経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私はたぶん、ここにおられる他の方々と比べると、ずいぶん性格が悪いと思う。
私の生きづらさは、人との関わりにおいて、感情があまり動かないことだ。
例えば、誰かと会話をしているとき、
私はいつも恋愛ゲームをプレイしているような気分になる。
恋愛ゲーム自体は一度もやったことがないのだけれど。
つまり、相手の好感度を上げるために、
選択肢の中から最適なセリフを選択していくような感覚だ。
大抵の人は、自分が言われたいことを言われるか、自分の考えに共感されると喜ぶ。
だから私は、言葉から相手の感情や望みを読み取って、適当な応答を適当な表情と声色で出力する。
だけど、心の中では提示された感情に対して、自分の感情は特に揺れ動いていない。
大体全部、ああ、そうなんですか、はあ。
という、曖昧な言葉が浮かぶだけだ。
なので会話は結構疲れる。
選択肢は予め用意されていないし、回答の猶予時間は短い。
どうせなら典型的なサイコパスみたいに、上辺だけの言葉をスラスラ吐けるような、鉄の対人スタミナも一緒に持ちたかった。
現実には、一時間くらい話していると体力の限界が来てボロが出る。
そういうわけで私はいつも一人だ。
ディズニーだって一人がいい。
一方で、会話は大事だとも思う。
人に自分の考えを話すことで、考えが整理されたり、理解不足に気づいたり、新しいアイデアが浮かんだりする。
それに、あまり一人で考えこんでいると偏った方向に意見が向いてしまって良くない。
だからこそ、心を開いて話せないことが悩ましい。
だって、「私の返答はほとんど演技で、本心ではあなたの言うことに特段の感慨はありません。あなたとの会話に求めているのは自分の考えをアウトプットして整理することです。」
なんて心を開いて伝えたとして、誰がそんな人間と関わりたいと思うのだろう?
加えて、人を愛するという感覚もよくわからない。私が知っている愛とは、例えるとベランダで育てる植物のようなものだ。水をやるのは楽しい。花が咲けば嬉しい。枯れてしまうとそれなりに悲しい。
けれど、大多数の人達にとって、植物に向ける愛情と人に向ける愛情は同じではないだろう。小説や映画で描かれるような、他人に対する強烈な感情としての愛を、私は自分の中に感じたことがない。それがわかるのではないかと思って彼女を作ってみたりもしたけれど、やはりそこまでの愛着が湧かず3ヶ月もしないうちに別れてしまった。
私は誰からも愛されずに生きているけれども、それはひどく辛いことではない。自分にとって人から愛されることは、軽井沢の別荘を持つことに似ている。
確かにそれは社会的な成功の証だろうし、あればさぞ便利で快適なのだろう。しかし、軽井沢に別荘を持っていないからといって、日々悲嘆に暮れることもない。
もらえるならぜひ頂きたいですね、というようなものだ。維持管理をどうしようか、と心の隅で考えながら。
けれど対照的に、人を愛せないことは深刻な問題であると感じる。
誰かを愛することは、人の根本的な心の働きの一つだからだ
その喜びを知らないまま生きてゆくのは、
流石に少し寂しい。
幻想である「普通の人」にもはや憧れることはないけれど、私は人間として、心のどこかが欠けているように思う。
このような人間になった原因は、ずっと前からはっきりしている。
親からあまり愛情を受けなかったことだ。
両親は両方とも精神的に不安定な部分があり、幼い頃からその矛先は度々私に向いた。
機嫌が悪い時は粗を見つけ出しては猛烈な剣幕で叱責してくるので、機微から常に感情を読み取り、ただひたすらに媚へつらう。
そんなことをしながら、死んでもこんな人間にだけはなりたくないと思った。
結果として、相手の感情をそれそのものとして観察する術と、自分の負の感情を抑圧する術が身についてしまった。
未だに大きな足音が苦手だ。階段を登る足音で、機嫌を判断していたから。
けれど私は両親に対して、憎しみとか、嫌悪の情は抱いていない。
