題の意味をたとえずにそのまま書くなら、「弱音は吐けない、家からは出られない」となる。私はそんな小さな箱庭で飼い殺されている、大人になってしまった(孫)娘である。
順を追って書いていく。まず「スポンジは絞れない」が「弱音は吐けない」になる理由だが、これは私が私自身の心をスポンジとたとえているのが理由である。
私の心はスポンジによく似ている。スポンジが水をよく吸うように、他人が吐き出した「辛い」「しんどい」、そういういわゆる負の感情をよく吸うスポンジだ。しかし、よく吸えるといっても限度は存在する。そういう時、スポンジを絞る。そう、私が弱音を吐く。といっても、全部吐ききる必要はない。程よい程度に絞って吐き出せれば、またよく吸うスポンジに戻れるのだ。
しかし現実はそう優しいものでもない。むしろむごい。なぜなら、当のスポンジに吸わせている人たち、言ってしまえば私の家族は、スポンジから水が出ることを良しとしないのだ。
理由は様々だ。母親は「対応が面倒と逃げる」、父親は「受け入れたようで実際はあちらの理論で黙らせに来る」、祖母と祖父は「そもそも聞いていないし理解もしていない」。そういう理由で、私の悲鳴を押し潰すのだ。それを、20年間続けてきた。
正直に言うと、弱音の吐き方がわからないまま生きている。家族に喉と口を塞がれて生きている。「自分がやりたいこと」、「夢」、そういう華々しい理想を、冷めた目、あるいは泣きそうな目で、一体何回見つめてきたのか、もうわからない。
昔から、家族は強かった。その中で私だけがたまたま弱かったから、必死で家族に合わせた。そうして家族の中で、「優しくかわいい健気な娘」という、グロテスクな認識が固定された。
認識が固定されたなら後はもう早い。人は、自分の思う通りにいかなかった場合、諦めるか、諦めないかの二択を取れる。不幸なことに、あるいは幸いなことに、家族にとって私は、あまりにも簡単に手の届く存在だった。そうして私は、善意で作り、愛で彩った地獄に閉じ込められている。
もし、ここまで読んでくれた聡明な方がいるなら思っただろう。なぜ逃げないのか、と。
実際、理論上逃げられはする。けれど、先述した通り、私は家族にとって「優しくかわいい健気な娘」なのだ。そういう宝のような存在が出ていくのを、彼らは良しとしない。これが二つ目の題、「ケースからは出られない」に直結する。
一度言われたのだ、「仕事を探してから出ていきなさい」と。確かに正論だ。正論ではあるが、驚くほど簡単で、重たい呪いだ。ただでさえ弱音を殺して生きるのに手一杯なのに、彼らは家族という地獄から逃げることも許さないのだ。
なおかつ、私はもう大人になってしまった。こうなれば、自力で逃げる他ない。けれど、その手段は既に取り上げられた。好きな場所に行っていいと言いながら、思い通りにいかなければ平然とした顔で静かに駄々をこねる人間が私の家族である。信頼など、一片もできない。
どうしたら良いかと言えば、まあ、残された方法は自殺くらいだろうと思いながらこれを書いている。どうやったら死ねるのだろうかという思考が、ずっと渦巻いている。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
スポンジは絞れない、ケースから出られない
感想2
独特の表現力が絶妙ですが、自らのスポンジに例えたのはいつどんなことがきっかけで浮かんだのだろうかと考えていました。スポンジで吸い取った不の感情を出せない、出し方がわからないと表現しつつも、この経験談では明らかにあなたが自主的に思いのままに何かを出して表現しているように思えました。それはあなたがスポンジを絞って出したかったものではないのか、それともそれに似たものなのでしょうか。確かに「弱音」ではないのかもしれませんが、誰かや何かに気遣いをしない率直な気持ちであるようには思えました。あなたがいうところの「優しくてかわいい健気な娘」から出た文章ではなく、かなり本来のあなたの素が表現しているように思えました。
あなたの経験談を読んで「過剰適応」という言葉が浮かびました。あなたが過剰適応をしているという単純な意味ではなく、過剰適応とはどういったことなのだろうか?とリアルに深く考えています。人(特に子ども)は自分にとって大きな影響をもたらすものや利害関係の強い存在に対して、自分の気持ちや都合をわきに置いて、適応していく力を持っています。その力は生存戦略として、自分を守るための1つの選択なのだろうと思います。そのように適応力は社会で生き抜くために必要な能力ではあると思うのですが、それは環境的に尊重をしてくれる前提があるからこその適応のことであって、自分を尊重してくれない環境の中での適応力は、悲しいかな子どもを知らないうちに想像以上に、じわじわと追い詰めていき、見えないところで自分をがんじがらめにしてしまうのかもしれないと思いました。
