経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私は、人から条件なしに愛されるということが信じられません。有能であるか、愛嬌があるか、美しくあるか、何か目を見張るものがあって初めて、「愛」は享受しえるもの。そんな寂しい概念と共に暮らして、もう十数年になります。
私がこうなった原因に親の教育が一因としてあることは否定できません。でも、親も人間として彼らなりの正義に従って行動しただけですから、そこを責める気はもうありません。ただ、その結果として私の中にこびりついた、この寂寞とした悲しみとどう付き合っていけばいいのかわからぬまま、今日に至ります。
気がつけば、好かれるようにと振る舞います。相手に望まれるように、相手が喜ぶように。そうして得られたものはなんでしょうか。愛?__いいえ、虚しさです。ほしくもない虚しさばかりが、こんこんと雪のように私の心に積もるのです。
好かれるよう振る舞った自分は当然好かれます。当たり前です。そうなるように振る舞ったのですから。好かれる方法を学び実践したから、結果が返ってくる。やっていることは学校の定期テストとなんら変わりありません。模範解答を覚えて実践することは容易いです。ですがそれは世間一般に広く通用するものであって、私自身から導き出された答えではありません。借り物の言葉や態度が誉めそやされても、本当のところの私は微塵も満たされないのです。
そうして生きているうち、いつしか自分も見えなくなりました。自分が何をしたくて、将来何になりたくて、何を人生で得たかったのか。考えてみても、全てが正解に辿り着く気がしてなりません。そう、それこそが正しき人生だとばかりに、全ての結果が、好かれるよう振る舞う自分の中に集約されていってしまうのです。
私には何も残りません。私が成功すれば、私は、自分が成功しているから愛されているのだと思うでしょう。私に才能があれば、その才能があるから愛されているのだと思うでしょう。1+1を2と教え込まれるように、私はこの世の全てのプラスの事象が自分が愛されるためのもののように見えて仕方がないのです。
料理の下手なのが可愛らしい。すっぴんが可愛らしい。不完全なところがかわいらしい。私は、私にはそう思う気持ちがあります。仕事ができなくても、家事ができなくても、その人の性格が愛おしいと。
でも私は、自分の中にあるそうした不完全を許すことができず、また、他人に不完全な自分が許されるとも思いません。だいいちすっかり愛される方法を学んでしまった私にとって、そうでない自分とそう振る舞う自分を切り分けて考えることすらもはや不可能なのです。
こうして自分を俯瞰して見えたところでなんだと言うのでしょう。わかりやすい言葉で伝えられる才能を得たからなんだというのでしょう。私が今の私を認められなければ、それらは全て虚しいものでしかないのです。自分は存在していていいのだ、無条件に愛されていいのだという土台がなければ、与えられた才能を有意義に使うことすらできないのです。才能や努力で培って得た実力はとても素晴らしいものですが、土台に親から無条件に愛された経験も何もない自分にとっては、それらは全て私をありのままから遠ざける障壁でしかないのです。
私は、他者のありのままを愛することはできても、自分のありのままを愛することはできません。嫌われてもいいから自分の愛情を示そうと思うことはできても、この人が私を嫌うなんてありえないという確信を持つことができません。優しくしてくれる人の優しさを素直に受けとることができません。どうせいつか変わってしまう、今は愛してくれていても、どうせいつかは見限って離れていく。そんな諦めとともに生きているので、当然、愛されていても真の安らぎを感じることはありません。
人は孤独と言いますが、孤独がこの感情を指すというのなら、これはあまりにも寂しく苦しい感情です。
いつか、ひだまりのようなあたたかさにこの心が包まれることを願っています。
感想1
経験談を読み、あなたの愛についての考察が多分に含まれていて、研究結果を読ませてもらっているように思いました。
