経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

あまったれでしかないのでしょう

アラサーを控えたギリギリ20代の女です。
 思えば、生まれ持った性質が生きるのに向いていないのだと思います。こだわりが強く、思い込みが激しく、真面目といえば聞こえはいいけど実際のところはそれしかわからないだけ。根性なしで臆病者。頑張ることも長く続かない。

 小さい頃はまだ普通だったと思います。興味の有無が激しくて、母は私に何があったのと聞いても「知らない、覚えてない」で済まされ、今日あったことを友達に聞いてようやく情報を得るような子でしたけど。それでもなんとなく未来はいいものになるのだと思っていて、親と似たような人生を歩むのだと勝手に信じてました。
 小学校高学年でいじめられ人間不信におちいりましたが、それでも友達と家族は信じられたし、一部の人間との相性が悪いのだと思っていました。でも、このいじめは人生に多分結構大きい影響を及ぼしたのではないかと、あとになって思います。

 高校受験をひかえ、学年主任の先生に「友達が行くからとかで選ぶな」と言われました。内申点が高く、そんなに頭のよくない学校でしたが成績も悪くなく、市内の公立高校の中で1番いいところに行った方がいいと言われました。けれど本当は仲の良い友達と同じ市内で1番賢くないと言われてる学校がよかった。でもまさかそんな理由でその学校に行きたいなんか言えるわけがない。他の理由をでっち上げられず、3年間我慢すればいいんだと言い聞かせて入学しましたが、賢い人たちばかりの学校に馴染めず早々に泣きながら学校に通ってました。結局そんなものが長く続くはずはなく、入っていた部活の夏休みの宿題ができないという理由で初めて自殺を試みましたが、死ねませんでした。母に見つかり号泣。そこから学校に通えなくなりました。親に車で高校の駐車場まで送ってもらって、クラスの仲のよい子が迎えに来てくれたこともありました。それでもドアが重たくて、手が震えて開けられなくて、自分はだめなんだなと思いました。当時は心療内科で未成年を診てくれるところは少なく、診断書をもらうために通いましたがその先生との相性も最悪。家から遠いのに毎回送ってくれる親にそんなこと言えるわけもなく、何の意味があるんだろうと思いながら通ってました。
 そこから高校の担任の先生にすすめられ3部制の学校に通い、単位とり方の都合上4年半かかって高校を卒業しました。完全にひねくれて、人生はクソだから友達もいらない、なんて強がりを言っていたこともありました。
 それでも、人生に意味が欲しくて、何か頑張りたくて、昔母が褒めてくれた音読を思い出して声優になりたいと思い、専門学校に通いました。ちゃんと周りに止められました。難しい職業だよって。大学行った方がいいよって。それでも私は夢を見たくて、通いましたが向いてなくて努力しきれない自分が嫌いで情けなくて、2年生の後半は出られず、出席率の良さと前半の成績に救われたのと先生たちのレポート提出による単位認定のおかげで、ギリギリ滑り込みで卒業はしました。
 けれど、そこで心は完全に折れました。何のために生きているのかわからない。苦しいだけの人生で、生きていたくないのに死ねないから生きなければいけない。頑張ろうと選んだことも頑張れなかった。人生を無駄にした。

 私には妹がいて、その子も途中までは似た人生を送っています。学校に行けなくなって転校したところまで。けれど彼女は頑張って大学に行って色々あったようですが、無事就職しました。結局は退職したけれど、結婚してついに子供も授かりました。
 一方私は就職したこともなく、友達と呼べる人もおらず、恋人など一度もいたことがありません。全て妹に負けてます。
 もちろん、妹とはいえ他人だし、そもそもそんなものを比べること自体が間違っている。それはわかっています。祝福する気持ちもないわけではありませんが、それ以上に「妹がいるから私はいらないよね?」という気持ちがあります。本当に生きる意味は一つもないのに、死にたい理由はたくさんあるのです。そしてそんなことを考える自分がとてつもなく嫌です。
 親も妹も配慮してくれてます。働けとせっつかれることもなく、私がメンタルがやられて動けなくなっても怒りません。呆れてはいるかもしれませんが。
 だからきっと恵まれてるはずなんです。努力しない自分が悪いんです。けれど、希望もなく努力できない。苦しいことで精一杯。だから死にたい。生きてるだけで迷惑がかかる。
 死にたい気持ちが抑えきれなくなると、ネットで自殺とか安楽死とか死ぬ権利とか検索しては、息ができないほど泣きます。でもそれだけ。死のうと思っても、生きたくないくせに恐怖心に負けて留まってしまう自分が嫌い。 感情なんかなければよかった。そしたら必要なことだけやれたのに。そしたらこんなに苦しまずに済んだのに。
 30までは頑張って生きようと思いましたが、許されるなら今すぐにだって死にたい。好きな作品の最後を見れなくたっていい。周りを傷つけたっていい。生きる理由はついぞ見つかりません。お金も物も無駄にするだけなんだから、早く死ねたらいいのになとしか思いません。
 別に仕事ができない人がだめとか、恋愛しない人がだめとか、友達がいない人がだめとか、そういうことは一切思いません。きっと他の人がそう言ったなら、そんなことないよと言ってあげられる。ただ自分のことになると許せない。お前に価値などないとしか思えない。価値があったって死にたいと思うのは変わらないかもしれないけど、そもそも価値がないので死にたい。いや、極論価値があったって死にたい。だって苦しすぎるから。来るかもわからない幸せを願っても、今苦しいことに変わりはないから。