これまで「過剰適応」という言葉を時々使っていたのですが、その四文字ではくくれないような一人ひとりの生きてきたストーリーがあり、事情があり、そこから抜け出すことがどれだけ難しいものなのかということを考えさせられました。それは、物理的に縛られていないのにもかかわらず、目に見えない鎖で頑丈に縛られているように思えます。その見えない鎖は人との関係によって生じたものなので、おそらく人との関係の中でほどいていくものなのだろうと思います。
そういった意味では、こうして死にトリに本音のようなものを書いて送ってくれたことには大きな意味があるように感じました。まずは鎖の存在に気づき、そのことを自分だけの秘密にせず、こうして自分以外の人と共有してくれました。そして、死にトリの経験談はこうして感想を書く私たちが読むだけではなく多くの人たちが見ます。多くの人たちがあなたの鎖の証人になることは、大きな力となる可能性があると私は思っています。簡単ではなくても、今のままでたまるかと、あなたの深いところからの叫びのようなものを私は感じています。(勝手な妄想だったらすみません…!)
これからも必要な時は死にトリに来てください。いつでも待っています。
感想1
周囲の負の感情、さまざまな苦悩の皺寄せがあなたに行く様子を想像して読みました。それだけで理不尽なのに「スポンジを絞る」ことがよしとされないのはさらに理不尽だと思います。「優しくかわいい健気な娘」でいさせられてしまうことをグロテスクだと感じつつ、そこから逃げ出す力も奪われている状態なのかなと思います。文章からはあなたの憤りのような感覚と、同時に強い諦念のようなものを感じました。いろいろな選択肢を想像してみても、現実的にどうにかなると思えない中で、死ぬということ以外に逃げ場が残されていないように感じられている今のあなたがいるのかなと思います。
あなたがいまどういうふうな生活をして、どういうふうな状態で、また「自力で逃げる」ということがあなたにとってどういうことを指しているのか、具体的にはわからないのですが、少なくとも私はあなたには今の生活を離れる権利はあると思いますし、その方法もないわけではないように思いました。
また、家族とは言ってもあなたの行動をコントロールする権利はありませんし、あなたもそれに従う責任はないと思います。ただ、実際あなたの家族がいいと思わないことをすることにはあなた自身にも強いストレスがかかるのではないかと想像しますし、それができるイメージが持てないとしても無理からぬことだと感じました。
さっきあなたの文章から諦念を感じたと書いたのですが、それは否定系で書かれた願い、とも言えるのかなと思いました。できるはずがないと思うことは、逆にいうと、本当にできるのであればそうしたい(そうしたかった)という思いなのかなとも思います。
本当ならスポンジは絞りたい、あるいは、他人の弱音や負の感情を溜め込みたくないとも言えるのかなと思いました。きっとケースからでることは難しいし、出たら大変だとも感じるのかなと思いますが、できるのであればケースから出たいという思いがあるのかなと思いました。もちろん、世の中にはできないこと、叶わないこともたくさんあるとは思うし、きっとあなたはこれまでに何度もそれを突きつけられてきたのではないかと思います。でも、あなたの願いや感じていることを否定する必要はないし、様々な事情を一度少し置いておいてでも、あなたの願いや思い、あなたがいやだと思うこと、あなたが希望することをもっと聞いてみたいと思いました。そして、一人でそれを叶える方法が思いつかないなら、一緒に考えてみることはできないだろうかとも思いました。私に知識や経験が豊富にあるわけでもないから、私が力不足だとしても、知識や方法を知る人もいるのではないかとも思います。…なんて、勝手にそういうことを私があれこれいうのも押し付けがましいかな、とも思うのですが…。
言葉にすることが、あなたのスポンジに溜め込まれたものを少しでも吐き出すことになるなら、とりコミュという掲示板もあるので、いつでも活用してみてほしいです。経験談の投稿ありがとうございます。またお待ちしています。