私は昔から人からどう見られているかを特に気にするタイプの人でした。なので、良く見られようと色々頑張ってある程度のことは出来るようにはなりました。しかし、才能は無い方で時間が経つと途端に周りに抜かされ置いていかれることが多いです。そして、周りは自分に哀れみの目を向けてきます。自分の気のせいかもしれません。思い違いかもしれません。しかし自分の中でその目線がこびりついて離れないのです。そしてどんどんと自己肯定感が下がっていきました。今は大学生なのですが今までそうやって生きてきた蓄積なのでしょうか?ふと、なんとも言えない虚無感のような喪失感のようなものが湧き上がってきます。そして全てがどーでも良くなってくるのです。この感情は試験中などにも出てきます。そうすると分かる問題でも考えるのがめんどくさくなり適当に答えを埋めるなど訳の分からない行動をし始めるのです。まるでもう1人の自分がいるみたいに。この感情のせいで失った事はとても多いです。もう自分で自分が分かりません。訳が分からないです。どーすればいいのか。この感情はずっと消えないのかなぁ。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
消えない感情
感想2
子どものころに読んだ本に「人には見る側と見られる側の2種類いて、見られる側は自分をどう見せるかがとても重要」という内容が書いてありました。それは当時10代だった私に強い影響を与え、自分が観衆の人間であると自覚しながら、自分の見え方・見せ方を考えるようになったのを思い出しました。
大体のことはそこそこできるけれど、時間が経つと周りに追い抜かされていく…そうした経験が、私にもいくつもあります。頑張ったのは確かなのに、手のひらには何も残っていない。「〇〇(私)が教えてくれてたのに」と言われたときは、砂になって風に撒かれて消えてしまいたいと思ったものです。
想像なのですが、後に湧き上がってくるようになった虚無感や喪失感は、当時の感情がようやく表出されてきたものではないでしょうか。実際に「見せようとしたあなた」に、あなたは存在していなかったのではないかなと思いました。本当のあなたはどんな姿をしていたのでしょう。ちょっと格好悪い姿をしていたり、意外な一面があったりするかもしれないですね。試験中に出るのは怖いかもしれませんが、”もう一人の自分”を遊ばせてみたら見えてきたりするのかもしれない…とちょっと気になってしまったり。
経験談の投稿ありがとうございました。
感想1
昔から自分の気持ちよりも周りの目線を優先し、また、誰かと比較することで自分の存在を確認しようとしてきたのかなと読みながら想像しました。そのように過ごしてきたとすると、自分自身がいったい何を望んでいるのか、いったい何者なのかということがわからなくなることもあるように思われ、まさに今あなたはそういう状況なのかなと想像しています。大学生となって「どーでも良くなる」「もう1人の自分」が出てきて、その自分と意思疎通(コントロール?)が難しい中、どうしたらいいのかと悩むあなたの姿が浮かんできます。
あなたは冒頭で「人からどう見られているか」を気にする「タイプ」と書いていますが、それが「ある程度のことが出来るようになる」ほどの原動力となっていたとすると、それはもはや「タイプ」だけでは語れない何か(理由や強い思いなど)があるのではないだろうかと私としては気になったのですが、どうでしょうか。この社会は評価からは切り離せないシステムで成り立ってしまっているため、“当時のあなた”はその影響を受けてきただろうと私は思うのですが、もし象徴的な経験等があるなら聞いてみたいと感じました。「もう1人の自分」が出てきたのも、詰込み型から自分で考えるようにと突然転換する社会(教育)の影響ゆえのように思いつつ、「もう1人の自分」と“当時のあなた”とは近い存在かもしれないなどとも勝手ながら想像したので、「もう1人の自分」を含めたあなたの話をじっくり聞きたい私がいます。「どーすればいいのか」、一緒に考えられたらと思いましたので、よかったらまた書きに来てください。ありがとうございました。