「能力によってでなければ愛を与えられることはない」という信念と、一方で、「能力によって与えられたものは結局は愛ではない(愛として受け取ることはできない)」という認識の間に空いた空洞みたいなところで、ずっと必死に生きてきたあなたの姿を想像しながら読みました。
好かれるようにというあなたの振る舞いは、あなたにとって長く身についた行動様式なのだと思います。「親の教育」というのがどういうものだったか具体的には書かれていませんが、たしかに家庭の中で身につけたやり方を大人になってもずっと繰り返している…ということはあるなぁと思います。その当時それが唯一の方法だったら、他のやり方や他の考え方を身につける機会もなかなかないと思うからです。でもそうして得られる結果には虚しさだけが降り積もるとしたら、とても割に合わないことだと感じました。
一方で「好かれるよう振る舞った自分は当然好かれます」「模範解答を覚えて実践することは容易い」という文章から、あなたは実践してきただけでなく、おそらくもともと能力も高い方なのだろうと思いました。ただ、期待に応えるためにはたくさんの努力も必要だったと思いますし、それだけの力を注いでも、あなたが願うものが得られないのは、なんというミスマッチだろうかと思います。
また、「好かれようとしなかったのに好かれる」ことだけが好かれるということなのか、というと、それも違うような気もしてきます。あなたはきっと「好かれる」ことの比重や価値が高めの人なのだとは思うのですが、世の中では「好かれたい」という思いはとても自然に存在するものだとも感じます。それを切り分けて、「好かれたい」をすべて不純物みたいにして選り分けるのも難しいと感じました。ありのままを愛するって、どんなことなのだろう…と考えています。というか、ありのままって、なんなんだろう?
あなたの愛への願いに関するキーワードになりそうだなと感じたのは、「どうせいつか変わってしまう」という部分です。あなたが望んでいるのはただの愛ではなく…というか、永遠の不変の愛だけが愛で、それを願っているということなのかなと思いました。
私は人間の中でもたぶんかなり一貫性のないタイプで、日々違うことを考えて、違う思いを抱いているなぁと思います。だからなのか、物語の中にでてくる「永遠」「ずっと」みたいなものに対する憧れは個人的にかなり強くあると思います。ただ、一方では、それだけが在り方ではないし、それだけが愛だとも思わないなという気持ちもあります。自分の、あるいはだれかの思い(たとえば愛)がそのひとときだけのものだとしても、それは不完全な思い(愛)とは言えないのではないかとも思いました。そこに実在している/していたことの事実は重みがあるような気がします。
ただ、こんなふうに御託を並べたところで、あなたの実感として、「愛」は自分の努力や振る舞いによって与えられるものだということなのだと思いますし、それは裏を返せば、努力しなければなくなってしまうものという感覚の中で生きてきたということなのだろうと想像しています。
答えの用意があるわけでもなく、考えながら書いているので、まとまりがなくすみません。あなたの言葉に触発されて、いろいろと思いを巡らせています。そして、あなたの考えももっと聞いてみたいな、話してみたいなと感じています。
「自分が何をしたくて、将来何になりたくて、何を人生で得たかったのか。」これって、そんなにわかるものなのでしょうか? あなたの言葉を否定する意図ではなく、ただ、私自身のことを考えてもよくわからないなぁと思っていて、気になっています。そんなふうに目的(と呼ぶべきでしょうか)を定めて向かうのが人生なのでしょうか。もちろん、そういう人生もあるのだと思うのですが、それだけでもないような気がしています。
考えてみると、世の中に「何をしたいか」を自分で本当に理解して、その感覚が一致している人ってどのくらいいるのでしょう?
理解していると思っている人にしても、それは自分自身を見つめて発見しているというよりも、既存の物語(たとえば「◯◯な成績を残す」「◯◯な家庭をつくる」「◯◯な生活をする」など)に自分を無自覚に当てはめて、なんとなく納得してしまっている…ということのほうが多いのでは?という気もしています。(穿った見方かもしれません。そしてそれが悪いという意味でもありません!)
