経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

きっと甘えだった

以前、甘えですか?というタイトルで投稿させていただきました。あの時から色々な人の援助を受け、人間的にも成長しつつ自立することが少しずつできるようになってきました。現在私は中学2年生ですが、クラスメイトにも恵まれ、部活でも何か問題のあるような後輩などはおらず、この環境ならきっと自分も、自由に翔ける、と思っていました。
もちろん最初は中1の時よりは日常生活が楽しいと思えるようになってました。
しかし、友達とどんどん仲良くなっていくうちに、私は、
「友達といつもと同じような態度で接していないと、嫌われてしまう」
という思考になっていき、次第に周りの人間関係が辛くなっていきました。そしてその考えはだんだんと悪いように歪んでいき、次第には、
「休み時間でも、誰かと話していなければいけない、笑顔でいなければ」
という脅迫概念に駆られるようになってきました。
私自身はそれが本当に辛く、それに気を取られ趣味も手につかない、楽しく感じない、全てが憂鬱、という始末。それに加えこんな早くに心が弱ってしまうなんて、という自分への失望がさらに拍車をかけていきます。
それに加え、私はみんなができて当たり前、ということが出来ない、例えば毎日自主学習をして、提出する、もらった日にプリントを母親へ渡す。それも全部忘れてしまうのです。
きっと自分が悪いんだ、小学生の時はできていたもの、と思っていました。
でも、最近は「しない」ではなく「できない」のような気がしてきたのです。思い返してみれば、小学生の時は母親が毎日持ち物をチェックし、プリントは見つけてくれ、宿題は出来るまで見守ってくれる。それが無くなった今、出来なくなったのです。
そのことを自覚した時、当事者には失礼になってしまうかもしれませんが、発達障害を疑いました。もちろん、せいぜいグレーゾーンくらいではあると思いますが、やはり周りとは違う。それが辛くて、本当に辛くて仕方ないのです。
日に日に廃れていく心は自然と人の粗探しをしてしまうものです。きっと普通の事なのです。それでも、私はそれが本当に嫌でした。
私のクラスには不登校の子がいます。
それ自体は憎たらしくも不快でも何でもないのですが、みんなが頑張って学校に行っている中、推しのライブに生き、それを堂々とメッセージアプリのステータスメッセージに書く。
不快に思うのは普通のことなのでしょうけど、私はそう思うのが嫌で、自分が汚れていくような気がしてもう本当に嫌でした。
しかしながらそのような事を訴えても、今は多様性の時代、受け入れろ、で終わってしまう。
私の出来ないことも、社会不適合として片付けられる。
相変わらず流行りの物も好きになれず自分の趣味ばっか、協調性皆無、と言われる。
最初はそう言われるのが嫌だった。
もしかしたら当然の事だったのかもしれません。世間の物差しが間違っていたのではなく、自分が間違っていたのかもしれない。
製品を製造するにあたって、不良品は必ず生まれます。それが私だったのかもしれません。
不良品は処分される。そのように、いつかはに私も処分されてしまうのでしょう。
きっと私は生きるのに向いていなかった。
まるで合成甘味料も、天然の砂糖も飽和するまで入れて煮詰めた甘ったるい水のように、私は甘え、逃避していたのでしょう。
私は何人もの人の助けを借り、このサイトに以前も書かせていただいた。
なのに状況は変わらず、自分も変わっていなかったのでしょう。
死んでしまった方が、いっそ楽な気さえしてきてしまいました。
こんな長文を書いてしまい、すみませんでした。

