験談を書かれたようですが、ところどころで私の中にある曖昧な心情をも一緒に言語化してもらえたような気がしています。わだかまりが解消されたような、すっきりした気持ちになりながら読ませていただきました。

私が率直に感じたのは、あなたにとって自己肯定感を今の状態から少しでもプラスへもっていくことが、スタートラインに立つことであり、同時に目標にもなっているのかな、ということでした。(多くの人が自己肯定感を獲得するうえで踏んできた”プロセス”について考えているところから、もしかするとそうなのかなと感じています。)
私としても、それはなんとなく分かるような気がしていて。私は何か行動を起こす際、「こんな自分が〇〇していいのかな」「うまくいくはずない」というような気持ちが先行してしまうことが多いんです。そのせいで不安だけが募り、必要に駆られない限り行動できず、初動が遅くなってしまったり(それもまた自己嫌悪につながるという…)。逆に、うまくいくわけがないけどなんとかしなければとものすごく準備をして、疲弊してしまったり。自己肯定感(というか、自分を許容できる感覚?)があれば、何事も少しはスムーズにいきそうなのになーと思いつつ、自分が自己肯定感を身に着けるビジョンは見えないのが私の現状です。

それから、人に向けられる感情が限られているという考えは、あなたがご自身の行動やその理由をどこまでも省察しているからこそ生じた知見のような気がして感心しました。特に「尊敬って楽なんです」というところにはハッとさせられ、尊敬を「安心して抱ける感情」と表現するところからも、私が経験談から感じたあなたらしさを受け取った気がします。あなたが書いてくださっていることですが、私としても、好きに類する感情って私にとっては意味が大きすぎる感情だと思っています。尊敬という形でご自分の気持ちを表出するだけでなく、相手の迷惑にならないようにするというところまで考えている、立派な処世術だと感じました。ただ、一点だけ私の考えと異なっていることがあり、人の上・下(個人的には、まず何をもって人に上・下があるのかも、よく分かっていません…)に関係なく尊敬の感情は成立しうるというのが私の考えです。私は今社会人なのですが、客観的には同じ立場である同僚にも尊敬している部分はあります。学校に通っていた頃も、尊敬できるクラスメイト(こちらも、客観的には対等だと思います)はたくさんいました。その意味で、あなたが下でなくてはならないということはないと私は思いました。

改めて、経験談の投稿ありがとうございました。
私にも「自己肯定感が低い」という認識はありましたが、それがどういう状態なのか、経験談を読ませてもらうことでこれまでよりも明瞭にすることができた気がします。
最後に、わりとあると書いてあるあなたの「やりたいこと」が少しずつでも実現していくといいなと感じたことを伝え、感想とさせてください。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
読んでいる最中も、読み終わってからも、一言で表せそうで表せない「わたしはこう感じた」が自分にあって今言葉を探しています。(共感に近しいけれど共感ではなく、わかりそうだけど理解しきれた自信はなく、これは一体何なのか…ぐるぐる)

言葉にできそうなところから書いてみると、わたしは自己肯定感について、少し違った見方をしています。自分の自由を縛るほどの「自己否定感がない」であれば十分で、肯定まではない方がむしろ人生安定するのでは…?と考えている感じです。
とはいえ突き詰めると、あなたの言っていることもそういうことかも…?とも思っています。きっと、あなたの中に「自由や充実を阻害する何か」があるのは事実で、それは確かに自己肯定感が低いとも言えるけど、既存の枠組みや言葉に当てはめるのは、なんだか勿体ないというのか、、「間違いは何もないのだけれど、わたしの感覚的には十分にはしっくりこない」というのが一言の答えかもしれません。
とはいえ捉え方はまず何よりもあなた自身の自由ですし、絶対的正解もないですし、わたしも自分の見方を押しつけることはしたくないと思っています。(もしそう感じちゃうような書き口になっていたら、本当に申し訳ないです)

あなたは恋をしたいとは思っているのだろうか・・・?何に幸せを感じて、何に怒りを感じるのだろうか。人生に最も求めるものは何なのだろう・・・?そんなことを、聞いてみることができたらいいのになと思っています。
そしてもしも、そのあたりがわからないような、自分らしさを守られてこなかった人生なのだとしたら、それが生きづらさの一つの理由かもしれない、なんて勝手に想像しています。

最後にちょっと自分語りをさせてもらうと、わたしが人生で最も幸せを感じたのは、小学生のいとこと日中畑仕事をした夜、いとこが寝ている間に、翌日海で食べるための卵焼きを焼いている瞬間でした。一応30年ほど生きてきたのですが、幸せだと感じたのは、それを含めて2回です。もう1回の方も、恋とか認められたとかとは全く無縁の、ただ静かな空間でのことでした。(自己肯定感の部分も自己紹介しておくと、基本的には自分のことを何の価値もないゴミだと思っていて、誰に認められようがそれは揺るぎません。人を好きになる資格もないと思っています。でも自分の行いにだけは自信とプライドがあり、それにしがみついて生きています)
つまり何が言いたいかというと、「他者との」関わりというニュアンスより、「場」とか「自然」とか、褒められるというよりも、ただ否定も肯定もされず「ここにいていいんだ」という感覚とか、案外そういうところがポイントかもしれない、という話です。

・・・謎の自分語りで、すみません。
このあたりで感想を終わりたいと思います。よければまたいつでも死にトリを訪れてください。

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