逆にいうと、そういうものにもうまく乗り切れない時の方が、「自分」を見つめる機会にもなっているのではないかという気がしてきました。そう考えると、「いつしか自分も見えなくなりました」と書いているあなたは、むしろあなた自身を見つめようとする眼差しを持っているからこそ、見えないことに気づいたとも言えるようにも思いました。
私自身は、他者からの愛を求めているかはわからないのですが、体の中が乾燥して穴が空いたみたいな感じになることはあって、それは孤独と人が呼ぶものに近いのかもと思っています。それを満たす何かがあるのかもわからないですが、それについても、もう少し考えてみたい気持ちになりました。あなたの思索を共有してくださってありがとうございました。
お返事1
この度は私の経験談へのご感想をいただき、ありがとうございます。
皆さんのご感想を通して、まるでこの場で皆さんと対話をしているような不思議な感覚を覚えました。皆さんの愛への向き合い方を真摯なご感想と共に受け取ることができ、大変嬉しく思っています。
そして、なにより、私の言葉をこれほど真剣に受け取って、自分の身に置き換えて考えてくださったことが嬉しくてなりません。そして、皆さんのご感想を通じて、私自身多くの気づきを得ることができました。
それは、私は「無条件に愛されたい」と願いながら、ただ無条件に肯定されたいわけではない、ということです。
「そうだね。あなたの意見を尊重するよ」
たくさんの苦悩の末に吐露した言葉に、これ一つの言葉だけを返されたのであれば、この文章に「肯定」の意味合いこそあれど、私は真に満たされた感覚にはなりません。
思うに私は、自分の意見に迎合されたいわけではなくて、自分と一緒に考えてくれる、悩んでくれる、自分と異なる意見を織り交ぜて話してくれる、そんな対話をずっとしたかったのだろうと思います。
もしかすると、昔から、そうだったのかもしれません。
「なんとかなるよ」「大丈夫だよ」
落ち込んだ時によくかけるこれらの言葉は、耳障りの良い言葉ですが、この言葉には全くその人の性格や考え方が現れていません。ただいたずらにそう言われても、それは相手が自分に一方的に与える言葉であって、私はどこか安心できないざわざわとした気持ちを覚えるのです。私が親から受け取る言葉もこうしたどこまでも一方通行のもので、私の意見を聞き、共に悩んでくれる、あなたはそう思うんだね、でも私はこう思う、と思考のキャッチボールをする、分かりあう、そうした経験に乏しくこれまで生きてきたのかもしれないと自覚させられました。
でも、皆さんは私の言葉を受けて、私の言葉をただ全て受け入れてそうだねと言うだけにとどまらず、私の言葉の中で過剰に思われる部分や、少し違うと感じた部分を抽出して、自分なりの考えを伝えてくださいました。それは、私にとって、私の渇望する「無条件の愛」に他なりません。
顔の見えない、「死にトリ」という世界でたまたま私の経験談を目にしたという言うなれば一期一会の出会いの中で、これほどまでに真摯に向き合っていただけるとは、思ってもみないことでした。
苦しみや虚しさは、今後も私の中に幾度となく沸き起こり、私の心をひどく掻き乱すこともあるでしょう。けれど、私は私のあり方で、1日1日をゆっくりと、大切に過ごしていきたい。皆さんのくださったご感想、そして感想を通じて皆さんと対話ができたというこの感覚を忘れたくない、ずっと自分の中に大切な記憶として留めておきたい。そう感じました。
素敵なご感想を、本当にありがとうございました。
感想1
経験談を読み、あなたの愛についての考察が多分に含まれていて、研究結果を読ませてもらっているように思いました。
「能力によってでなければ愛を与えられることはない」という信念と、一方で、「能力によって与えられたものは結局は愛ではない(愛として受け取ることはできない)」という認識の間に空いた空洞みたいなところで、ずっと必死に生きてきたあなたの姿を想像しながら読みました。
好かれるようにというあなたの振る舞いは、あなたにとって長く身についた行動様式なのだと思います。「親の教育」というのがどういうものだったか具体的には書かれていませんが、たしかに家庭の中で身につけたやり方を大人になってもずっと繰り返している…ということはあるなぁと思います。その当時それが唯一の方法だったら、他のやり方や他の考え方を身につける機会もなかなかないと思うからです。でもそうして得られる結果には虚しさだけが降り積もるとしたら、とても割に合わないことだと感じました。
一方で「好かれるよう振る舞った自分は当然好かれます」「模範解答を覚えて実践することは容易い」という文章から、あなたは実践してきただけでなく、おそらくもともと能力も高い方なのだろうと思いました。ただ、期待に応えるためにはたくさんの努力も必要だったと思いますし、それだけの力を注いでも、あなたが願うものが得られないのは、なんというミスマッチだろうかと思います。
また、「好かれようとしなかったのに好かれる」ことだけが好かれるということなのか、というと、それも違うような気もしてきます。あなたはきっと「好かれる」ことの比重や価値が高めの人なのだとは思うのですが、世の中では「好かれたい」という思いはとても自然に存在するものだとも感じます。それを切り分けて、「好かれたい」をすべて不純物みたいにして選り分けるのも難しいと感じました。ありのままを愛するって、どんなことなのだろう…と考えています。というか、ありのままって、なんなんだろう?