感想1

まず、もう一度投稿してくれて嬉しく思います。読ませてもらって、甘えについて考えました。
甘えるのは小さな子どもがする行動とされていて、それなりに大きくなると甘えるのは良くないこと、という風潮があります。本当にそうなのかな…。
「自分は恵まれているのに甘えているんです」と話すひとがいます。そう話すひとほど、真面目に考え込み、一生懸命周囲に気をつかい、でも自分の中では思うようにいかなくて自分自身を責めています。そして小さな頃に十分に甘えられていない場合もあります。私はこの甘えを「必要な甘え」と呼びたいです。本当の意味で頼れないでもがいているように見えるんです。
一方で自分に頑張れる土台や条件が揃っているけれど、自分がやれることも他人任せで誰かにやってもらってそれが当たり前…そうやって開き直って自分のことを振り返ったり悩むこともあまりない…これは「甘え」と言えると私は思います。
あなたは援助も受けて充実していると感じていたようですが、もしかしたら水面下(自分でも無意識に)では周囲の援助にも自立への期待にも必死に応えようとしていた部分もあったかもしれませんね。その結果こころが疲れてしまったのだとしたら、それは「甘え」とは違うものではないでしょうか。そしてこうやってまた死にトリに来てくれて経験談を投稿してくれました。
苦手に思っていることがありながらもみんなと楽しいと思える日常を送っていたんですからそれはあなたが持っている力のように私は思います。
あなたのタイトルを借りて私なりに表現させてもらえば、「きっと必要な甘えだった」になるかな…。もちろんあなたの考えを否定しているつもりはなくて、あなたの考えを私なりの視点でとらえ直してみました。
あなたは考え、悩み、生きていることがとても伝わってきました。生きていることそのもののように私には思えました。しんどいときはこれからもあると思いますが、死にトリではこれからもあなたの必要な甘えを待っています。

感想2

読みました。まずはいろいろな理屈は抜きにして、あなたが苦しんでいることをわたしは感じました。あとは、もし人に恵まれているのだとしても、内面的には孤独を感じているのだろうと思いました。

「甘え」という捉え方が、どうしてここまであなたを強く引き寄せ、縛りつけるのだろう…と今わたしは考えています。(前回の経験談も読みました)
わたしの定義では、自己肯定感があり、周りの物差しを気にせず、頑張ることを偉いと思っていない人だけが「甘えている」という評価を手にすることができると思っています(そしてそれも別に悪いことだとは思いません。強いていうなら、ちょっとそのゆるさを妬ましく思ったり、実際に迷惑をかけられたらイラっとするくらいはあります)。つまりあなたは「甘え」とは無縁で、むしろ対極にいるかと思うのですが・・・きっと、そういう定義の問題ではないのだろうなとも感じています。
書きながら思ったのですが、もしかしたら、あなたの言う「甘え」は、世間の物差しの代表格や象徴のようなものなのかもしれない…?
とりあえず、自分オリジナルの感性が世間の物差しに徐々に押し負けて、今あなたが弱っているようにわたしは感じています。

ちょっと話の方向性が変わるのですが、わたしはあなたの文章を読んで、生きづらさについての二つの名言が浮かびました。
「『死んでしまいたい』と思うほど自分を責めるのは、君が正しい生き方を強く求めているからだ」と、
「複数の人に共有された秘密は有用だが、ひとりだけの秘密は破壊的なものだ」という言葉です。
誰がどこで言ったのかはもし興味があったら調べてもらえたらと思うのですが、正しくありたい気持ちが強く、自分の思っていることをそのまま言える人がいない状態の人は生きづらいのだ、とその言葉でわたしは確信を深めています。それは自分にも部分的に当てはまるし(自分語りは控えますが客観でも主観でも生きづらい人に当てはまると思っています)、生きづらさを感じている周りの人にも当てはまる部分が多いし、あなたにも随分と当てはまるようにわたしは感じます。

世間の物差しと、自分・・・そのどちらが正しいのかというと、どちらもそれなりに間違っていて不完全な気もします。
でも一つ言えるのは、自分が間違いなのかもしれないと感じて生きるのは苦しいし、もし多くの人がそうやって苦しんでいるのなら、世間の物差しには改良が必要だということです。
あとはとにかく、間違いか正しいかは一度置いておいて、「自分はこう感じているんだけどあなたはどう思う?」と、フラットに話し合える世界だったらいいのにな、とわたしは思います。
死にトリはそういう場でありたいと思っているし、物差しについて悩んだときは、ぜひ訪れてもらえたらと思っています。
経験談の投稿、ありがとうございました。

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