 青春コンプレックスの塊です。友達とディズニー行ったり、制服でそのまま遊びに行ったり、オールでカラオケしたり、なんてやったことありません。今でもメンタルがヤバイ時に楽しそうな学生さんの声を聞くと叫びそうになります。いつでも青春できるという人もいますが、私が憧れたものは時間制限付きで、そんな相手いないけど相手に付き合ってもらうのも可哀想だから。
 ゼクシィもだめです。私だってドレス着て結婚式挙げたかった。フリルもレースも宝石も大好きで、祭りごとが好きな私には人生でやってみたいことのトップ3に入るので。

 「人生の幸と不幸はトントンになるようにできている」と言うやつが大嫌いです。あなたにとってはそうかも知らない。それを否定する気はない。けれど必ずしもそうなるわけではない。だったら私の将来は物凄く幸せにならないといけないから。
 死ねない自分が嫌いです。

感想1

投稿ありがとうございます。これまで人生で、あなたが苦しい中でなんとか自分自身やその人生のありかたを模索してきた姿を想像しました。

小学生のときのいじめは「一部の人間との相性が悪いのだ」という認識でいいと思うし、そもそもいじめは構造的に起こりうる問題だからこそ、学校側の対策が必要だと思いますが、そういうことが追い付かない実情に課題があるのだと思いました。ただ、それでもあなたが傷つくことはあったのではないかと思います。「でも、このいじめは人生に多分結構大きい影響を及ぼしたのではないか」という文章から、あなたが大人になりながら、過去を振り返り少しずつさまざまなことをとらえてきた軌跡のようなものを感じました。

「感情なんかなければよかった。そしたら必要なことだけやれたのに。そしたらこんなに苦しまずに済んだのに。」という言葉を読んで、勝手ですがすごくわかると思いました。私は一定にならなくてコントロールできない感情に振り回されてきた自覚があります。だからこそ、さらにコントロールしたいと思ったし、それができないなら感情を消したいと思っていました。ただ、最近聞いた話だと、理性的な判断だと思われているものにも実は感情が作用していて、むしろ感情がわかない状態では、物事の重みづけが働かず、判断も難しいのだそうです。(あやふやな話ですみません。)べつにそれがいい悪いという話でもないのですが、私の中でそれまで感情と理性的な判断みたいなものの二項対立で捉えていたものが、実は違ったのかも?と考えるきっかけになったので、思い出して書いてみました。

私は兄弟姉妹などがいないので、その意味で身近に勝負すること相手がいなくて、状況を理解できていないかもしれないのですが…、いつも近くで相手の生活が見えるようなところに、比べられるような存在がいたら、自分が苦しければ苦しいほど、相手と比べてしまうのも無理はないと思いました。
「妹がいるから私はいらないよね?」というのは、だれにとっての言葉なのだろう?と気になりました。家族…というよりは、社会、あるいは世界のようなものに対してなのでしょうか。それとも自分自身への問いかけなのでしょうか。

あなたは人生に意味や価値を強く求めてきたのだと思います。それはあなたがたくさん苦しくて、それがどうにかなる解決のイメージが持てない中での、切実な願いであるように感じました。個人的な感覚ですが、死にたいくらいつらくて逃れたい現在があるとき、あるいは苦しい感情や感覚などに翻弄されているようなときに、せめて意味や価値があってほしいと願うのは至極真っ当な感覚であると思いました。逆にいうと、こんなに苦しいのに意味すら見つけられなかったら途方に暮れてしまうように思います。
あるいは、あなたの価値や意味を、だれかに証明したい、伝えたいという思いもあるのかな?と思いました。それは、そうでなければ価値がないと見なされてしまいそうだという、あるいはそう見なされているだろうという恐ろしさの中での感覚なのだろうかと想像しています。