どれほど彼らを憎もうとも、私の悩みが消えるわけでもないだろうし。
どうしようもなく哀れで、悲しい人達だと、ただ思う。
前にどうしてそんなに自信がないのかしら、とふと言われた時、その愚かさに私は心の中でひどく笑った。
どこまでも悲しく、冷たい笑いだった。
そんなわけで、私はたぶん生きづらい。
駄文長文失礼しました。
性格悪くて本当ごめんなさい。
感想1
読んでいて、世の中に「心」のやりとりを重視するべきという考えが強く流布していることについて改めて考えていました。そしてそれは人間の「心」に関わるすべてというよりも、「相手に共感する」「相手の様子に対応して心情のやりとりをベースに関わる」などの交流に重きを置く価値観ということなのではないかとも思ったりしています。
「ずいぶん性格が悪い」というふうに書いてあったのですが、そうなのだろうか?という気持ちになりました。私が感じたのは、どちらかというと、あなたにとって感情が動かない他者との関わりが必要な場面が多いということは、性格の良し悪しの判断の機会というより、まず単に疲れてしまいそうだなぁということです。「一時間くらい話していると体力の限界が来てボロが出る」というのは、それだけスタミナを使い続けるものだということでしょうし、「一人がいい」という判断も、あなたがそういう自分について理解を深めてきた結果ではないかと思いました。また、家庭環境を分析して、あなたの現状についても自分の視点から振り返り理解してきたことを感じました。あなたが感情を抑圧してきたことはその当時のあなた自身にとって不可欠だったのだろうな、と想像します。ただ、そのやり方では人に心を動かすこと自体が難しくて寂しさも感じるのだろうなと思いました。
「愛される」と「愛する」について、あなたの考察を読んでいて、改めて私も愛するとはなんだろう?と考えています。「小説や映画で描かれるような、他人に対する強烈な感情としての愛」は、家族にしても恋愛にしても、私自身もいまいちわからなくて、物語としては楽しめても、現実問題とされると乗れないなぁと思うことが多いので、ずっと結論が出ないテーマです。(ここで書かれている「愛情」というのは恋愛に限ったことでもないのかな?と言う気がするので、ちょっと狭めてしまうかもしれないですが、読んでいてアロマンティックという(ざっくりいうと、恋愛感情を持たないという)恋愛的指向を思い出しました。ちなみに私の周りにはアロマンティックを自認している人たちがけっこういますが、その中でも、物語と現実、他人の恋愛と自分の関係性…などでの感情の捉え方は当然ながら人それぞれだなと感じます。)
私は植物を育ててはそれなりに一喜一憂しているのですが、それが愛情かどうかというのも考えてみると難しいですね。グラデーションみたいなものはあるかもしれないけれど、感情を別々のカテゴリと区切るのって困難極まりないな…と思ってぐるぐる考えています。もしかすると、私は愛情よりも尊重みたいなものを重視しているのかもしれません。尊重という言葉も重すぎると感じるのですが、感情ではなく、お互い大切なものを損なわない関わりや行動というイメージで使っています。(たくさん自分語りをしてしまいすみません。あなたの言葉に触発される感覚があり、つい、いろいろ思いをめぐらせてしまいました。)
「人を愛せないことは深刻な問題」というのは、「人の根本的な心の働きの一つ」だからというよりも、最初にも書いたのですが、それが社会的に重視されがちだからではないだろうか…と思っているのですが、どうでしょうか。(もちろんそれを寂しく感じる気持ちもあなたの感情で、それを否定するつもりもまったくないのですが。)
人間にとって根本的な働きがどれかを決めるのは難しいですが、たとえば危機のときに闘争反応をすることも体にあらかじめ織り込まれたシステムのように思いますし、同じように感覚を閉ざして感じないままで済むようにすることも心身を守る原初的なシステムなのではないかと思います。もっと言うと、人間がやることとやらないこと、感じること、感じないでいること、悩むこと、悩まずにいられること…そのすべてが、人間である以上「人間的」なのではないでしょうか。