あなたの愛への願いに関するキーワードになりそうだなと感じたのは、「どうせいつか変わってしまう」という部分です。あなたが望んでいるのはただの愛ではなく…というか、永遠の不変の愛だけが愛で、それを願っているということなのかなと思いました。
私は人間の中でもたぶんかなり一貫性のないタイプで、日々違うことを考えて、違う思いを抱いているなぁと思います。だからなのか、物語の中にでてくる「永遠」「ずっと」みたいなものに対する憧れは個人的にかなり強くあると思います。ただ、一方では、それだけが在り方ではないし、それだけが愛だとも思わないなという気持ちもあります。自分の、あるいはだれかの思い(たとえば愛)がそのひとときだけのものだとしても、それは不完全な思い(愛)とは言えないのではないかとも思いました。そこに実在している/していたことの事実は重みがあるような気がします。
ただ、こんなふうに御託を並べたところで、あなたの実感として、「愛」は自分の努力や振る舞いによって与えられるものだということなのだと思いますし、それは裏を返せば、努力しなければなくなってしまうものという感覚の中で生きてきたということなのだろうと想像しています。
答えの用意があるわけでもなく、考えながら書いているので、まとまりがなくすみません。あなたの言葉に触発されて、いろいろと思いを巡らせています。そして、あなたの考えももっと聞いてみたいな、話してみたいなと感じています。
「自分が何をしたくて、将来何になりたくて、何を人生で得たかったのか。」これって、そんなにわかるものなのでしょうか? あなたの言葉を否定する意図ではなく、ただ、私自身のことを考えてもよくわからないなぁと思っていて、気になっています。そんなふうに目的(と呼ぶべきでしょうか)を定めて向かうのが人生なのでしょうか。もちろん、そういう人生もあるのだと思うのですが、それだけでもないような気がしています。
考えてみると、世の中に「何をしたいか」を自分で本当に理解して、その感覚が一致している人ってどのくらいいるのでしょう?
理解していると思っている人にしても、それは自分自身を見つめて発見しているというよりも、既存の物語(たとえば「◯◯な成績を残す」「◯◯な家庭をつくる」「◯◯な生活をする」など)に自分を無自覚に当てはめて、なんとなく納得してしまっている…ということのほうが多いのでは?という気もしています。(穿った見方かもしれません。そしてそれが悪いという意味でもありません!)
逆にいうと、そういうものにもうまく乗り切れない時の方が、「自分」を見つめる機会にもなっているのではないかという気がしてきました。そう考えると、「いつしか自分も見えなくなりました」と書いているあなたは、むしろあなた自身を見つめようとする眼差しを持っているからこそ、見えないことに気づいたとも言えるようにも思いました。
私自身は、他者からの愛を求めているかはわからないのですが、体の中が乾燥して穴が空いたみたいな感じになることはあって、それは孤独と人が呼ぶものに近いのかもと思っています。それを満たす何かがあるのかもわからないですが、それについても、もう少し考えてみたい気持ちになりました。あなたの思索を共有してくださってありがとうございました。