「ただ自分のことになると許せない。」というのは、あなたにとってそれだけ自分の存在が大きいということだと思いますり(それは自我を持つ人間の当然のことだと思います。)また、「青春コンプレックスの塊です」という文章から、社会的にいい悪いの話というよりも、あなたにとって「これがやりたかった」「こういうふうに過ごしたかった」「こういう存在でありたい」と願う思いの話なのではないかと想像しています。もちろん、他者と共にするイベントなどは、どんな人でもコントロールできないし、願い通りになるとも限らないとは思います。でもそう考えると、意味や価値というのは、あなたにとって生きててよかった、みたいな経験や感覚とも言えるのだろうか……と、また考えたりもしました。生きててよかったって、私自身、なんだろう、それは?という感じでもあるのですが……。
そういえば、死にトリにはつらチェックという「死にたい」気持ちを分析するツールがあるのですが、使ってみたことはありますか? 気持ちのもとになる要素を分類して表示するので、もしあなたの思いや願いを考える手掛かりのひとつになれば、と思いました。(ちなみに私は、発達特性が強いことやといろんなことにショックを受けやすいこともあり、カテゴリ2「社会に貢献したい」とカテゴリ3「優しい世界で生きたい」が高く出たりします)

最後に、私も「人生の幸と不幸はトントンになるようにできている」という言葉は大嫌いだと思いました。自分についていうなら好きにしていいと思いますが、人に言うとき、それは他者の人生を勝手に決めつける、残酷な無理解の押し付けだと思います。
私は幸せがなにかもわからないですが(わからないばかり書いていてすみません)、あなたに不幸を感じずに過ごせる時間が少しでも増えてほしいと願っています。

感想2

とても苦しい葛藤の中で苦悩し続けている様子を感じました。そして、あなたをそんなにも苦しめているものは何なのかについて考えています。カギになるのが「きっと他の人がそう言ったなら、そんなことないよと言ってあげられる。ただ自分のことになると許せない。」と書いているところなのかなと思っています。
周囲には言えることが、どうして自分に向けては思えないし、言えないのか?あなたの経験談は自分自身に対する否定や認められない気持ちがたくさん書かれていました。どうして、そこまで強く否定をせずいはいられないのか、そして、その気持ちを抱えたまま生きるのは確かにとてもしんどく、早く死んでしまいたいと強く思うのも無理もないことだろうと想像しています。
そこで一つ思いついたのは、自分自身への期待や願いが強いのではないかという仮説でした。否定や失望には必ず期待や願いがあります。経験談の中でも、ところどころにあなたが渇望する理想やこうなりたいという願いが書かれていました。願いがあるのに、それに向かって努力できない自分を認めることができない気持ちがタイトルにある「あまったれ」につながっているのかもしれません。
では、どうしてあなたには強い願いがあるのだろうかと考えました。書いてあったような具体的な願いや期待はどこからやってくるものなのだろうかとさらに考えを進めています。あなたはゼクシィに代表されるような結婚の姿やドラマやアニメに出てきそうな青春の姿に心惹かれていることが書いていましたが、私はあまりそういうのが好きではありません。何だか「いいものだよ」「こういうのに憧れるのが当たり前だ」と押し付けられているような気がしてしまうからです。その背景には、私はかなりあまのじゃくな性格なので、多くの人がいいと思っていることや、いいものだというメッセージに過剰に反発してしまう傾向があると思っています。ひょっとしたら、そういった世間のごり押しがなければ「そういうのもいいかも」と思う点もあるのかもしれませんが、周囲からの圧があると必要以上に負けないぞと意固地になるところがあります。そう考えると、私の逆で「これがいいよ」という圧に影響を受けやすい人もいるのではないかと思っています。あなたがそうかどうかはわかりませんが、どんな情報をどのように浴びるかによって人の心の在り方や願いの抱き方は随分と違うような気がしています。
もう少し空想を広げると、ゼクシィやディズニーやカラオケがない時代や世界に生きていたらここまで苦しくなるのだろうか?どんなふうに生きているのかなと考えてみています。私はやっぱり、その時の流行りには反発して生きているかもしれません。あなたはどうでしょうか?
あなたは自分のことを「あまったれ」「努力しない自分が悪い」と書いていましたが、私は自分の努力や頑張りで何とかなることはとても限られているので、努力に頼ってもあまり効果はないように思っています。それよりも、与えられた状況でどれだけすり合わせができるのかということが問われてくるのかなと思いました。
そう考えると、あなたにとって「現実とのすり合わせ」という作業が実に苦しく虚しいものなのかもしれません。ただ、世の中はとても広く、人の人生も幸せも実に多様なものだろうと思います。しかし、いくら世の中は広くて多様でも、自分が見えているもの見てきたものでしか私たちは感じたり、考えたりできないことも事実ですSNSやインターネットの普及で私たちの想像以上に実際に見聞きして体験し、感じることよりも、情報を見ただけで理解することが多くなっているように感じています。もしも、今まで見たことのないことに触れたり、見たりすることであなた中の潜在能力がどんな化学反応を起こすのだろうか?と思いを巡らせています。
最後に、人生幸と不幸のトントン説は私も「そんなものあるか?」と大きな疑問を持ちました。ただ、一方では幸せとか不幸せというものはとても主観的なので、トントンだと思ってしまったら成立するのかもしれないと考えると、その説を唱える人は思い込むのが得意な人なのかもしれません。

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