あなたの文章を読み、小説や映画などの中に「強烈な感情としての愛」ばかりではなく、植物を育てるような愛や、そういう感情を抱く人たち、あるいは他者に対して強い感情を持たないまま、それで責められることも困ることもなく日々生きている人たちがもっと描かれたらいいのに…と思いました。あなたの感じたことや、考えてきたことをまた教えてもらえたらうれしいです。投稿ありがとうございました。
感想2
とても興味深く、そして理解共感できることもたくさんあると思いながら読みました。あなたは「性格が悪い」という表現をしていますが、単に少し他の人と感覚が異なるだけなのではないのか、いやひょっとしたら似たような感覚を持つ人はもう少しいるのではないかと思う私もいます。
私も多くの人たちが心動く場面で自分の心が動かないことに気付き、逆にさーっと冷めていくような気持ちになる経験がわりとあります。理論的に礼儀正しくしていたら優しいとか愛情があるなどと、プラスに評価されることもありますが、そう評価されてもピンときませんし、あまり嬉しいとは思えず、むしろ本当の自分を理解してもらえないし、誤解をされているような気にもなります。
人を愛する感覚がわからないというのも、そんなにおかしなことではないと思っています。あなた自身は、自らの育ちの中で親からの愛情をあまり受けなかったからだと推測していましたが、それだけではないかもしれないと私は個人的には思っています。育ちや経験の影響もあるとは思いますが、感情の動き方にも生まれつきの個人差があるのではないかというのが周囲を観察した結果で得られた私なりの仮説です。つまり「心の動きの幅」にも個性があるように感じています。多くの人たちは幅が大きかったり、その動きが人生や生活の質を象徴している雰囲気があり、それを感じられない側はある種の疎外感を抱くのかもしれないと思いました。あなたの語り口から、そうした疎外感のような寂しさを感じ、あなた自身は自分に何か欠落があるのではないかと捉えているようにも思えました。
その背景には人間は概して、感化されやすい存在であるということが影響しているように思います。テレビや映画、漫画やアニメなど多くのメディアにおいて、「こういう時に感動はするものだ」とか「愛し愛されるのが幸せの形」というイメージの刷り込みが多彩に展開されていて、そのイメージに多くの人たちが自然な形で感化されていき、それが私たちの社会の前提になってしまっているように思うのです。本来、感じ方は人それぞれ違うと思うので、感動や愛情なるものも、一人ひとり異なり、その違いについて気軽に話したり、共有できる人が広がることが必要なのに、そのチャンスがとても限られているように思います。
普段から、自分が抱いていた違和感が強かったので、つい自分の考えをたくさん書いてしまいました。すみません。私は動かないものは仕方がないし、このままでいいかなと思い折り合いをつけていますが、あなたは「少し寂しい」と書いていました。そういった求める心の動きはきっとあなたの本音であって、子どもの頃に要求や願いに蓋をして生き抜いてきた影響もあるのかもしれません。
私は感情がそれほど動かなくても、本当は動きたいけど、育ちの影響で動くことを抑制していてもどちらでもいいと思います。感情には絶対的な正解はないですし、誰かが他の人の感じることの良しあしを評価することもできないと思います。ただ、もしも、あなたの中、私自身の中にも、感じることをそのまま受け止めることを制限や抑圧する何かがあるのなら、その存在には気づきたいと思います。また、それが私たちが暮らす社会によって制限や抑圧を強化するようなことがあるのなら、それに気づいて、自分たちのできることがないか考えたいと思いました。こうして、感情や心のあり方を疑問に思い、書いて送ってくれたことはそのできることの一つなのではないかと私は思っています。
感想1
読んでいて、世の中に「心」のやりとりを重視するべきという考えが強く流布していることについて改めて考えていました。そしてそれは人間の「心」に関わるすべてというよりも、「相手に共感する」「相手の様子に対応して心情のやりとりをベースに関わる」などの交流に重きを置く価値観ということなのではないかとも思ったりしています。
「ずいぶん性格が悪い」というふうに書いてあったのですが、そうなのだろうか?という気持ちになりました。私が感じたのは、どちらかというと、あなたにとって感情が動かない他者との関わりが必要な場面が多いということは、性格の良し悪しの判断の機会というより、まず単に疲れてしまいそうだなぁということです。「一時間くらい話していると体力の限界が来てボロが出る」というのは、それだけスタミナを使い続けるものだということでしょうし、「一人がいい」という判断も、あなたがそういう自分について理解を深めてきた結果ではないかと思いました。また、家庭環境を分析して、あなたの現状についても自分の視点から振り返り理解してきたことを感じました。あなたが感情を抑圧してきたことはその当時のあなた自身にとって不可欠だったのだろうな、と想像します。ただ、そのやり方では人に心を動かすこと自体が難しくて寂しさも感じるのだろうなと思いました。
「愛される」と「愛する」について、あなたの考察を読んでいて、改めて私も愛するとはなんだろう?と考えています。「小説や映画で描かれるような、他人に対する強烈な感情としての愛」は、家族にしても恋愛にしても、私自身もいまいちわからなくて、物語としては楽しめても、現実問題とされると乗れないなぁと思うことが多いので、ずっと結論が出ないテーマです。(ここで書かれている「愛情」というのは恋愛に限ったことでもないのかな?と言う気がするので、ちょっと狭めてしまうかもしれないですが、読んでいてアロマンティックという(ざっくりいうと、恋愛感情を持たないという)恋愛的指向を思い出しました。ちなみに私の周りにはアロマンティックを自認している人たちがけっこういますが、その中でも、物語と現実、他人の恋愛と自分の関係性…などでの感情の捉え方は当然ながら人それぞれだなと感じます。)
私は植物を育ててはそれなりに一喜一憂しているのですが、それが愛情かどうかというのも考えてみると難しいですね。グラデーションみたいなものはあるかもしれないけれど、感情を別々のカテゴリと区切るのって困難極まりないな…と思ってぐるぐる考えています。もしかすると、私は愛情よりも尊重みたいなものを重視しているのかもしれません。尊重という言葉も重すぎると感じるのですが、感情ではなく、お互い大切なものを損なわない関わりや行動というイメージで使っています。(たくさん自分語りをしてしまいすみません。あなたの言葉に触発される感覚があり、つい、いろいろ思いをめぐらせてしまいました。)
「人を愛せないことは深刻な問題」というのは、「人の根本的な心の働きの一つ」だからというよりも、最初にも書いたのですが、それが社会的に重視されがちだからではないだろうか…と思っているのですが、どうでしょうか。(もちろんそれを寂しく感じる気持ちもあなたの感情で、それを否定するつもりもまったくないのですが。)
人間にとって根本的な働きがどれかを決めるのは難しいですが、たとえば危機のときに闘争反応をすることも体にあらかじめ織り込まれたシステムのように思いますし、同じように感覚を閉ざして感じないままで済むようにすることも心身を守る原初的なシステムなのではないかと思います。もっと言うと、人間がやることとやらないこと、感じること、感じないでいること、悩むこと、悩まずにいられること…そのすべてが、人間である以上「人間的」なのではないでしょうか。
あなたの文章を読み、小説や映画などの中に「強烈な感情としての愛」ばかりではなく、植物を育てるような愛や、そういう感情を抱く人たち、あるいは他者に対して強い感情を持たないまま、それで責められることも困ることもなく日々生きている人たちがもっと描かれたらいいのに…と思いました。あなたの感じたことや、考えてきたことをまた教えてもらえたらうれしいです。投稿ありがとうございました。